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バスを待つ人

作者: 立野絢

 降園のバスは、十四時九分に来る。

 月曜から金曜まで、十四時ちょうどになったら淡い色のリップを塗り、軽く粉をはたいてから携帯電話と自宅の鍵を持って外に出る。

 バス停までの道のりは五分もかからないけれど、いつもその道のりはまるで一生をかけて果たしているような気がする。ほんの五分のあいだにめまぐるしく、感情が激しい動作を持って正と負を行ったり来たりする。自分がバス停まで辿り着くという事実を信じられないでいる。今すぐに踵を返して、バス停と反対方向に歩いて行くイメージを描いている。

 しかし私はいつもきちんと、十四時八分にはバス停の前で何食わぬ顔でバスの来る右方向に首を向けているのだ。

 そろそろ来るかな。雨が降ってきたから、バスから降りてきたらすぐにカッパを着せないと。

 何食わぬ顔で子供の心配しかしていない母親を演じるのだ。演じきれていないことはわかっている。

 バスを待つあいだ体全体が震えていることはもう仕方がないことで、それを隠すことはしなくなった。都心のこのバス停に立つ親はもちろん私だけではないし、震え続ける体はもちろん誰かが気づいている。もしかしたら親たちのあいだで有名な話題になっているのかもしれない。子供たちを乗せて降園する幼稚園バスを待つ或る親が、登園のときとは違い、何かいつも挙動不審だということが。

 今日は卒園式で、式が終わったら園児は皆保護者と共に帰宅することになっているので、いつもと違って降園バスは運行しない。

 だから今日私は、震えることはないのだ。

 その代わり昨日降園バスを待っているとき、あの人と会えるのはこれが最後なのだと思う気持ちに襲われ、体中がいまだかつてないほど震えた。しゃがみこんでしまうほどだった。

 私のその姿を目にした母親たちは、「大丈夫ですか?」とか「どこか具合悪いの?」とか、しゃがみこむ私に目線をあわせて口々に言う。しかしそれは建前上であって、他人を気遣う優しい自分、それだけを頭の中のスクリーンに描き出している。決して心から私を心配などしていないのだ。私は「大丈夫です」とだけ言って、自分の左側を見ないようにすることだけに意識を集中させる。ずっと、左側を見ないようにしてきた。


 登園のバスは、八時十八分に来る。

 月曜から金曜まで、八時ちょうどになったら私は全くのノーメイクで自宅の鍵だけを持って外に出る。  年長の娘、由香の手を引きながら「どんぐりころころ」を一緒に歌ったり、例えばその日に行われるお誕生会の話をしたり、例えばその日に行われる身体測定の話をしたりする。由香と話をしながらだとあっという間にバス停の前に辿り着く。

 バスを待つあいだ、帰りのバスを待つときとは違って、明らかに余裕があった。由香は足元で行列を作るアリだったり、ガードレールにとまるトンボだったり、道行く散歩中の犬だったり、様々なモノに夢中で興味を示し、私はその姿をやわらかい笑みを浮かべながら見守っている。

 朝のバス停は今まで私にとって安息の場だったように思う。何の緊張の要素もなかった。

 

 しかし卒園式の今日、朝のバス停が視界の端に入ってきた瞬間から、今までの余裕な私は無きものとなったのだ。心臓が、今にも体を飛び出して欲望のままに飛んでいってしまいそうなほど、体内で痛いほどの鼓動を続けている。

 登園のバス停では今まで、あの人がいたことはなかった。降園のバス停だけに現れる、あの人。そして明日からは現れなくなるはずの、あの人。いつも私の左側で、同じ位置で、両手を後ろに組んでバスの来る右方向の車道だけに意識を向けている、あの人。

 確かに今、バス停へと続く角を曲がった瞬間に、その横顔が見えたのだ。もうその姿を目にすることはないとばかり思っていた横顔が、確かに私の目に映った。

 バス停に着くと、いつも立つポジションに由香と二人並んで立った。左側には、あの人。

 母親たちが大声でおしゃべりをしている。早いねー三年間って。りょうくん、卒園してもまた遊びに来てね。式、何着てくの?うち今日旦那仕事だから、式来れないんだよー、卒園式くらい休み取ればいいのにさー。

 子供たちはバス停のまわりを走り回ったり、お友達とチャンバラごっこみたいのを始めたり、その朝の風景はいつもと変わりのない賑やかなものだった。

 しかし今の私は、後ろからトンッと軽く突かれただけでも足元から崩れ落ちてしまいそうなほど、体中が麻痺していた。震えは、体の左側面からジワジワと体を蝕んでいく。左脇の下から汗が流れ落ち、ウエストのあたりに嫌な冷たさをもたらす。パニック。

「ママみてー。アリさんがこんなにおっきいのはこんでるー」

 しゃがみこんでいた由香が不意に私に話しかけた。その声はどこか果てしなく遠い場所から聞こえてくるように、現実感が希薄だった。しかし反射的に私は「どれどれー」と言って覗き込むのだ。

 そのとき、左側からタタタッと軽快な音を立てて男の子が駆け寄ってきた。そして私と由香の向かい側に同じようにしゃがみこみ、アリの行列を興味深そうに眺め始める。

 男の子の顔を見た瞬間、私の心臓の鼓動はさらに激しさを増した。

 この男の子は・・・。

「なにはこんでるのー?」男の子がいきなり私に話しかけてきた。

「なんだろうねー。虫かなー」私は震え続ける体とはそぐわない穏やかな声で答える。

 すると男の子は突然私の膝に手を置いて、キラキラとした表情で言った。

「ぼくのパパねー、ムシはかせなんだよー! 」

 パパ。

 男の子がその言葉を発した瞬間に、私の体の中のどこかで糸のようなものがプツッと切れた音がした。体の左側が、急にふっと軽くなった気がした。男の子に触れられた膝のあたりに、カイロをあてたようなじんわりとした温かみを感じた。

 私は自然に首を左側に向けた。

 あの人がこっちを見ていた。

「ねー、パパー」男の子があの人に声をかける。

「ちょっと詳しいだけだよ」あの人の目は、男の子だけを見ている。

 バスが来た。

 子供たちは添乗員さんに手をとられ、一人ずつバスに乗り込んでいく。

 子供たちが全員乗り込んで扉が締まると、バスはゆっくりと走り出していく。手を降ってバスを見送る。

 バスが角を曲がって見えなくなる。

 左側のあの人を見つめる。懐かしい、顔。あなたの目は私を捉えることはない。

 パパ。あなたはもう、一人の男の子の、パパ。わかっていたはずなのに。

 そして私は、一人の女の子の、ママ。

 このあと私は卒園式に出席して、心の中で密かに思うのだろう。私も今日で、この感情から卒園するのだと。


 さよなら、という声と共に親たちはバス停からそれぞれに散っていく。

 しばらく歩き、振り返ってみた。

 バス停はもう小さく霞んで視界から消えかかっていた。それは、私たちがそのバス停に二度と来ることがないことを表しているのかもしれなかった。

 しかしその向こうに、私ははっきりと見た。

 あの人が、同じように立ち止まって振り向き、私を見つめているのを。

 そのとき世界には確かに、私とあの人しかいなかった。

 わずか数秒のあいだに、私たちは距離を挟んで感情を伝えあった。その感情とはきっと、過ぎた時間を前にして、どうすることもできない種類のものなのだ。

 私は前に向き直り、再び歩き出す。

 


 家に戻ったらすぐ、洗濯をしなきゃ。卒園式が始まる前に。

 パパと由香の洗濯物だけでも、3回は回さなきゃいけないんだから。


(了)


最後まで読んでくれて、ありがとうございましたm(_)m

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