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天国と地獄

作者: ユリイカ

 中国の山奥、とある所に六荘りくそうという禅師とその弟子、李直りちょくという二人の僧がいた。


 李直は中国全土に点在する大企業の会社員として活躍していたが、目先の利益しか追い求めぬ会社の姿勢に絶望し、ついには会社を辞めて山奥の寺で自分の理想を追い求める事にしたのである。


 三十代にして悟りを得た六荘は、勤勉な李直のことを特に可愛がっていたが、その頭の固さには色々と手を焼いていた。企業で培われた「こうしなければならぬ」という考えが李直の行動の全てを支配しており、李直自身、どうすればいいのか分からなかった。


 清々しいある日の朝、二人は托鉢たくはつに出かけていた。村人から必要最低限の食糧をもらう代わりに、人々に善行を積ませ、言葉によらぬ『教え』を授けるのである。


 六荘は持病の肺炎により、喘息がひどかったので血気盛んな市場を、スローペースで歩いていた。

 対して、足の早い李直は、節操のない犬のように六荘の周りをウロチョロしていた。


「李直!目障りな行動はやめて、さっさと行きなさい!」


 六荘は遠慮のない声で李直を叱った。

 李直は師匠を追い越す事をためらってウロウロしていたのだが、その迷いが敬愛する師を逆に怒らせることになったのである。

 李直はすごすごと肩を落としながら、恥を隠すように早足で市場を抜けようとした。


 すると前方から、やたら人相の悪い浮浪者が人の群れを割ってこちらに向かってヨロヨロと歩いてきた。

 その男は不快な臭いを撒き散らせており、町の人間は彼を避けていた。

 浮浪者は市場の隅にある残飯や、タバコの吸い殻を求めて地面ばかりを見ながら歩いている様子で、ほとんど前を見ていなかった。

 そのたどたどしい足取りに李直は翻弄され、ついに李直はその浮浪者とぶつかってしまった。

 途端、浮浪者の顔が豹変した。


「気をつけろ!」


 浮浪者はそう怒鳴って、わざと六壮にもぶつかろうとしたが、六壮は目を閉じていたが、いとも簡単に、ヒラリと浮浪者をかわしたので、ぶつかる事はなかった。


 李直は口をへの字に結びながらも、衣服の乱れを直し、何事も無かったかのように再び歩き始めた。

 


               *


 

 午前の時間は瞑想。十数名の弟子たちはそれぞれ好きな場所に座し、瞑目、あるいは半眼になる。

 そしてひたすら心に去来する雑念を観察し続けることによって、やがては悟りに至るのである。


 瞑想の場所は自由なので、李直は縁側、バンヤンジュ(菩提樹)の白く鮮やかな幹、緑豊かな景色の前に座った。手前には大きな手すりがあり、それが李直の視界を遮った。

 しかし、こういった障害全てに抵抗しないのが瞑想の目的でもあり、この観察をを徹底することによってどんな悪条件にも屈しない心ができあがるのである。


 李直が半眼で瞑想を続けていると、李直はすぐに考え事に捉われはじめた。

 李直は寓話を考えて皆に発表するのが好きなので、いつも瞑想中にそのことを考えていたのだった。


(次はどんな話でみんなをアッと言わせてやろうか)


 李直はふと今朝、肩のぶつかった男のことを思い出した。

 李直はそれを思い出すと、だんだんと腹が立ってきて、口をへの字に結んで怒りを堪えようとしていた。


(私もあの男も共に世間から逸した身でありながら、どうしてこうも人間に差ができるのだろう。我々は修練を積んでますます善き人間になる一方で、あのような男はどんどん悪い人間になり、やがてはテレビのニュースで報じられることになる)


 李直の妄想はそれからもどんどんと膨れ上がっていった。もはや瞑想どころではなくなっていた。

 李直の妄想は脱線しながらも、合流し、ついには新しい寓話を作り上げようとしているところだった。


(あのような浮浪者はいずれ地獄に落ちる。それを私は高みから見下ろしているのだ。これが精神における正しいあやつと私との差である。あやつはすべてを悔い改めて初めて「金」ではなく、「許し」を乞うだろう。私は地獄に落とすか、手を差し伸べて助けてやるか。それはもちろん後者だ。なぜなら私は精神的に優れた人間だからだ。それにやはりハッピーエンドの方が聞く方も心地よかろう)


 李直の寓話もできかかろうとしていたころ、李直は自分が今どこにいるのか、まったく分からなくなるような不思議な感覚を覚えた。

 瞑想中に起こったその感覚は次の瞬間、穴に落ちていくような感覚に変異した。

 李直は自分を客観的に観照する技術を持っていたが、その心の目で見てみると、自分の周囲に突如黒い穴が出現し、自分がその穴に落ちていく姿を見たのである。


(うわっ!)


 李直は咄嗟に穴に落ちまいと、その穴の淵に捕まったおかげで何とか穴に落ちることは避けた。

 しかし、彼の無防備な体勢と非力な肉体では、穴から這い出す事はできなかった。


(どうしよう、師匠に助けを乞わないと!)


 李直がそう思っていると、人がやってくる足音を聞いた。


(師匠!)


 しかしそれは六荘ではなく、なんと、今朝に肩のぶつかった浮浪者だった。

 浮浪者はニヤニヤした顔で、ツバでも吐きかけそうなほど険悪な態度で李直を見下した。


(人が穴に落ちて死にそうな時に、助けようともせずニヤけるとは。こんな男に助けなど求めるものか!)


 すると、浮浪者はそばに落ちていた警策(木の棒)を拾い上げ、李直が穴につかまっている両手をバシリと無慈悲に打ち始めた。


(やめろ!私に何の恨みがあってこのような事をするのだ!……許さん、私がもし奈落に落ちたらこの男を呪い殺してくれる!)


 李直はさきほどまで考えていた寓話の内容を全て白紙に戻した。この男にハッピーエンドなど与えたくなかったからである。

 そしてこの窮地で新たな物語を刹那に思いついた。この男への恨みの感情が一気に物語を作りだしたのである。


( 天使と悪魔  作・李直


 あるところに天使と悪魔がおりました。ある日、彼らは同時に人間界に受肉し、人間として生きようと決めました。

 二人が同時にそう願ったので、ふたりとも同じような場所に、同じような時間に生まれました。

 じっさい、病院では隣のゆりかごにいたのです。


 ややもすると、彼らは知り合いになれそうでしたが、天使の母親がすぐにわが子を迎えに来たために、それは叶いませんでした。悪魔の母親は、子供を産むと、すぐに男のもとにはしり、報告をしました。


 天使の母親も悪魔の母親も同様に子供を愛しました。しかし、天使の子は誰にでも優しく気を使う子に、悪魔の子は自分の仲間は愛しますが、それ以外の人間を全て嫌う子になりました。母親の偏愛が原因かもしれません。


 悪魔の子が我が物顔で歩く町では、人々が道を譲り合って暮らしています。

 悪魔の子はそれを知りません。なぜならいつも道を譲ってもらっているので、道を譲られるのが当たり前と思っていたからです。

 反対に、天使の子はいつも道を譲ってたので、道を譲るのが当たり前と思っていました。


 悪魔はいつも人々が道を譲り、ゴミを拾っているから人々が温和に、快適に暮らしているということに、ついぞ一度も気づきませんでした。


 天使はこの修練により、ますます謙虚に、一方悪魔はますます傲慢になってゆきました。


 悪魔はあるとき、恋をしました。彼が恋したのはもちろん女の悪魔です。

 悪魔は勇気を出して女の悪魔に告白し、二人は結ばれました。

 休日は映画の約束をして、二人で映画を見ました。

 銃を乱射して人を殺し、物を壊すだけ壊して散らかしたまま、最後にキスをして終わりという映画で、ちょうど天使も同じ映画を見ていたのですが、何が面白いのか彼には分からず、天使はガッカリして肩を落として家に帰りました。


 悪魔は女の悪魔にプロポーズをし、二人はめでたくゴールインしました。

 そして悪魔は家庭を持ちました。

 しかし悪魔の子はやはり悪魔です。彼らが愛するのは同じ悪魔だけだったのです。

 そして恐ろしいことに、彼らは悪魔同士の繋がりを「愛」と言い、行いは全て「正義」だとおもっていたのです。


 悪魔は一生にただ一度だけ、天使を目にしました。何だか分からないけど、天使のことが羨ましくて、でもそれが自分には手に入らないと思って、それはすぐに苛立ちに変わりました。


 天使の一生は苦労の連続でした。先行きの見えない不安ばかりでした。それでも彼は小さな芸術に感動し、多くの仲間に愛される人間としてささやかな一生を送ることができたのです。


 しかし、天使が本当の慰めを受けたのは死んでからでした。神が初めて天使に慰めを与えることができたのは、肉体から精神に移行したからです。天使はよく学んでいたので、自分が天に帰ることを知っていたので、すぐにでも神が用意した晩餐にありつくことができました。

 一方、悪魔は肉体に固執するあまり、自分が死んだ事も分からず、地獄に落ちたことも知らず、かつて仲間だったはずの同類と争い続けました。相手をだまし、罠にかけ、殺すことだけに喜びを感じ、その殺し合いを地獄の中で永久に繰り広げ続けました。 

 

                 おわり)



(できた!天使と悪魔の新しい寓話だ!悪魔とはもちろんこいつの事だ!)


 李直は腕の痺れも忘れて寓話を作った。目の前の浮浪者は呆れたような顔で、もう警策で李直を叩くのにも飽きた様子だった。



 それから暫くの間、奇妙な沈黙が続いた。

 視界が塞がっている李直には、男がそこにいるのか、はたまたどこかに行ってしまったのか、全く見当も付かない。そのことが李直の精神をすり減らしていった。


 その時突然、穴の中から、誰かの手が李直の足を掴んだ。

 李直が下を見ると、それは数々の浮浪者の群れだった。


(うわぁぁぁぁ!どうして浮浪者が下にいるのだ!?)


 すると、李直は途端に奇妙な感覚を覚えた。

 天地が一瞬にしてひっくり返るような感覚である。

 李直が一番上にいたのが、いつの間にか李直が一番下におり、浮浪者が上にいるという構図になってしまったのである。


 理由は、李直の視線が現実から地下にある世界に移ったからだ。

 地下に存在する世界を目にした瞬間、地下の世界の方が李直にとっての『現実感』を持ってしまったのである。その事が、李直が持つ天地の感覚をひっくり返したのである。


 浮浪者は地獄にぶら下がりながら、その状態を楽しんでいるようにも見えた。だが李直にとっては紛れも無く絶体絶命のピンチだったのである。


(私はなぜ浮浪者にぶら下がっているのだ!?分からない。しかし、落ちるのも怖い)


 李直は浮浪者の足を掴んでおり、浮浪者に助けられているようにも見える奇妙な構図だった。

 李直にはただこの、上とも下とも言えぬ穴を這い上がって、たどり着く世界が怖くて仕方なかった。


(どうすればいいんだ!?上にも行きたくない。下にも落ちたくない。いや、今はいっそ下に落ちてみたい気もする。どうする?さっきとはまるで逆だ!私はどうすればいいのだ。師匠!お助け下さい、師匠!!)


 李直は懸命に六荘を呼んだ。その声は、やがて李直を現実に引き戻した。


「師匠!」


 そう言って目を開けると、李直は目の前の低い手すりに抱きつきながら、六荘を呼んでいるところだった。

 周りでは他の僧が笑いながら、滑稽な李直を見る為に集まっているところだった。


 李直は「恥ずかしい夢を見てしまった」と、俯いた。

 しかしその時、僧をかき分けて六荘が李直の元にやってきて、言った。


「夢は寝て見るものだ。李直、お前のは夢ではない」

「本当ですか?」

「ああ、お前が見ていたものは極めて重要なプロセスだ。だがお前は『落第』したようだな」


 六荘は着物の袖に手を入れたまま、無慈悲に言い放った。


「落第?どういう事ですか!?」

「お前は流れに身を任せるべきだった。そのしがみついているものを離すべきだったのだよ」

「そんなはずはありません!離せば落ちてしまいます!」

「天国から地獄に落ちる時は、手を離してはいけない。だが逆に、地獄から天国に落ちる時は手を『離さなければならない』と、真理はこのように、いつでも流転るてんする。どちらかの理屈に偏ってはいけないのだ。お前はただ落ちるのを恐れてしがみつくだけの赤ん坊に過ぎなかった。私の名を呼ぶだけで、自分では考えようとしなかったのだろう」


 李直は図星をつかれ、俯いたが、即座に反論した。


「しかし私は浮浪者に落とされそうになったのですよ!」

「馬鹿者!何故お前は『どうして自分は地獄に落とされそうになったか』と考えないのだ!?お前は自分が浮浪者を憎む事によって、自分も同じ『争いの地獄』に落ちようとしていたのがまだ分からないのか!?」

「それは……」

「その差別感をなくさない限り、お前に悟りは決して訪れない。小さな区別が差別を生み、やがてそれは軽蔑けいべつになる。それこそがこの世にある地獄なのだよ」


 六荘はキッパリと李直を否定したのち、最後は優しい声で李直を諭した。

 李直は口をへの字に結び、何も言わずに部屋に戻っていった。



                 *



 六荘は次の日、李直の晴れやかになった顔を見て安心したようだった。

 そして、李直の顔をまっすぐに見据え、告げた。


「李直、君の中には、まだ社会と戦ってこの『地上に天国を作る』という目的を実現させたい気持ちがある。私も君のそういう所を期待している。君はもっと立派な人間になれる。再び社会に戻ってやり直しなさい。全てに満足したら、またここに来ればいい」

「私も戻ろうと考えていた所です。私にはまだまだ理解せねばならぬ事が山程あるようです」


 その日、李直は山を降りた。それは決して後ろ向きな気持ちではない、一匹の世迷い人が静かな闘志を取り戻した瞬間であった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 面白いですねコレ! むかし筒井康隆の「法子と雲界」というのを読んで感動したことがありますが、なんか同じような読後感をおぼえました。この寓話の根底にあるのは般若心経などで説かれているような万物…
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