プロローグ
僕はいつものように、睡眠と覚醒の狭間で朝が来るのを待っていた。今日も四時過ぎに一度目が覚め、その後目は閉じているものの深い眠りにつくことは出来ず、時々デジタル時計の表示を確認しては、また目を瞑ることを繰り返していた。休みの日ならこのまま起きて布団の中で本を読んでも良いのだが、仕事があることを思うと少しでも眠っておこうと思い、また無駄だと分かっている行為を繰り返していた。
何度かそれを繰り返すうちに、時計の表示が七時二十分となった。あと十分間目を瞑っていたところで何も変わらないと自分に言い聞かせ、ベッドを抜け出した。目覚まし代わりに使っている携帯のアラームをオフにした。このところ、アラームを鳴らした記憶が無い。
暖房を使うほどではないが、部屋の中も寒くなってきた。今年もあとひと月も無くなったことを実感する。窓を開けて、外を見回す。薄曇りの空だが、雨が降りそうな程ではなかった。風は無いものの、ひんやりとした空気が部屋の中に押し入ってきた。冷気が靄ついた頭をすっきりさせてくれる。窓のから見てやや左、朝日が見えるはずの方向に建築中のマンションがそびえている。既に日の出を拝むことはできない高さになっていた。
窓はそのままに開け放ち、台所へ行き薬缶に水を入れた。中学からの親友の健一が、大学時代に僕の部屋に泊まった時の言葉を思い出した。
「朝、最初に蛇口から出てくる水は、ずっとそこに残っていた水だから、死に水だ。だから、俺は飲まない」
三十秒以上水を流しっぱなしにする健一を不思議な想いで見ていたが、いつの間にか自分も同じことをするようになっていた。
トイレに入り顔を洗って戻ると、薬缶から白い湯気が上がっていた。コンロのスイッチを切り、マグカップにドリップ式のレギュラー・コーヒーのパックを乗せ、お湯を注いだ。そんなに高いコーヒーではないから、香りを感じるのは初めだけだった。それとも、僕の鼻は匂いに慣れるのが早いのだろうか。
冷蔵庫から牛乳の小さなパックを出し、コーヒーに加えた。以前はブラックで飲んでいたが、最近は胃の調子が良くないので、ミルクだけは入れるようにしていた。牛乳だけを飲むことはほとんど無いので、買ってくる牛乳は一番小さな二百ミリリットル入りのもので十分だった。それでも賞味期限ぎりぎりにやっと使い切るのが常だった。
僕の部屋は不動産屋の表記的にいえば1K。六畳に押入れ、玄関に隣り合った台所とバス・トイレの部屋だ。このクラスの部屋だと風呂付を探すのは大変だったが、部屋は狭くても良いから風呂だけはどうしても欲しかった。
玄関ドアから突き出ている新聞を抜き取り、ベッドを背もたれにして座り、テレビのリモコン・ボタンを押した。決めている番組はないが、あまり司会者が元気すぎる番組は敬遠してしまう。かといってNHKのニュースは味気ない。
昨夜、帰る途中にコンビニで買った菓子パンを袋から出して口にくわえた。新聞を捲るが、これといって興味を引くような記事は目に入らなかった。最後まで目を通した新聞を畳んでテーブルに置き、パンを引きちぎり咀嚼した。朝はなるべくパン一個は食べるようにしていた。三カ月前にはトーストも一枚では足りず、サラダも食べていたことが信じられなかった。味わうことも無く胃の中にパンを詰め込むと、残っていたコーヒーを流し込み、しばらくテレビの画面をぼんやりと見つめた。
画面の時刻表示が八時に近づいているのに気付いて再び洗面所へ向かい、シェーバーのボタンを押した。最近切れ味が鈍っているようで、時々痛みを感じたり顎を傷つけることがあった。替え刃だけを買っても新品を買った時と大してかわらないことを思うと、買い換えた方が良いかなと思ってしまう。シェーバーだけは学生時代から、同じメーカーのものを使い続けていた。二度ほど他のメーカーのものを買ってみたが満足が得られず、直ぐに買い直してしまった。それ以来、他のメーカーの製品は買わないことにした。
歯ブラシ立てから緑色のブラシを手にする時、隣に並ぶピンクのブラシを目にして、気持ちが沈み込みそうになった。何度か捨てようかと思ったが、未だにそれができない。歯ブラシを銜えたままパジャマを脱ぎ、ベッドの上に放った。クリーニング屋の袋からワイシャツを取り出し、袖を通した。ボタンを掛け終え、しばらくブラシを動かす。ネクタイは歯磨きを終えてからにしないといけないことは、身を持って学習済みだ。
会社には特に持っていく物は無かった。ここ数年はいつも手ぶらで通勤していた。背広のポケットに無意識に手を入れて、煙草をやめたことを思い出した。絵美と付き合いだしてから半年くらいしてからだから、もう二年近く続いていた。絵美と居る時は吸いたいと思わなかったが、最近手持ち無沙汰な時には煙草を探している自分に気付くことが多くなった。でも、それほど強い欲求ではなかった。ああ、やめたんだと思い出すと、どうでもよくなった。
足音が良く響く階段を下りて駅へと向う道を歩き出す。後ろから追い越して行くふたりの小学生の吐く息が白いのに、冬が近づいているのを実感する。また季節が変わろうとしている。なのに、変わることの出来ない自分がいる。いつまでこの状態が続くのか、自分でも分からなかった。
駅までの道程の中程に、公園がある。砂場やブランコ、雲梯などの遊具も揃っていて、この辺りでは僕が知る限り最も大きな公園だった。回転式の遊具は最近頻発している事故のためかロープが張られ、使用禁止の札が張ってあった。
公園の奥のベンチに、ダークブラウンのダッフルコートを着た女性が座っていた。そういえば、昨夜九時頃に帰る時も見かけた気がした。まさか、昨夜からずっと居るわけではあるまいが、昨夜は公園内の外灯でコートの色もはっきりしなかったが、同じベンチにいることは間違いない。眠っているのか考え事をしているだけなのか、足を前に伸ばし、コートのポケットに両手を入れ、頭を前に傾けているので髪で顔は見えなかった。
ちょっと気にはなったが、そのまま駅に向って歩き続けた。




