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のぞまないこと

 五日間の連休が明けて、季節は変わった。中間テストというのもあって、連休中、私は勉強ばかりした。そうすればくだらないことは忘れられるだろうと思った。


 空は青々と広がるようになり、風は萌えた草木の息吹を乗せていた。私は忌々しさの大半を失くしていた。テストのことだけを考え、そして、たくさん勉強したからという自信もあったので、気分は清々しかった。


 白いブラウスには混じりっけのない日差しが降り注いだ。波のあいだに空がきらめく小川沿いを走ると、光の匂いが襟元のリボンをたなびかせた。


 町の郊外の田んぼは一面に水が張った。白い雲が水面に映し出されていた。明るい苗が季節のうちに泳いでいる。


「タマちゃんおはよ! お先!」


 学年でいちばん成績のいいクラスメートの女の子が私の横を、自転車を立って漕いで過ぎていった。スカートを颯爽と膨らませて、髪をなびかせて。青い空の果ての果てに突撃していくように夢中にペダルを漕いで。


 私は彼女に元気を分け与えられたような気がして、ペダルを踏みしめた。


 一時間目から三時間目まで、英語、国語、社会の順で、中間テストだった。出来は上々だった。文系は得意なのもあった。社会は満点の自信があった。


 一日目の三教科が終わり、クラスメートたちは悲喜こもごもの様子でテストの出来について騒いだ。私は自信が確信に至り、ほっとした。三年生に上がって初めてのテストだったので、新しい先生たちがひねた問題を出すのではないかと、どこかで不安はあった。そういった点はまったくなかったのだった。


 四時間目は合同体育なので、男子生徒たちは着がえを持ってぞろぞろと隣の2組の教室に出ていく。代わって、2組の女子生徒たちがぞろぞろと入ってくる。私はジャージのズボンに両足を通す。


「ねえ。吉海くんと付き合っているってほんと?」


 どこからか聞こえてきたその声が、私の耳にするどく刺さった。私は思わず、ジャージのズボンを上げる手を止めた。私は心臓が止まってしまったかのように動けなかった。それでいて胸は内側から激しく叩かれた。血の気が引いていくようにも感じられたし、身体がこのまま飛んでしまっていくようにも感じた。


 私は見たくなかったけれど、視線を声のありかのほうへおそるおそる、誰にも私の動きを悟られないようゆっくりと向けていった。


「えー? ウソ。やめてよ。なんで知っているの」


 私はすぐに視線を戻し、ふるえながら、自我をたもてるよう意識しながら、ジャージを腰骨まで上げた。スカートのタックを外す手つきは自分でもはっきりとわかるぐらいにふるえている。平静をよそおうのがこんなに困難だったなんて、初めて知った。


 付き合っているってほんと? と、私のクラスメートに訊ねられ、なんで知っているの、と、忌々しい声音で答えたのは、あの日、私を自転車置き場まで案内するため、そこの扉口から私を手まねいてきた女の子だった。


 私はいったい自分が何者なのかわからなくなっていく。


 周囲の会話は何も聞こえなくて、この教室でたった一人で着がえているのかもしれなかった。もしくは、手まねいた女の子と私だけなのかも。


 どこまでも果てのない、ただただ広がり続けているだけの無音の空間で、たった一人でジャージに着がえている私は、あらゆる方面からあの女の子の忌々しい視線を受けているように感じた。その感じた視線は当然ながら得意げにお澄まししている。


 私は混乱しきっていたので、実際に彼女が私を見ていたかどうかはわからない。でも、絶対に見ていたと思う。一瞥いちべつぐらいはしたと思う。


 屈辱的すぎる。


 いつのまにか着がえ終えていた私のところに、仲の良いクラスメートの女の子がやって来た。教室から団体移動するときは、いつも、その子と一緒なので、私はいつものようにその子と教室を出た。


 私は体育館へ到着するまでのあいだ、その子と何かを話した。たぶん、中間テストのことで。私は何かを答えていたし、何かを質問してもいた。笑顔を作ってもいた。もちろん、内容はまったくわからない。


 体育館にやって来て、やがて、授業が始まってしまうと、その子と会話ができなくなってしまい、再び、おそろしい現実が私によみがえってきた。体育の女の先生が私たちを整列させ、私の斜向かいには例の女の子がいて、本当に忌々しくて仕方なかった。勝ち誇っているようにも私には見えた。私はなるたけ彼女を視界に入れないようにしていたけれど、気を抜いてしまえば私の身体の中身はなだれを起こして潰れてしまいそうだった。


 幸いにも男子と女子はべつべつだった。男子は校庭だった。吉海くんの姿を見ないで済むのは幸いだった。いや、そんな悠長な思考はまったくない。この世界が嘘の世界であってほしい。そればかり祈っていた。


 4チームに分かれてバスケットボールだった。四時間目の前半、私は見学だった。例の女の子は私の目の前を駆けずりまわる。声をあげて。ボールを受けとって。ボールをパスして。


 ボールが床をつく音が不規則に私にひびく。体育館のすみに座って、他のクラスメートや、二組の女の子たちと並んで腰かけている私に、不快な震動をつたえてくる。ワックスに磨き抜かれた床の上をさまざまな足が通りすぎていく。こんな光景が実在するだなんて、私はまだ信じられない。私は無意識に自然と、えぐられている胸の中身を蘇生させようとして、少し間隔を短く取って呼吸をしていたようだったけれど、吸った息を吐いても、吐いた息を吸っても、私の視界にはジャージの足がバラバラになって走っている。誰のものかはわからない、主人を失ったかのようなたくさんの足がさまようかのようにして、そして、私には鬱陶しい。


 もしかしたら、私は保健室に逃げてもよかった。私は尋常じゃない。でも、私は、このとき生まれて初めて、自分は強く生きなければいけないと言い聞かせる。私は、あの子に負けたくはない。保健室に逃げれば私は敗北者だ。


 だから、きっと、私が尋常じゃないと思っていたのは私だけだった。誰が見ても、私はいつも通りだった。私は仲のよい女の子とよく話す。ただし、内容はまったくわからない。


 四時間目の後半は、バスケットボールを持つ。見学者は例のあの子だった。私の視点はどこにも定まっていないけれども、私は視界を広げる努力をする。同じコートに立つ子たちすべてを私の仲間に取りこもうとする。私はよくドリブルをした。パスを貰いに走りもした。私の仲間には今朝、私に挨拶を残したあの子がいる。私がシュートを決めると、私は彼女とはつらつとしてハイタッチをする。


 やがて、私はある結論にいたる。私はそもそも勝っていたんだ、と。例のあの子は私に断られた人と付き合っているんだ。


 そう、私はすでに勝っている。あの子が吉海くんとどのような過程でもって成立したかなんて、勝者の私には些末な出来事でしかない。引き波にさらわれていった貝殻がどんな色をしていて、どんな形をしていたか、そんなものに興味を持つ人が、きらめく夏の砂浜にはいないのだ。


 体育の時間が終わり、教室に戻って給食となり、昼休み、五時間目、六時間目、私はあらゆる時間において勝者であり続ける。壁の時計の針がそのつどそのつど無愛想な報告をしてこようと、私の時間は流れている。


 家路を自転車で走ると、かたむきかけた光に雲はふち取られている。はっきりと、はっきりとふち取られている。わずらわしい雨の気配もなければ、嵐の前のあの不吉な陰もしのばせておらず、はっきりと形を表して、空を雄大にながれている。


 いつもの私の家、いつものように私は鍵穴に鍵を差しこみ、錠を下ろしてドアを引く。いつものようにして、誰もいない自由なリビングに入ってき、誰もいないソファに私は遠慮なく寝転ぶ。


 壁の時計はチクタクと愛想のない報告だけれども、私は飛び起きてキッチンの冷蔵庫を開け、紙パックのオレンジジュースをテーブルに置くと、食器棚からコップを取り出してきて、それをオレンジ色にしていく。


 遠藤先生の塾に向かって自転車を漕いでいく。いつもの時間だからゆっくりと漕いでいく。


 そういえば今日は、消しゴムの短歌の日だったと私は思い出す。私は勝者だ。私にはいつだって私を思う人がいる。私の自転車は坂をくだっていく。私の自転車は坂をのぼっていく。かえるの鳴き声が聞こえてくる。どこかと思ったら田んぼだった。夕暮れの暗闇に沈んでいる。


 私はミネラルウォーターの代金をレジカウンターに置く。


 かえるの鳴き声が聞こえてくる。どこかと思ったら田んぼだった。暗闇に沈んでいる。


 私の自転車はスタンドを立てる。


 どこからか風が吹いてくる。私の髪は風の薫りにさらさらと流れる。振り返って風の行方を追ったら、ここは遠藤先生の家の庭だった。


 私は自転車のかごからペットボトルを取り、喉を二回鳴らした。キャップを締めた。教室のドアを開けると、遠藤先生以外はみんなが揃っていた。みんなは蛍光灯の明かりに染まっていた。


 私はいつもの席に着いた。莉子ちゃんと挨拶をかわした。守屋さんと挨拶をかわした。私はリュックサックから道具一式を取り出して、リュックサックは長机の下に押しこんだ。


 私は押しこんだ。リュックサックを押しこんだ。


 何も落ちてこなかった。


「環?」


 私の中身はなだれていった。とてもさびしくて、とてもつらくて、流れる涙は流れるまま、込み上げてくる嗚咽をおさえることもできないで、私は顔を両手で覆った。


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