なお恋ひにけり
消しゴムを発見してからまもなく、疑惑の三人はそれぞれやって来た。いつものようにくだらない話でげらげらと笑っていた。私は聞き耳を立てた。莉子ちゃんはじいっと様子を見ていた。けれど、変わった様子は何もなかった。
遠藤先生がやって来て、45分間、授業が進んだ。そうして、15分の休憩を挟んだ。20時から次の教科が再開されるので、遠藤先生は教室を出ていって一度自宅にもどった。瞬間、莉子ちゃんが詰め寄った。
「ねえ。こんな消しゴムがあったんだけど、誰?」
「え?」
と、三人のうちの波田野という人がいちばん最初に眉をしかめ、ついで、ほぼ同時に、他の二人、添田という人も、藍島という人も、怪訝な顔つきで莉子ちゃんを見上げた。
莉子ちゃんが喧嘩腰に詰め寄ったせいか、三人とも莉子ちゃんに与える視線は冷ややかだった。私は怖くなった。犯人は三人のうちの一人だろうと確信を持っていたのに、だいぶ、ゆらいだ。蛍光灯の白い光が三人全員の顔立ちをくっきりと照らしあげているのに、怪しい点が何一つなかった。
「これだよ」
莉子ちゃんは消しゴムの中身をカバーから引きぬいた。彼らの机の上にほうった。三人はいちようにして消しゴムを見た。
「環の机にあったんだよ。一週間前にも。同じようなやつが」
私は勇敢な莉子ちゃんの後ろ姿をながめながら、右の太ももを右手で握りしめていた。そこまで勇敢じゃなくてもいいんじゃないかとわずかながらに思った。犯人が名乗り出てきてもどのように対処したらいいのか考えていないし、もしも、三人に犯人がいないのなら大恥のような気がしてきた。
「なにこれ。なんか書いてあるぞ」
消しゴムを手に取ったのは短髪の藍島という人だった。そうして、べつにやらなくてもいいのに、「今日もまたどうしていいのかわからない」と、読み上げた。読み上げてすぐに藍島という人は鼻で笑った。
「なんだこれ」
すると、左目の下のほくろの目立つ波田野という人が、「裏にもなんか書いてある」と、消しゴムを奪いとった。「ふーん」とうなずくと、彼は藍島という人と添田という人に交互に視線を送った。
「はあっ? 俺じゃないよっ!」
食いしんぼうの添田という人はあわててというよりも怒った。目玉を大きくさせて他の二人に食ってかかるようだった。
「俺がそんなことするわけないじゃんっ! お前だろ! 藍島!」
「なんで俺なんだよ!」
添田という人と藍島という人は、三回、お前だろ、お前だろ、を、繰り返した。あまりに騒ぐので、私は恥ずかしくなってきて顔があつくなった。彼らの様子を見ているのも耐えられなくなって、体を正面にもどした。
前の席の守屋さんが黒ぶちメガネを私に向けてきた。
「どうしたの?」
私はトラブルを起こしている彼らに聞こえないよう、声を低めてかくかくしかじかと説明した。
「へえ」
守屋さんはわりと穏やかに笑った。若干の大人びた眼差しで騒動中の彼らをながめた。
「てかさ、べつに俺らじゃないんじゃん?」
波田野という人が莉子ちゃんに消しゴムを返した。
「違う誰かかもしれないだろ。二年とか、一年とか。てか、考えすぎじゃん。誰かが忘れていっただけじゃないの?」
「だから、ちょうど一週間前も同じような消しゴムがあったって言ってんじゃん。狙ってやっているに決まってんじゃん。それに環は二年とか一年に会ったことないんだし」
「べつに誰だっていいんじゃね?」
波田野という人はそう言うと、他の二人に同意を求めた。すると、添田という人も藍島という人も納得してうなずいた。聞き耳を立てているだけの私も納得しそうだった。犯人を見つけなければ天と地がひっくり返るわけでもないのだった。
ただ、莉子ちゃんは納得できないようだった。
「そういう波田野くんがいちばんあやしいんだけど」
「はあっ?」
「そうだよ、お前があやしい」
藍島という人が急に掌を返した。添田という人も続けて掌を返して言った。
「そうだそうだ。波田野は言ってたよな、好きなやつはべつの中学にいるって」
「言ってねえよっ!」
波田野という人の怒鳴り声は教室が潰れちゃうんじゃないかというほどにひびき渡って、私はあつくて仕方なかった。熱中症にでもなってしまいそうだった。
「言ってたよ。なあ、藍島。言ってたよな」
「ああ。そういえば言ってた」
「ふざけんなよ! お前だろ! 藍島! お前がこういうこと一番やりそうじゃんか!」
三人はまた再び騒ぎはじめた。もういいからやめてくれと思っていたら、遠藤先生が教室に入ってきて、途端に教室はしんと静まり返った。
おそらく、波田野という人の大声が聞こえたらしく、遠藤先生は机と机の真ん中を通りながら、男子たちをじろじろとながめた。
「なに、喧嘩してんだ、お前ら」
「してないです」
席に着いた莉子ちゃんが私に体を寄せてくる。
「絶対、あいつらだよ。気持ち悪い」
守屋さんが黒縁メガネのレンズ越しににやにやと笑いながら三人をながめ、ついで私と莉子ちゃんに背中を伸ばしてきた。
「あれでしょ。オタマちゃんの短歌が新聞に載ったからでしょ」
「短歌がなんだって? 数学だぞ」
遠藤先生がメガネを鼻頭に乗せて守屋さんをにらんでくるので、守屋さんはそそくさと姿勢をもどし、私と莉子ちゃんもそそくさとテキストを替えた。
「喧嘩するんじゃない。喧嘩は」
遠藤先生の呟きには誰もこたえなかったけれども、男子三人はいつまでも小突きあったり背中を叩いたりしていた。
21時に塾は終わって、三人は終始、お前だろお前だろを連呼しつつ、帰っていった。私と莉子ちゃんと守屋さんの三人は、遠藤先生の自宅の門の前で10分ほど、この事件について話し合った。
「気持ち悪い。だってさ、普通はメールとかでいいんじゃない? なんでいちいち消しゴムなんかに書いて置いてくの。気持ち悪い。本当に気持ち悪い」
莉子ちゃんは気持ち悪いを連発していてあまり冷静ではなかった。対して守屋さんは冷静だった。
「オタマちゃんのメアドとか知らなかったからそうするしかなかったんじゃないかな。焦ったんじゃない。オタマちゃんが告白された話を聞いちゃって」
「だったら友達の私に訊いてくればいいじゃん。気持ち悪い」
「でも、いいと思うけど。私はそういうの好きかな」
「うわ。守屋ッチ、マジで言ってんの。いや、これがイケメンで頭がいい人だったらいいよ。でも、あいつらの中の誰かなんだよ。気持ち悪い。てか、絶対に波田野くんだし。私はそう思う」
「どうかな。わかんないね」
そうしているうちに私の携帯電話にメールが届いてきて、ママからだった。いつも塾が終わってすぐに帰宅のメールを送っているので、心配して送ってきた。私は気持ちの整理がつかないまま莉子ちゃんと守屋さんと別れ、自転車を漕いだ。
気持ちの整理がつかない――。
私はなんだかよくわからなかった。私は愚か者の自分がいやになりすぎてそれどころじゃなかった。でも、一方で、消しゴムの短歌に救われたような気がしないでもなかった。恥ずかしいというのもあった。だから、私の心は闇鍋だった。整理なんてつきようもない。
忘るやと物語りして心遣り
過ぐせど過ぎずなほ恋ひにけり
次の週の月曜日、三度目の消しゴム短歌はこれだった。莉子ちゃんはどういう意味だと大声で私に訊ねてきて、三人はまたしても犯人探しの内輪もめをはじめた。守屋さんはにやにやと笑いながら三人をながめていた。
事がみんなに知れても依然として止めないその姿勢は、嬉しいような腑に落ちないような、複雑な気持ちを私にもたらした。消しゴムの中身を確かめたときに、いちばん最初に私の胸に湧き上がったのは、空白だった。残念だった。明らかにその人の気持ちではなかった。自宅に帰ってさっそく調べてみれば万葉集の十二巻2845番、柿本人麻呂だった。
もちろん、詠み人知らずの消しゴム短歌よりも、情緒と美しさに優れている。けれども、私には和歌の聖人のそれがただの字面にしか映らなかった。
莉子ちゃんに詰め寄られて臆してしまったのだろうか。彼の思いはその程度だったんだろうか。
最初の消しゴム短歌から三週間が経っている。
莉子ちゃんは常々、送り主は波田野くんだと言いつづけている。莉子ちゃんは学校で終始、クラスメートの波田野くんの行動を監視しているようで、あの行動はあやしかった、あの言動があやしかった、と、推理の材料を私にメールで寄越してくる。取り立てて推理が成立するような内容ではなかったけれど。
守屋さんも、波田野くんじゃないか、と、言っていた。なぜなら、波田野くんはああ見えて昔は学力優秀だったらしいから。
私は誰とも思えなかった。むしろ、誰でもないんじゃないかとさえ思ってしまった。消しゴムを机の上に三つ並べてながめているうち、こんな私を知っていてくれるなら誰でも、と。
今日もまた どうしていいのかわからない
好きなんだけど好きなんだけど
私もどうしていいのかわからない。
私は、ショッピングモールで見たくないものを見てしまって以来、吉海くんとは学校の廊下で二度すれ違った。
一度目は例の気まずさだけだった。二度目は吉海くんがぎこちなく右手を掲げてきながら「よお」と言ってきた。私はちょこっと頭をさげて通りすぎていった。
私は自分がまったくわからなかった。吉海くんが勇気を振りしぼって私に声をかけてきたことは嬉しかった。でも、腹も立った。あの女の子たちと遊んでいたくせにと率直に苛立った。
私は素直になろうと頑張って自己分析に励んでいる。なのに、何も解決されない。素直に自分を見つめれば見つめるほど、私は私をとてもきらいになっていく。
つらい。