悪夢のジェットコースター
池から這い上がった道也は、男の子を抱きかかえたまま後ろを振り返った。
ちょうど、いかだの中央から飛び出した黒い怪物に、博史が折れた棒を突き刺したところだった。黒い怪物がいかだを突き破って上空に伸び上がり、その先端を前後左右にうねらせる。棒を握ったままその先端で振り回されていた博史が、ついに手を離し宙を舞う。
「あっ!」
だが、幸いにして博史は、岸近くの水面に落ちた。
しばらくすると、水中から顔を出し、岸へとたどり着く。
博史の方にばかり注意していた道也は、黒い怪物の方を見てぎょっとした。
さっきまでの太い棒のようなものが、横に縦に膨らみ始めた。
そして、手のようなものがにょきっと横から生えると、頭頂部に突き刺さったままの棒を握って引き抜いた。
反対側からも手のようなものが生え、蛇のような体から人の形に変貌しつつあった。しかも、それはどんどん大きくなる。
「まずい」
道也は、男の子を抱きかかえたまま、草むらに飛び込んだ。
後ろを振り返る勇気はなかった。とにかく、ひたすら走り続けていると、草むらが途切れ、アスファルトの道路に出る。
目の前に建物があった。その建物からはジェットコースターのレールが、夜空に向かって伸びている。
入り口には、「スペーストラベル」と書いた看板がかかり、宇宙空間をジェットコースターが飛んでいる絵が描かれている。
助かった。
あの建物に飛び込んでしまえば、あんなでかいやつは入ってこられない。
道也の思考の中に、黒い怪物の力がどんなに大きいものかという尺度はなかった。巨大怪獣は、たいてい目の前に邪魔な建物があると叩き壊すものだ。
だが、混乱した人間の頭脳は、自分の都合のいいことを優先して考えてしまう。道也もそうだった。
道也は、ジェットコースターの建物の入り口で振り返った。
その笑顔が固まる。
黒い怪物が上から崩れ始めた。
いや、崩れているのではない。小さく分裂して地上に飛び降りているのだ。
あの小ささなら、この建物にも入ってこられる。
「隠れるんだ!」
道也は、男の子を下ろすと、手を握って建物に飛び込んだ。
入ってすぐ横に扉がある。道也は、扉を開けようとするが鍵がかかっている。
「くそ、だめだ」
建物の中は、壁一面、天井も、美しい宇宙の絵が描かれている。だが、身を隠せそうな場所はどこにもない。ジェットコースター乗り場へと続く階段があるだけだ。道也は、男の子の手を引いて階段を駆け上がった。
だが、そこにも隠れられそうな場所はない。
乗り場には、ジェットコースターが止まっている。10年以上、誰にも乗られることもなく、そこに佇んでいたジェットコースター。道也は、そのボックスに扉がついているのに気づいた。
ジェットコースターに近づく道也。足を置く部分は意外と深い。これなら、体格のいい道也でもなんとか身を隠せる。
道也は扉を開いて、足を置く部分に身をかがめてみた。
十分扉の陰に隠れる。
男の子も乗せようとするが、道也が手を伸ばしても乗ろうとしない。
「奴らが来ちまう!早く乗れよ!」
ひそひそ話をするような小さな、だが気迫のこもった声で話しかける。
それでも、男の子は動こうとしない。
道也は、扉から出て男の子を抱きかかえると、ボックスの中に戻った。
男の子は、道也の手の中で暴れ、ボックスから出ようとする。
「おい、こら!おとなしくしてろ!見つかっちまうだろ!」
道也は、扉から少し顔を出して、乗り場に入る入り口を見た。
分裂した黒い怪物の姿は見えない。
道也は、ボックスの中に戻った。
道也の視線が上を向く。
見たくないものが見えた。
視線の隅っこ、乗り場の天井の一部が黒く染まっているのに気づいてしまったのた。
その黒く染まった部分が道也たちのいる方に向かって動いてくる。
特撮の映像を見ているような錯覚に陥った。
だが、それは間違いなく道也たちの方に動いてきていた。
見つかった!
道也がボックスから出ようとした途端、突然ジリリリリリとけたたましい発車のベルが乗り場内に響き渡った。
発車のベルが鳴り終わると、それに答えるかのようにジェットコースターがガタツと揺れた。ゆっくりと乗り物全体がレールの上を滑り始める。
なぜ、動き始めた?
道也の頭は混乱し、逃げる機会を逃してしまった。最初のスピードならまだ何とかなったというのに。
ジェットコースターは次第に速度を上げ、見る見るうちに天井にはり付いた黒い怪物に近づく。
黒い怪物の下を通る。黒い怪物が、天井から下に向かって、手のようなものを伸ばしてきた。ジェットコースターのスピードがさらに上がる。道也の手の中で暴れまくる男の子。男の子を抑えつけたまま、道也は眼を閉じた。
黒い怪物は、男の子ごと俺を丸呑みする。丸呑みされたおしまいだ。
そう覚悟していたが、何も起きない。道也はゆっくり目を開けた。
ジェットコースターは、レールの最高地点に差し掛かる所だった。
まずい。
道也は、慌ててボックスの椅子に座り、隣に男の子を座らせ、体を抑えるバーを引き倒した。と同時に、ジェットコースターが、急角度で落ち始める。
裏野ドリームランドが一望に見渡せた。ジェットコースターの先には平屋の建物があり、その先にはライトアップされた城が建っている。観覧車も見える。
それも一瞬のこと。すべては、すさまじいスピードで通り過ぎていく風景の中に消えていった。
スピードに慣れ始めた道也は、後ろを振り向いた。なぜかわからないが、何かを感じたのに違いない。道也の視線は、そこに信じがたいものをとらえていた。ジェットコースターのレールの上を、黒い怪物がすさまじいスピードで走ってきていた。
走っている?
いや、走っているというより、手足をレールにつけながら這ってきている感じ。そのスピードは、コモドドラゴンのように早い。みるみるジェットコースターに追いついてくる。
道也は、恐怖心でそれ以上その光景を見ていられず、正面を見た。
すると、ジェットコースターの先にトンネルが見えた。トンネルに入ると、夜空の星々が消え、その代わりトンネルの中に作られた人工的な宇宙空間が、飛び交う流星や、美しい星々を暗闇に浮かび上がらせる。
長いトンネルだった。
そのトンネルを出てきたとき、ジェットコースターの席に道也の姿はなかった。椅子には男の子だけが乗っている。黒い怪物の姿も消えた。
男の子は、きょろきょろと辺りを見渡す。まるで、何かを警戒しているかのように。ジェットコースターは、小さい山や大きい山、カーブやループを繰り返す。
最後の山にさしかかる。頂上から下をのぞくと、レールが消えていた。いや、レールは消えているのではない。地面に巨大な穴が開き、レールはその暗い穴の中へと消えていた。
男の子が悲鳴を上げる。
だが、その悲鳴も、男の子の体ごと地面に空いた穴の中に吸い込まれていった。
順二と香澄は谷間に開いた例のトンネルにたどり着いた。
灯りはついたまま。
順二は、そのトンネルの手前で立ち止まった。
「どうかしたんですか?」
香澄が聞く。
「いや」
順二は、突然香澄の手を握り、すたすたと歩き始めた。
突然のことに一瞬動揺したが、これで順二を拒絶しようものなら、十倍返しだ。
香澄は、順二に引っ張られるがままトンネルを抜けた。順二はそこで、香澄の手を離す。
トンネルを抜けると、まず、大きな観覧車が目についた。
その奥に洋風の城を模したドリームキャッスルが建っている。ドリームキャッスルの奥には、平屋建てのミラーハウス。右手にある森の向こうには、ジェットコースターの威容が見える。
「観覧車の奥にあるのがドリームキャッスルだ」
「大きいですね。シンデレラ城みたい」。
「あれの耐震化を考えたくないな。何しろあの大きさだ。どれだけ費用が掛かることやら」
香澄の言葉に順二が反応。初めて会話らしい会話が成り立った。
観覧車の前を通り過ぎると、ゆっくりと回っているのに香澄は気づいた。
何となく、観覧車のゴンドラを一つ一つ見ていると、何かがその中で動いたような気がした。
「出して・・・」
「えっ?」
香澄は立ち止まった。
先に進んでいた順二が立ち止まる。
「どうかしたかね」
振り向いた順二が聞く。
香澄は、順二の方を見た。
「・・・・・・あ、いえ・・・・・何でも・・・・」
確かに香澄は女の子の声を聞いた。
だが、それを順二に確認しようとしても、そのそぶりを見る限り、先ほどの女性の悲鳴と同じように一蹴されるのがおちだろう。
次第に妙な胸騒ぎが、香澄の心の中を占めていく。だが、今さら順二の命令に背いて引き返すこともできない。パワハラではない。順二に対する妙な恐れが、香澄をとらえてがんじがらめにしていた。
香澄は観覧車の方を見ないようにしてその前を通り過ぎ、ドリームキャッスルの入り口にたどりつく。
腕時計を見る順二。
「入り口から17分ちょっとだな。君の足なら、ここまでだいたいどのくらいで来られそうだ?」
「そうですね。それでもやはり20分か25分は見ておいたほうがよさそうです」
「業者の案内はわたしがするから、君は少し余裕をもって早めにここに来てくれ。では、中に入ろう」
「えっ?中に入るんですか?」
「休憩室の場所がわからなければ、時間がロスするだろう。一通りの動きを確認しておいてもらう」
香澄は、ドリームキャッスルを見上げた。
と、その時、何かが落ちるような轟音が聞こえた。
香澄が音の方を見ると、ジェットコースターが山なりの頂上から降りてくるところだった。
「ジェットコースターが動いてます」
「電気が通じたんだ。電動遊具は動くさ。さっき通ってきた観覧車だって動いていたろう。ジェットコースターが動いてたって何の不思議もない」
確かにそうだけど、乗り物を動かすためには、電気が通じるだけじゃなくて、操作スイッチがあるんじゃないの?それとも、廃園の時、操作スイッチを止めないまま、電気だけ止めてしまったとでも言うの?
何かおかしい。
それなのに、順二はそのことを全く気にも留めない。
このまま園長に従っていいのか?
ライトアップされた西洋風の城は、確かにおとぎ話に出てきそうな荘厳で美しい様相を見せているが、こんな夜に男性と2人だけで入る所ではない。
ここに入ったら引き返せない。
香澄の危険視号がそう明滅しているが、順二に逆らう機会を逸してしまった。
ここに入ったからと、順二が香澄に何かをすることなどあるはずがない。明日は、県の担当と耐震診断の業者を案内しなければならないのだ。そのために、こんな夜にわざわざ来ているのだ。最後の詰めで引き返してどうする。
香澄は自分の危険信号を強引に消し去って、順二の後に続いてドリームキャッスルに入っていった。
中に入るとそこはホールになっていて、両側に2階へ上る階段がある。壁には女の子が喜びそうな美しい装飾や絵画。子供にとっては夢のお城だ。
正面の観音開きの扉を開けると、そこは舞踏室のようになっていて、両側の壁は鏡になっている。天井は丸天井になっていて、天使たちが舞う絵が描かれている。
その豪華さは子供向けの施設にはとても思えない。
さらに奥へと、順二は歩いていく。
装飾に見とれていた香澄は、順二がどんどん前に行くのに気づき小走りに後に続く。
休憩室って、こんな奥にあるものだろうか?
香澄のイメージでは、入り口のすぐ横だったのだが、順二は先へ先へと進んでいく。
ホールの次にあった大舞踏室の天井が最も高く、奥への扉を開くたびに、天井は次第に低くなっていく。まるで、何かの胃袋にでも入っていくかのような圧迫感を感じる。
だが、順二の歩くスピードは落ちない。
外から見たときはこんなに奥行きのある建物とは思わなかった。
いくつ扉をくぐったろうか?
その扉をくぐった瞬間、香澄は冷気を感じて身を縮こませた。そこまで美しい装飾に飾られていた壁は石積みで、床も石畳。湿気った空気は、重苦しい雰囲気をさらに重くさせる。
だが、その冷気の正体は、石でも湿気った空気でもなく、壁にできたくぼみの中で青白く光る6つの光だった。
さらに異様なのは、その手前に置かれた椅子だ。
その椅子の両側を囲うように、床が腰くらいの高さに立ち上がっており、その上に高さ50センチ程度の円柱形のガラス瓶が何本か置いてある。その瓶からは黒いチューブが伸びて、その先は椅子のひじ掛けに引っ掛けられていた。
それを見た瞬間に香澄は電気椅子を連想し、背筋を冷たいものが流れた。
「・・・・ここが休憩室ですか?」
「君にはそう見えるかね」
「いえ、ここはまるで・・・・・墓場みたいです」
「墓場か。当たるとも遠からずだな」
その言葉を聞いた瞬間、香澄の危険信号が体中に指令を発した。
逃げろ!
扉のほうに向かって走り出した香澄の前に、順二が立ちはだかり、後ろ手に扉を閉めた。
「・・・・園長、そこをどいてください」
「だめだよ。彼女をよみがえらすためには、君が必要なんだ」
「彼女?」
「君は、この遊園地が廃園になった理由を?」
「うちの施設の子供が行方不明になったからと聞いています」
「そうだ。その時行方不明になった人数は?」
「9人」
「そうだ。壁を見るがいい」
順二に言われ、くぼみの中の6つの光の方を見た。
「封印の祠だ。いくつある?」
「祠?」
「壁のくぼみの数だ」
順二に言われてよく見ると、6つの光の隣に、光のないくぼみが3つあった。
「9つ・・・・」
「だが、囚われているのは6人だけ・・・・後の3人は・・・・」
その時、青白い光がもう一つ灯った。
順二の表情が変わる。
「・・・・・気づかれたのか?」
「気づかれた?」
「急がねばならん」
そういうと、順二は懐からスタンガンを出して、香澄に押し付けた。
香澄は2、3度激しく痙攣すると気を失い、その場に倒れた。