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どうしてか

「好きだけど、好きなんだけど、か」


 消しゴムを顔の前にかかげてながめながら、私はちょっとだけ笑った。


 机の引き出しの中にしまうと、両の掌に顎を乗せ、ぼんやりと考えた。消しゴムの持ち主は何を思ってここに書いたのだろう。


 言葉を文字にしたくなる気持ちは、私も新聞に投稿したぐらいだからなんとなくわかるけれど、どうして消しゴムに書いたんだろう。


 文字にした言葉をカバーでひそかに隠すのなら、自分の日記でも良さそうなものだ。


 消しゴムの持ち主の子からしたら、おまじないのようなものなんだろうか。使いきれば願いはかなう、そんなおまじない。だから「今はまだ 言えないでいる」のかもしれない。


 そう考えると、なんだか心苦しい。彼女は消しゴムをなくしたことに焦っているはずだし、おまじないを乗せた消しゴムが使い切れないとなると、自分の願いもかなわなくなってしまうって、暗い気持ちになっているかもしれない。


 じゃあ、この消しゴムをその子に返そうとする行動を私が取る。でも、それは何かよくないことになりそうな気がする。


「好きだけど、か」


 私は机の前から腰を上げると、ベッドに仰向けになって飛び込んだ。白い壁紙の天井をながめながら、吉海くんに告白されたことを思い出して、なんだか胸苦しくなった。


 どうしてか、消しゴムの持ち主の思いと、吉海くんのあのときの表情がかさなってしまっていた。


 可哀想なことをしてしまったというか、罪悪感というか、人が持っていたそういうあわい気持ちを私は踏みにじってしまったんじゃないかって。


 開け放った窓から、風が季節の甘いかおりを運んでくる。そよいだカーテンレースの網目がお昼前の青い空をのぞかせている。


「違うっ。あれはテロ行為だからっ」


 私はがばっと起き上がって、閉め切られたクローゼットの扉の木目をにらんだ。


「私は悪くない」


 すると、仕切られたドアの向こう、階段を上がってくる音がして、


「たまきー。ご飯食べに行くー?」


「行く!」


「じゃあ早く支度してねー」


 私はベッドから飛び降りて、クローゼットを叩き開けて、お姉ちゃんのおふるの体操着を脱いで、よそ行きのカーディガンを羽織った。財布をポーチバッグに詰めこんで、私は部屋から階段を降りていく。


「行く行く行く行く。どこ行くのっ」


 でも、はしゃいでいた私は階段を下りきったところで、表情を無にした。仏像の気分でいた。玄関には靴を履き終えているパパがいた。


「行くぞ」


 パパはそう言って玄関のドアをがちゃりと開けた。どうしてパパも行くの、と、私は言いたかったけれど、言えるはずもないからしぶしぶ玄関に下りて、下駄箱から取り出した靴をだらだらと履いていく。


 パパはドアを開けたまま私の様子をじっとながめてきている。


「どこ行くの……」


 私がぼそぼそと訊ねると、パパは、車で20分離れたところにあるショッピングモールの名前を出した。


「えっ! やだよ!」


「いいじゃないか。買い物もできるし」


「だってあそこ、学校の子たちとしょっちゅう会うんだよ! 日曜日だから絶対にいるよ!」


「べつにいいだろ。会ったって」


「やだよ!」


「じゃあ、留守番しているか?」


 私は唇をとがらせてパパを見つめた。パパはいつもの感情のない目で私を見返してくる。


「環、どうするんだ。行くなら行く、行かないなら行かない、はっきりしろ」


「行く。でも、あそこ行くんなら何か買って」


「何」


「服とか」


「ママに訊け。ほら、早くしろ」


 靴を履き終えてパパの後ろについていくと、すでに門の前にはママの車が停まっていて、パパが助手席に乗って、私は後部座席に乗った。


「環。シートベルトして」


「後ろだから大丈夫」


「ダメ」


 運転席に直角に座っているママに言われてシートベルトをすると、車は走りはじめた。


「何がいいかな。環、何が食べたい?」


「うーんと」


 私がショッピングモールに並んでいる飲食店を思い浮かべていたら、パパが何も言わずにカーナビを操作して、流れていたアメリカのポップスからAMラジオに切り替えてしまった。


「ちょっと、パパ、勝手に変えないで」


 ちょうど赤信号に車が捕まったので、ママがカーナビを操作してポップスにもどした。


「昼のニュースがあるだろ」


「さっきテレビで見てたでしょ」


 パパは腕組みをして助手席に腰を沈めた。私は両親のやり取りを見てひそかににやにやと笑った。パパがママにやっつけられているのは、見ていて心地が良かった。


 服を欲しいと言ったら、パパはママに訊けなんて知らんぷりしていたけれど、こういうときはおねだりしてもなんとなく成功しそうな気がするので、私は何を買ってもらおうかと考えをめぐらせて、車窓に流れる景色をながめた。


「そういや、栞は帰ってこないのか。部活はいつも午前中だけだろう」


「練習試合だって」


「試合か。部活もいいけど、もうちょっと、な」


「そうね」


 お姉ちゃんのせいで空気が怪しくなってきているので、こっちに飛び火しないうちに私は助手席と運転席の間から顔をのぞかせた。


「ねえ、ママ。ご飯もいいけど、服も何か買ってね」


「えっ?」


 ハンドルを取りながらママはルームミラーから私をちらっと見やってきて、すぐにフロントガラスに向き直ると、ウインカーのチクタク音とともに交差点にハンドルを右に切っていく。


「ダメ。環だけに買ったら栞がうるさいでしょ」


「おい、よそ見するな。自転車いるぞ」


「わかってるってば。よそ見なんかしてませんよ、もう」


 横断歩道の上を自転車で立ち漕ぎしていく制服姿の女子高校生を見送ったあと、車は国道の左車線に入っていった。


「ねえっ、ママっ」


「だから言ってるでしょ。ダメって」


「お姉ちゃん、あそこはダサい店しかないって言ってたからいいの。どうせ何も言わないよ。だからいいでしょ。ねえ、ママ」


「さっきの制服が大浦第一女子か?」


「そう。吹奏楽部の女の子かしら。全国大会で有名みたいだから」


「ねえっ。話をそらさないでっ」


 ママはルームミラーをちらちら見たあとに、ウインカーをチクタク鳴らして右車線に入っていき、高齢者マークの車を追いぬいて、また左車線に入った。


 そうして、ママはため息をつく。


「パパ。環が服を買ってほしいそうですよ」


 パパはだんまりしてフロントガラスの雲の溶けた青白い空と向き合っているだけ。


「ねえ」


 私は仏像みたいにして無表情でいるパパの横顔をのぞきこんだ。


「ねえ、パパ」


「俺は女の子の服とかよくわからないしな」


「いいでしょっ。部長になって偉くなったんでしょ。ねえ、パパ。昇進祝い」


 パパは鼻で笑った。


「おいおい。そうしたら俺が貰うほうだぞ。給料が上がったって俺の小遣いはそのままだしな」


「よく言うわ。増やしてあげたじゃない。五千円」


「五千円って」


「ねーえ、パーパ、パーパ」


「わかったよ。五千円までな」


「ほんとっ?」


「ああ」


 パパは上機嫌の様子だった。腕組みをして相変わらず偉そうに座っているけど、頬をゆるめているのは珍しいことだった。何かいいことでもあったんだろうか。


「パパ。栞にも買ってあげてね」


「小遣いが上がったって娘たちに取られてプラマイゼロじゃないか」


「はいはい。環、良かったわね。パパにちゃんとお礼言うのよ」


「ありがと、パパ」


 パパは何も答えなかったけれど、助手席の窓に顔を向けて、流れる景色をながめた。


 パパなんかにお礼を言うのが恥ずかしかった私は、すぐに後部座席に腰を沈めた。


 フロントガラスの向こう、街路の桜の木々が小さな若葉を枝にそろえている。青白い空へと真っ直ぐに伸びる国道は、盛んだった春からよそおいを替えようとしていた。


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