082 【 二人の逃避行(1) 】
「ハァ……ハァ……ヒィ……どうして……どうしてこんな……!」
コンセシール商国、キスカ家渉外担当官であるサイレーム・キスカは、何も持たずに山中を走っていた。いつもキッチリと整えられたグレーの髪はボサボサで、スーツもボロボロ。ズボンは裾だけでなく、膝や尻までも土で汚れている。相当何度も転んだのだろう。
「国防軍最高意思決定評議委員副委員長殿がゼビアを裏切ったからでしょう。今更、確認が必要ですか?」
横を並走する少女、マリッカ・アンドルスフは涼しい顔でそう答える。一緒になって走っているはずなのだが、彼女の服は綺麗なままだ。だがタイトスカートの左右には深い切れ込みが入っており、青のスーツの胸元から覗くブラウスは汗で透け、僅かに紫色のブラが見える。
二人とも、人馬騎兵の組み立て拠点が攻撃を受けた際に、慌てて逃げだしていた。攻撃して来たのは、勿論コンセシール商国の飛行騎兵隊。指揮をしていた人間は、改めて考える必要も無いだろう。
「ほ、他の……ハァ、フゥ……みんなは……どうなったかな?」
「逃げきれていなければ、死んでいるでしょう。ゼビア軍か……もしかしたら、味方の攻撃に巻き込まれた可能性もありますしね。私達が街にいたのは運が良かったと思いますよ」
「君は……どうして……そんなに平然と……」
しかし、そんなサイレームの言葉を遮り――
「無駄話はここまでにしましょう。敵です」
「敵……!?」
慌てて周囲を確認すると、後方、そして進行方向から大勢の人間の気配がする。大した功績は立てていないが、一応はサイレームにも軍役の経験がある。その程度の事は解るが……。
「いくら何でも多すぎじゃないのか? 俺達はただの商人だぞ」
マリッカと共に大きな木を背にしながら不平を漏らす。察する気配からすると、数百人はいるだろう。
一応は、飛甲騎兵隊に対抗する手段が無いから、せめて地上の商国人だけは殺そうと考えた……と言う事も考えられる。だが現実的ではない。
それにまだ遠いが、たった今、遠くで一本の木が倒れた。それが何であるかは予想が付く。だが、こんな少人数の山狩りに投入することは有り得なかった。
メキメキと音を立て、さほど太くも無い木が倒れる。木々の多い山中だが、足元の草はそれほど多くなく、凍った大地は土が剥き出しになっている部分が多い。そんな場所を、ミシミシと氷と土を踏みしめる音、そしてモーター音を立てて重甲鎧が進軍する。
体高はおよそ2.9メートル。太い手足に幅広の体。頭は|アヒルの様に先の尖った兜の形状だ。全身は黄色く塗装され、中央にある五角形に五本の爪の紋章は違いなくゼビア王国の物。手には2.5メートルの大斧を持つ。
周囲を固めるのは半身鎧を纏い、剣を持った正規兵が10人前後。それに、弓矢と粗末なナイフや鉈で武装した二百人近い民兵団だ。
それを遠くに視認し、マリッカは思案を巡らせる。
(重甲鎧まで出してきましたか……)
通常、重甲鎧は長くは使えない。強力な力に対し、魔力消費が高すぎるためだ。普通の人間でせいぜい4時間。マリクカンドルフの様なタフガイでも7時間が限度だ。しかも一人では着られない。利便性を考えれば、通常は山狩りの様な作業に使うものではない。
考えられる事は2つ。
この逃走ルートを予想されていた。もう一つが、ここにいる二人のどちらか、もしくは両方を絶対に消したいと考えていると言う事。
「リッツェルネールは、いったい何を考えているんだ……」
サイレームのその言葉は、マリッカと同じ結論に達したのか、それともこの状況になった事への不平かは不明だ。しかしどちらにせよ、愚痴など聞いている余裕はない。
「僕達だっているんだよ。それを……なんで……」
(ああ、そっち)
どうやら後者の様だ――そう考えると同時に、随分と平和な人だなと思う。
「あの彼が、そんな些末な事を考慮に入れると思いましたか?」
「僕たちの命が些末なのかよ!」
「いたぞー!」
「あっちだー!」
サイレームの声は決して大きくはなかったが、それでも冬の山では思うよりも響く。しかも相手こういった地形に慣れ親しんでいるゼビア兵だ。
マリッカとしては、彼の迂闊さに一言苦言を呈したいところであった。だが、どうせ数分もすれば見つかっていただろう。休憩時間がほんの少し減っただけの事だ。
「どっちが前衛で行きます?」
マリッカは選択肢があるように尋ねるが――
「僕は素手だよ! 武器なんて持ってないよ!」
サイレームは諸手を挙げるが、自慢出来る事でもないだろう。だがマリッカも、手に持つのは刃渡り20センチの小剣が二本。それなりに高価な物で耐久性も高いが、あの人数相手では心もとない。しかも鎧を着ていないのだから、矢が一本当たった時点で終わりである。正直言って、今の状況ではどちらが前衛でも変わりは無い。
「では私が前衛で行きますので、貴方は後ろに付いてきてください」
見捨ててしまえば話は簡単なのだが、いかんせん彼の護衛で来ている立場だ。職務上、それを放棄する事は出来ない。
(いっその事、死んでくれないかしら……)
〈 物騒な事は考えないのよ、一応女の子なんだから 〉
マリッカの耳元で、男性とも女性とも言えない不思議な囁き声がする。
(アンドルスフは黙ってて)
もう時間切れだ。民兵は目の前にまで迫っている。
「あの木の影だ! 囲め!」
足の速い民兵が先に到着し囲もうとする。
その瞬間、まるで地を這うような低い姿勢で飛び出したマリッカの刃が、一人の民兵の喉を裂く。
「付いて来てください!」
真っ赤に噴き出した血が今まで隠れていた木を染めた時には、マリッカはもう駆け出していた。
同時に目の前にいた民兵二人が、腹と左手を斬られ、悲鳴と共に地面に転がる。
「わああぁぁぁぁぁぁ!」
情けない叫び声と共に、サイレームも大慌てで後を追う。逸れたら確実な死だ。彼らは決して、裏切り者の降伏など許しはしない。
「逃がすな! 追い込め!」
民兵達の動きも俊敏かつ正確。しっかりと統率の取れた動きで獲物を追い詰めて行く。彼らもまた、サイレームの様な軍役経験者。鎧を着ていない以外は、通常の兵士とさほど変わらないのだ。
(斜面の下は、しっかりと押さえられていますね……)
山中は多くの木々や起伏、所々にある急斜面や崖と様々な地形で複雑に構成されている。そのため、動けるルートは意外と限られてしまう。
手っ取り早く斜面を降りたいが、その下には民兵団が控えている状況だ。降り切った処で、直ぐに包まれて終わりだろう。
「くたばれ!」
そんな思考の一瞬のスキをついて、木の陰から正規兵の剣が降り下ろされる。
刃渡り170センチ、刀身幅1センチ、堂々たる大剣に重装甲の鎧。
だが次の瞬間、マリッカの短剣が正規兵の胸甲を貫いた。
周りの兵士達は、一瞬の出来事でよくわからなかった。
振り下ろされた大剣を右の短刀で受け止め――いや、バターの様に切り裂くと、半回転して左の短剣を突き立てたのだ。胸甲の厚さは約7センチ。だが突き刺した時、それは一切音を立てなかった。
引き抜いた時に鎧がずれたのか、空いた穴でなく鎧の隙間から大量の血が流れ出す。
人類の武器も鎧も普段は柔らかく、硬さは双方の魔力差によって変化する。だがあくまで金属は金属だ。それをいとも容易く貫き通す梁力と魔力差。
彼女を囲む兵士達の顔つきが変わる。ウサギを狩っていたら熊に出会ってしまった。まさにそんな心境だったに違いない。
兵士達は次手を考え一歩下がる。だがマリッカからすれば、この好機は逃せない。
逆に一気に距離を詰め、思考が定まらない兵士の心臓を一突きにすると、横にいた民兵の首を裂く。
「か、囲め! 押さえつけろ!」
数人の民兵が武器を捨て掴みかかってくる。死を覚悟した特効だ。捕まったら最後、そいつを殺したところで動きを封じられ殺られてしまう。まるで蠢く死体を相手にしているようなものだ。
避け、躱し、掴まれたら即その腕を切り落とし、心臓を突き動きを止め……20数人を屠った頃には辺りは血で真っ赤に染まり、彼女のスーツも数ヶ所が切り裂かれていた。
だがまだまだ兵士も民兵も集まってくる。その数はおよそ50人。
更にその中に、ひときわ早く巨大な人影が凶悪な得物を構えて目の前に迫る。
「くだばれ!」
マリッカの身長より遥かに巨大な戦斧が、彼女の体を右から左へと薙いだ。
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