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 外が白み始めていた。夜中の二時過ぎにベッドに入ったものの、ほとんど寝ることができず、部屋の明かりも点したまま横になっていた。テレビをつけて昨夜の事件の報道がないかリモコンのチャンネルを回していた。時折うとうとした記憶はあるが、三十分と寝てはいなかった。

 事件の一報が流れたのは、六時過ぎだった。民放の情報番組のニュースコーナーで原稿だけが読まれた。映像が無いところ見ると、まだ現場には取材に行っていないようだった。

「昨夜七時頃、河崎市美野里区の市営団地の敷地内で、住人が男性が倒れているのが発見しました。発見時、男性は既に亡くなっており、現場の状況から男性は頭部を鈍器で殴られた後、団地の屋上から突き落とされたものと思われています。

 死亡した男性は身に着けていた免許証から市内に住む小島淳二さん二十一歳と判明した。警察では小島さんがなんらかの事件に巻き込まれたものとみて捜査しています」

 キャスターは次のニュースを読み始めたが、僕は小島淳二という名前を必死で思い起こそうとしていた。聞き覚えのある名前だった。

 あっ、と叫びながら僕はベッドから起き上がった。

「小島、小島淳二」

 その名前は確かに記憶にあった。忘れもしない、絵美に事故で怪我を負わせた男の名前だった。

 なぜ小島があの場にいたんだ。電話の男は小島だったのか・・。わからない。

 事故当日は絵美の怪我の介抱で、小島のことまで見ている余裕はなかった。病院に入院している時に一度見舞いに来たが、声までは記憶にない。

 しかし、ひとつだけはっきりしたことがあった。警察はいずれ僕に辿り着く。小島の周辺を調べれば、八月の事故のことも出てくるし、その後絵美が自殺したことも分かるだろう。そうすれば、当然僕の名前も出てくる。見方を変えれば、僕は小島を殺す強い動機を持った人間なのだ。一番怪しまれてもしかたがない。しかも凶器に僕の指紋が付いているとなれば、言い逃れはできない。

 僕に捜査の手が伸びて来るのは時間の問題だった。僕はやっていない。それは自分が一番分かっている。でも、今はそれを証明することはできない。


 テレビのチャンネルを変えながらニュースをチェックしていたが、その後新たな報道は無かった。まだ警察が発表した最初の情報しかないのだろう。

 僕は自分がとるべき行動を迷っていた。

 自ら警察に出頭し事実を話しても、信じてもらえる可能性は低いと思えた。状況は著しく自分に不利なものだった。

 仮に一連の電話が小島からのものだったとしても、公衆電話からかけられてきたものだから証明する方法はない。小島の呼び出しに応じて僕が出向いたとしたら、警察はその場で何らかのトラブルが生じて、僕が彼を手にかけたと思うだろう。恋人を死に追いやった男を婚約者が復讐のために殺した、という話は筋が通っている。

 電話の男が小島で無いとしたら、一体誰だろう。そうだ、最初に電話をよこした男と、その後の男は明らかに声が異なった。少なくともふたりは存在するはずだ。そのうちのひとりが小島なのだろうか。

 どちらにしても、このまま自ら警察に出向くのは得策とは思えなかった。今日の仕事はどうしようか、と考えた。これでは仕事になりそうもない。明日は祝日だから、今日一日休んだ方が良いかもしれない。そうすれば、少しは捜査にも進展があるはずだ。年末が近づいたこの時期に、当日休みを申告するのははばかられたが、後で病欠ということで電話を入れることにした。

 それにしても、昨日の出来事の後で連絡がなかったということは、電話をよこした相手は小島だったか、あるいは当初の目的を果たしたということなのだろう。小島でなかったとしたら、男は初めから僕をあの場に引き釣り出すことが目的だったことになる。そうでなければ、改めて連絡があるはずだ。

 電話で言われたとおりの場所にスパナが置いてあったのが、何よりの証拠だ。男は僕にあれを触らせることを意図していたはずだ。指紋が付けば、当然のことながら僕は疑われる。しかも殺された相手が小島となれば、警察が僕にかける容疑は更に濃くなる。

ということは、あそこに僕を呼び出した男は、僕と小島のつながりを知っていたことになる。絵美のこうむったバイク事故は、死亡事故でなかったこともあり、新聞などの扱いも小さく実名報道もされていなかった。その後絵美が自殺したことなど、ごく身近な人間や病院関係者しか知らないはずだ。

 再びベッドに横たわり、天井を見つめて思案しているうちに僕は眠ってしまったようで、目を覚ましたのは十一時過ぎだった。慌てて会社に電話を入れたところ、幸いにも直属の上司は出張中だったので、オペレーター主任に熱があって休むことを伝えた。

溜息をつきながらベッドから出ると、空腹だったことに気付いた。冷蔵庫にはなにもなさそうだ。駅前に出てなにか食べてこようと思い、洗面所で顔を洗い、会社に行くわけじゃないから髭は剃らなくて良いかと鏡の中の顎を撫でた。

 財布と携帯電話をポケットに入れ、ブルゾンを手にして外へ出た。昼近いのに今日はかなり冷え込んでいる。階段を下りながらブルゾンに腕を通した。今の精神状態を象徴するかのような曇天だった。これでは午後もそれほど気温は上がりそうにない。


 なにも考えずに最初に目に付いた店に入ったら、天丼のチェーン店だった。入ってから、睡眠不足の胃にはきついかなと思ったが、後の祭りだった。野菜と海老の天丼を頼んだ。温かなほうじ茶が胃にしみた。店内は僕の他にふたりしか居なかった。まだ昼食には少し早い時間かもしれない。

 間もなく丼が運ばれてきた。油と天汁の香りを嗅ぐと、心配したようなこともなく食は進んで、最後に赤出汁を飲み干した。まだ胃は大丈夫なようだ。

 自宅にはインターネットにつながるパソコンがなかったので、ネットカフェに足を入れ、昨夜の事件について調べてみた。死体を見つけた住民の目撃談などはあったが、捜査に関する進展はないようだった。今のところ疑わしい目撃情報なども載っていない。警察が故意に隠している可能性はないとはいえない。

 どのこサイトを覘いても、大して変わりはなかった。事件の一報から一日も経っていないのだから、そんなものかもしれない。

 どうしたらよいものかと思案しているうちに、店内のデジタル時計が十六時を過ぎていた。僕は番号札を持って会計を済まし、店を後にした。

 陽が翳ってしまった公園には人影はなかった。元気な子供たちでも、この寒さの中では遊ばないのかなと思ったが、今の子供たちは元々インドアの遊びの方が主なのかなと思い直した。どちらにしても、こんな日に外で遊ぶ必要はないだろう。トレーナーの上にブルゾンを羽織っていても、首元や手は冷たく感じる。

 角を曲がって自分のアパートが見えると、白い車が目に付いた。この辺に車が停まっているのは珍しい。更に歩いていくと、アパートの自分の部屋の前にふたりの男が立っているのが見えた。直ぐにそれが刑事だと思い至った。一瞬足が止まりそうになったが、ここで不審な行動をすれば返って怪しまれると思い、極力平静を装ってアパートの前を通り過ぎた。

 微かに話声が聞こえたが、どうやら二人は今来たばかりのようで、僕の部屋に誰も居ないことを電話で報告していた。

 思ったよりも警察の動きは速いようだ。事件から一日も経たずに僕の存在を突き止めたようだ。おそらく凶器の指紋が誰のものかまでは分かっていないだろう。しかし、家の中を調べられ、僕の指紋が取られれば、いずれ凶器の指紋と一致する。そうなったら逃れようがない。

 アパートの前を通り過ぎ、次の角を曲がったところで、僕は会社に電話を入れてみた。ダイヤルインでオペレーションセンターの中につながったが、電話に出たのがあまり話したことのないスタッフだったので「竹内さんは手が空いているかな」と頼んだ。

 しばらく保留音がした後、玲子が電話口に出た。

「お待たせいたしました。お電話代わりました、竹内です」

「あ、岡本です。お疲れさま」

 玲子もお疲れさまですと返した。

「今、ちょっと大丈夫かな」

「はい、今日は室長は出張ですし、主任も今は席を外しています」

「そうか、ところで誰か僕を訪ねて来なかったかな」

 その問いかけに、玲子の反応が明らかに変わったのが電話越しにも分かった。声をひそめて、他の者に聞こえないようにしているのか、手でマイクを隠すようなこもった声になった。

「先程、警察の方がいらっしゃいました。何かお聞きになりたいことがあるとおっしゃっていたようですが、主任が対応して、休んでいることを伝えたら、自宅の住所を聞いていたようです」

 やはりあのふたりは刑事のようだ。会社に僕が居なかったので自宅を調べに来たということのようだ。

「岡本さん、なにかあったんですか」

「ああ、だ、大丈夫だよ」取り繕うとすると言葉がつっかえてしまった。

「なんか、絵美の事故を起こした男が昨日事件に巻き込まれたらしい。そのことで警察の人が聞きに来てたよ」

 玲子は電話の向こうで驚きの声を発した。

「昨夜の市営団地の事故って、あの人だったんですか」

「そうなんだ、それで僕にも話を聞きに来たみたいなんだ」

 僕は寒さの中、冷や汗をかきながら作り話をした。

 玲子は電話の対応中で直接主任と刑事のやり取りは聞いていなかったようだが、刑事が帰った後主任が部屋を飛び出して行き、傍で聞いていた同僚がみんなに話したらしい。主任は今頃会社の上司と僕のことを相談しているのだろう。今日会社に行かなかったのは正解だったらしい。

 今家に帰れば、きっと任意とはいえ警察に連れて行かれるだろう。そうなったらなにもできず、犯人にされてしまうような気がした。かといて、なにができるという当てもなかった。自分で無実を証明する方法などあるのだろうか。今は行く当てすらなかった。


 結局僕が選んだのは恵梨香だった。小島から僕へのつながりを探し出した警察にしてみれば、僕が家に帰れなくなった時に誰を頼るかと考えたたら、一番最初に考えるのは友達関係だろう。健一達を頼ったのでは直ぐに見つけられてしまう。本当は恵梨香を巻き込みたくはなかったが、警察が絶対に分かりそうもない人間を考えたとき、恵梨香の他に思いつかなかった。

 仕事が終わるであろう七時を待って、恵梨香の携帯を呼び出してみた。僕の方から電話したのは初めてだったので、驚いたようだった。

「もしもし、せいさん?どうしたの」

 僕が事情があって家に帰れないので、ちょっとかくまって欲しいというと、恵梨香は嬉しそうに了解してくれた。

「せいさんでも、そんなことあるんだ。ちょっと見直しちゃった」

 なにを誤解しているのか分からなかったが、とりあえず二十分後に駅で待ち合わせることにした。


 恵梨香が来るのを待つ間に、僕は駅前のスーパーで買い物をした。両手にレジ袋をぶら下げて改札を出てくる恵梨香を待っていると、さすがに驚いたようだった。

「せいさん、それなに?」

「これ?」僕は右手のレジ袋を持ち上げた。

「夕飯の買い出し。たまにはご飯作ってあげようと思って」

 恵梨香は大きな口を開けて笑った。

「嘘でしょう、せいさんちの台所見たけど、ご飯作れるって感じじゃなかったよ」

「まあ、なんとでも言ってくれ。味の保障はできないけどな」

 ジーンズに腿が半分くらい隠れてしまうようなゆったりした厚手の毛糸のセーターを着た恵梨香は、マフラーと同じ色の手袋もしていた。

「せいさん、その格好寒くない」

「実をいうと寒い」

「そうでしょう、寒そうだもん」

 そう言いながら、自分のしていたマフラーを解き、僕の首に巻いてくれた。僕は避けようとしたが、両手が塞がっていて何もできなかった。

「温かいでしょう。私が編んだんだよ」

「へえ、なんでもできるんだね」

 料理の腕だけでも驚いたのに、マフラーも売り物といってもよいくらいの出来栄えだった。

「その手袋もかい」

「もちろん、可愛いでしょう」

 恵梨香は両手を広げて手を振ってみせた。


「おじゃまするね」

 玄関で靴を脱ぎ、恵梨香の後に続いて部屋に入った。部屋に上がる前に、待ってようかと言うと、恵梨香は不思議そうな顔をした。急に人が来たのだから、僕だったらちょっと待ってもらって部屋を片付けないとと思ったのだが、その心配はないようだった。

 灯りが点いて現れた部屋はちょっと意外だった。部屋割りは僕より広い1DKタイプだが、ダイニングが意外に大きい。僕の部屋は食事も寝るのも一緒の部屋で、形ばかりの台所が付いているだけだ。恵梨香のダイニングには小さな丸いテーブルが中央にあり、椅子が二脚置いてあった。テーブルの中央にはレースの敷物があり、調味料が乗っていた。これも恵梨香が編んだもののようだ。

「何もなくて、びっくりしたでしょう」

 恵梨香が僕の気持ちを代弁した。

「いやあ、片付きすぎてて羨ましいくらいだよ。引っ越してきたばっかりって感じだね」

 それが素直な感想だった。僕が想像していたような、女の子の部屋らしい可愛い飾り物や装飾は全くといってよいほどなかった。奥の畳の部屋もドレスハンガーと小さな箪笥が見えるだけでだ。そういえばテレビもない。

「テレビ見ないの」

「家では見ない。別に必要ないから」

 それも意外だった。僕にしてみたら、恵梨香くらいの年齢の女の子達は皆トレンディ・ドラマのような番組を見るものだと思っていた。

「ラジオは聞くよ、FMだけど」

 恵梨香は畳みの部屋に行ってラジカセのボタンを押したようだった。ピアノの曲が聞こえてきた。

「ポップスじゃないんだ」

 音楽の趣味も僕のイメージとは違っていた。僕の前で笑顔を見せる屈託のない女の子の表情からはうかがい知ることのできない一面を垣間見た気がした。

「この曲、知ってる?」

 恵梨香の質問に、しばらくラジカセから流れるピアノの音に耳を傾けたが、僕の知っている曲ではなかった。

「ゴールドベルク協奏曲っていうの」

 僕が知らなかったのが嬉しかったのか、微笑んだ。

「FMで聴いてすごく気に入って、CD買ってきたの。最近はこればっかり聴いてる」

 僕が感心して頷くと、慌てて傍によって来た。

「ごめんなさい、荷物を持たせたままにして。とりあえずこのテーブルに置いて」

 恵梨香は僕の手ごと買い物袋を持ち上げ、テーブルの上へと移動させた。

「何を作るの・・、あっ、キムチ鍋ね」

 袋の中を覘いた恵梨香が叫んだ。どんな調味料があるか分からなかったので、キムチ鍋の素を買っておいた。これなら鍋ひとつあれば済むし、買ってきた食材だけで足りる。

「鍋を貸してくれる」

「えっ、本当にせいさんが作るの」

 セーターの袖を捲り上げた恵梨香の動作が止まった。

「そうだよ、鍋に入れるだけだもの、誰でも出来るよ」

 言いながら、恵梨香を椅子に座らせて、鍋の置き場所を訊いた。

 教えられた流しの下の扉を開けた時、包丁とざるも見つけたので、流しに乾燥してあったまな板を含め、必要なものが揃った。

 鍋をガスコンロに乗せてキムチ鍋の素を入れ、空になった容器に水を二杯入れて火をつけた。野菜を取り出し、ぶつ切りにして順番にざるの中に入れた。メインの具材は、悩んだ末に豚肉と安売りしていた牡蠣を選んだ。

「わあ、牡蠣も入れるんだ、美味しそう」

 背中から恵梨香の声がした。

「牡蠣好きかい」

「大好き、カキフライが一番好きだけど」

 僕は思わずくすっと笑った。

「どうしたの」

「実は、僕も牡蠣はカキフライで食べるのが一番好きだ」

 豚肉を切る僕の後ろで、恵梨香の笑い声が響いた。

「最後にうどんを入れようと思って、ご飯は考えてなかったけど、良いかな」

 振り返ると、うんと笑顔の恵梨香が頷いた。

 煮立ってきた鍋の火を弱火にし、蓋をして僕も恵梨香の向かいに腰掛けた。恵梨香はテーブルに両肘を載せて手を組み、その上に顔を乗せて眩しそうな目で僕を見ていた。

「どうしたの」

 しばらく恵梨香はなにもいわず、僕を見ていた。

「何か不思議な気持ち。男の人にこんなことしてもらうの初めてだし、落ち着かない」

「そうかい、恵梨香ちゃんなら可愛いから、作ってくれる男はたくさん居るだろう」

 恵梨香はなにも答えなかった。

「付き合っている人、いないの?」

 言ってしまってから、僕は後悔した。少なくとも、現在付き合っている男が居たら、公園で一晩過ごしたり、僕の部屋に来ることはなかったに違いない。

「ごめん、デリカシーのない質問だった」

 僕は恵梨香の答えを待たずに立ち上がり、鍋の蓋を開け、灰汁をすくってその場を繕った。ピアノの音がなかったら、気まずい空気だった。

 肉と野菜に火が通ったところで、牡蠣とネギを入れてしばらく煮込んだ。鍋敷がなかったので、雑誌を敷いてテーブルに鍋を乗せた。

 恵梨香が器に取り分けてくれた。

「恵梨香ちゃんみたいに本格的な料理は作れないから、こんなものだけど」

「ううん、お母さんや叔母さん以外の人にご飯作ってもらうのって初めてだから、嬉しい」

 ふたりでいただきます、と声を揃えて食べ始めた。

「美味しい」恵梨香が笑顔を見せた。

「キムチ鍋の素が良く出来ているんだよ」

 社交辞令でもそういわれると嬉しい。僕は嬉しさが顔に出るのを隠すように食べ続けた。

「お肉と牡蠣を一緒に入れるなんて、考えたこともなかった。男の人の料理だね」

「そうか、普通は肉系と魚介系は一緒に入れないか、そんなこと考えたこともなかった」

 ふたりは声を合わせて笑った。

 恵梨香は今日の店での出来事を話してくれた。こうしていると、どこにでも居る十代の女の子にしか見えない。でも彼女が時々見せる暗い影は、今目の前に居る姿からは想像できないものだ。

「ああ、もうお腹一杯だな。恵梨香ちゃん、うどん食べられる?」

「少しなら」

「じゃあ、一玉だけ入れようか」

 僕は鍋を持ち上げ、再びコンロにかけ、冷蔵庫に入れておいた湯でうどんを一袋入れた。

「やっぱり男の人ね」

 恵梨香の言いたいことが分からなかった。何度か問い詰めて、やっと教えてくれた。

「おうどんは、鍋に入れる前にさっと洗った方が美味しいよ」

 いわれてみれば、僕の料理は自己流だから、そんなことには無頓着だった。鍋の灰汁を取ることさえ、絵美に教えてもらうまで知らなかった。

 食事の後片付けは恵梨香がやってくれた。

「暖かいもの入れるけど、せいさんはコーヒーが良いかな」

 恵梨香が普段コーヒーを飲んでいるようすがないのは知っていたので、紅茶をリクエストした。

 マグカップの紅茶をテーブルに並べると、恵梨香は仕事に持って行ったバッグを探しに奥の部屋へ行き、店から持ってきたお菓子を手にしていた。

「ところで、せいさん。何があったの」

 恵梨香にいわれるまで、事情を説明していなかったことすら忘れていた。

「そうだね、肝心なことを言い忘れていた」

 僕は入れたばかりの熱い紅茶を火傷しないように一口だけ啜って話し始めた。


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