049 【 赤く、白く 】
その頃、セプレニツィー平原にあるスパイセン王国駐屯地では、防衛の支度が整えられていた。
北に位置するカルタナ盆地に駐屯していたマリセルヌス王国軍は撤退。
そしてリアンヌの丘からは襲撃に備えて待機、もしくは後退という指示が出たためだ。
「我々には、後退するだけの余力は無いのである……」
震える細く白い手で、伝令文を握りつぶす。
かつては84万人の兵を擁する大規模駐屯地であったが、白き苔の領域への突入戦で輸送手段である飛甲板は全損。兵員もほぼ半数を失った。飛甲板は補給物資を運びながら少しずつ補充しているが、現在残っている40万人を運ぶにはとても足りたものではない。
元より、援軍を要請されても徒歩で移動するしかない状態であった。
ただ幸いにもこの領域跡地は水も緑も豊かであり、40万将兵が飢えずに生活できたことが唯一の慰めだ。
周囲から完全に孤立した状態。それがこの“有能ではないが無能でもない“の異名を持つシコネフス・ライン・エーバルガット王と、その将兵が置かれている状態だったのだ。
だが今、この地に漆黒の巨大ムカデが迫りつつあった。
突如として響き渡る雷鳴と閃光。 シコネフスはすぐに、それがなんであるかを理解した。
「各自状況報告である! 慌てず対処するのである!」
純白に金の縦一本線の全身鎧を纏い、同じく白のマントを羽織る。そして手に全長210センチの戦斧を掴むと、他の兵士らと供に外へ駆け出る。
(この雷光は……間違いないのである……)
天幕の外、そこでは兵士達が緊急事態に――いや、あまりの惨事に驚愕している。魔人スースィリアは、彼らの足である馬、そして飛甲板を最初に破壊したのである。
――コンドハ、ニガサナイ
「やはり来たか、化け物! 総員攻撃を開始するのである!」
王の号令と共に、巨大ムカデへと一斉に攻撃を仕掛けるスパイセン王国兵士。
しかし、高速で動き回り踏み散らかし蹂躙する巨体に対し、生身の人間では有効打を与える事は困難だ。近くにさえ行く事が出来無い。
運良く近くに行けた者、それは逆に運悪く魔人スースィリアに狙われた者だ。
何とか一撃を当てるも、その武器は易々と砕かれ、肉体は曳き潰されて無残な肉塊へと変わる。
「これでは戦いにもならないのである……」
ただでさえ白い顔面が蒼白になる。だが怯んでいては被害が拡大する一方だ。
こうしている間にも兵士達の絶叫は響き渡り、潰された兵士達が血を詰めた風船を割ったようにあちこちで血飛沫を上げる。
「グレイフォン! クレイマス! アルドニオス! イージャム!」
すぐに近くにいた将達を集め指示を出す。
皆百年以上シコネフスに従ってきた歴戦の猛者であり、スパイセン王国軍の軍事を支えてきた名将達だ。
「近くに必ず魔王がいるはずなのである! 各隊を率いて散開! ここは我が隊で引き受けるのである!」
王の命を受け、すぐさま部隊は四方に散る。一見混乱しているような戦場にありながら、無駄のない完璧な統制だった。
――ワカレタ
魔人スースィリアは、こういった時の対処法をよく理解していた。
先ず最も大きな群れに近づき――
「 クレイマス様、ムカデがこちらに! うわあぁぁああ!」
最大の集団を率いていたクレイマス将軍を巨大ムカデが襲う。正確に指揮官を狙い潰されたクレイマス隊は、まるで蜘蛛の子のように散り散りになって四方に分散する。
だがそれには目もくれず――
「 グレイフォン将軍、今度はこちらに向かってきます!」
「くそ! 反て……」
振り向こうとしたグレイフォン将軍の上半身は噛みちぎられ、下半身は数百メートル彼方まで投げ捨てられる。
――ツギニ、オオキナ、ムレハ
イージャム将軍の将兵を踏み潰しながら追い抜くと、くるりと反転し襲い掛かる。兵士達の絶叫と飛び散る肉片。細かくミンチにされ、ばら撒かれ、もうどれがイージャム将軍なのかは誰にもわからなかった。
その攻撃の流れを見て、シコネフスは悟った。奴は我々を皆殺しにしようとしているのだと。
魔人スースィリアは人間の群れを率いる者を殺し、指揮系統を破壊して拡散させる。それが終わったら残兵には目もくれず、次ぎに大きな群れで同じことを行う。そうして兵達は次第に収拾を欠き、右も左も分からない状態で一方的に嬲り殺されている。
「だが意図が分かれば読むのもたやすいのである。クラキア!」
シコネフス王の指示を受けたクラキア将軍は散り散りになった兵を糾合すると、魔人スースィリアの襲撃前に素早く分割。それぞれの隊はさらに細分化しながら全方向へと散って行く。その中で最大の集団、クラキア将軍の部隊に魔人スースィリアが迫る。
だが――
「今なのである! 放て!」
クラキア隊が左右に分かれると、そこにはずらりと並ぶスパイセン王国が誇る攻城用の投擲槍。それが一斉に魔人スースィリアに向けて放たれた。
◇ ◇ ◇
コンセシール商国の駐屯地では、大騒ぎの中で撤収準備が進められていた。
余分なものは一切詰まず、出来る限りの人員を乗せ、飛甲板や飛甲騎兵が出撃して行く。
それを見送りながら、イリオン・ハイマーはリッツェルネールへの報告書をまとめていた。
他にも駐屯地には100名ほどの男女が残る。彼らは非登録市民。正規の戸籍や証明書を持たない者達。
壁から魔族領に入る事は簡単だ。それを越えるという事は人類のために死ぬという事なのだから。だが戻る事は出来ない。魔族の可能性があるものは、決して侵入できない鉄壁のセキュリティによるためだ。
だから、イリオンは帰還者にはなれない。それは勿論、覚悟の上だった。
そして今、全てを知った上で冷静に書類を整理する。
左目には少し欠けた片眼鏡。目の前にはバラバラになった通信貝の中身。
彼女はリッツェルネールが思っていたより、ずっと優秀だった。
僅かの間に通信貝の扱いを習得し、破壊された残骸の中から必要な情報を抜き出していた。そして、急ぎその内容を暗号にして書き写す。
解読用コードは自分の誕生日にした。これは家族か彼しか知らない事。仮にこの書類が別の誰かの手に渡っても、それを知らなければそう易々と解読することは出来ない。
逆に、きちんと彼の手に渡ればすぐに気が付くだろう。彼は優秀な人だ。
これを見たら、彼は喜んでくれるだろうか? 褒めてくれるだろうか?
出来得るならもう一度会い、直接渡し、喜んだ顔を見たかった。
その気持ちは何なのだろうか? イリオン自身にも分からない。
だが、そんな事を考えている時間は与えられてはいない。地響きと土煙を立てながら、それが迫ってくる。白き苔の領域からあふれ出た物。通り道にある全てを喰らいつくしながら進軍する真っ白い魔族。
「これからアレに、殺されるんすね……」
億を超える巨大な軍隊蟻の群れが、コンセシール商国の駐屯地を飲み込もうとしていた。
◇ ◇ ◇
「あれが報告にあった溢れた大地か……」
上空400メートルからその様子を観察するリッツェルネール・アルドライトとケインブラ・フォースノーは、それが生物の群れだとすぐに分かった。
だが大きすぎる。そして多すぎる。
軍隊蟻の大きさはおよそ1メートルだが、巨大な顎を持つ5メートルクラスの兵隊蟻も混ざる。数は見えている範囲でも数千万、全体なら億を超える数だ。報告によると、これが数ヶ所で確認されているらしい。
こんなものが本格的に活動を開始したのだとしたら……。
「一度攻撃を試します。ケインブラは記録を」
「ああ、任せる。だが突撃だけはしないでくれよ」
飛甲騎兵を高度100メートルまで降下させ、射出槍による攻撃を敢行する。
距離があるとはいえ、並の人間の重甲鎧程度は打ち抜ける威力だ。だが弾かれる。目標の硬度はそれ以上と言う事か。
これでは歩兵などが立ち向かっても、ひとたまりもあるまい……。
「門には報告を入れた。現在ブロネクス王国軍が防衛準備中だ。まぁ、気休めにもならないだろうがな」
気休めにもならない――確かにケインブラの言うとおりだ。人類の生存圏は絶対不可侵の壁で守られている。逆に万が一それが破られれば、もうどこの国の軍がいようが関係ない。蹂躙されるだけだ。
「僕たちは駐屯地に向かいます」
「あそこはもう撤退しているはずだ。だがまあ良い、君に任せるよ」
リッツェルネールが到着した時、コンセシール商国の駐屯地は既に無数の巨大軍隊蟻によって飲み込まれていた。
それはまるで、津波にあった街の様。駐屯地に設けられた小さな防塁や建物など簡単に乗り越えられ、すでに地面のほとんどは建物の起伏など判らぬ位に白く染まっている。
だがその中に――
「イリオン!」
ひときわ高い屋根の上で、イリオンは一人奮戦していた。
だが持っていた粗末な小剣で軍隊蟻を倒すことなど難しく、逃げて逃げて逃げ回り追い詰められていたのだ。
ここで死ぬ事からはもう逃れられない。でももし奇跡があるのなら――
そう考えていた彼女の目の前に、飛甲騎兵のハッチを開けたリッツェルネールが現われる。
右手で騎体を制御しながら、限界まで左手を伸ばしてくる。
白に近い淡い栗色の髪が風に揺れ、その緋色の瞳は真っ直ぐにこちらを見つめている。
(ああ、まるで王子様みたいっす……)
すぐに左手でその手を掴むと、剣を捨て、腰に下げていたメリオ・フォースノーの通信貝の残骸と、書き留めた書類を飛甲騎兵に放り込む。
彼と過ごした日々は楽しかった。また会ったら沢山話したいことがあった。しかしイリオンは、それよりも彼が一番知りたがっているだろう情報を優先した。
「中央センベルエント銀行、番号と暗証は記念コインっす!」
叫んだイリオンの右脹脛に軍隊蟻の牙が突き刺さる。そして彼女の細い腰にも同様に別の軍隊蟻の牙が貫通する。
巨大な蟻達に引っ張られ、互いに結んだ人間の手など簡単に外れてしまう。
(私は、役に立てたっすか……?)
イリオンにはわかっていた。もう間に合わないことも。仮に奇跡が起きても、壁を越えて戻るなど出来ない事を。
それでも会えた。これを奇跡と言わずして何というのだろう。そして、彼が喜ぶ顔を見る事も出来た……。
「こちらも限界だ! 上昇しろ、リッツェルネール!」
既に、飛甲騎兵にも軍隊蟻が取り付きつつあった。
すぐに騎体を横一回転させると同時にハッチを閉じ、張り付いていた軍隊蟻を振りほどいて上昇する。
イリオンが飲まれた場所は一瞬だけ赤く染まっていたが、すぐに彼女の短い人生のように白い色に塗りつぶされて消えてしまっていた。
「危なかったな。彼女は逃げ遅れた兵士か? な、何か叫んでいたようだったが……」
リッツェルネールは深呼吸をして心を整える。
彼自身も察していた……ギリギリ間に合わなかった事を。
だが、それなのに彼女の言葉を聞いた時、心が喜んでしまった。その情報を知りたかったとは言え、目の前で死に逝く少女よりも魂はそちらを優先したのだ。
(僕にはもう、人の心なんか残ってやしない……)
一方で彼は、金属の板越しに座っているもう一人の男の微妙な動揺を感じ取っていた。
そして――
「センベルエント銀行貸金庫、3257ー455ー1420。貴方なら意味はわかりますよね」
ケインブラは戦慄していた。冷汗が流れていくのを感じる。先ほどまでの死ぬかもしれないという恐怖とは別のモノ。
(いったいどこから計画していたのだ。会食に行く途中で彼を見つけたのも、誘ったのもこちら側だ。そしてアイオネアの門があるランオルド王国に用事があったのは私だけ。そして駐屯地への緊急飛行。あの情勢ではそのまま門を越えるのは自然流れだ。あそこからここまで来るのにはきちんと意味があった……)
だが、この世人を決して許さぬ二人だけの状態で、付きつけられたナイフのような言葉。
それは情報専門のフォースノー家……いや、コンセシール商国の暗部。魔族領侵攻で溜まり貯まった膿の隠し場所。
メリオ・フォースノーの戦死によって、この世から完全に消えたはずの情報だった。
「僕の部隊で不正が出来るのは、副官であり情報通信士である彼女しかいなかったのですよ」
冷たく感情の無い声でリッツェルネールが言葉を続ける。
「時間はあります。色々と話をしましょう」
(もし全てが計画してあったのなら、貴様はもう人間ではないぞ、リッツェルネール!)
ケインブラの真っ赤なドレスは、ぐっしょりとした汗で肌に張り付いていた。
この作品をお読みいただきありがとうございます。
もし続きが気になっていただけましたら、ブクマしてじっくり読んで頂けると幸いです。
この物語がいいかなと思っていただけましたら、この段階での評価も入れて頂けると嬉しいです。。






