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けしゴム

 着たくもない真っ黄色のレインコートを羽織って、私は全速力で自転車を漕いだ。塾がはじまるのは19時で、いつもより出るのが遅くなってしまっていた。


 雨ニモマケズ風ニモマケズなんて言うけれど、私はそれこそ世知がらい社会にもめげずに自転車を漕いだ。夜闇とこぬか雨でライトが照ってもすっかり黒ずんだ道路を行けば、坂がせまると立ち漕ぎで、坂をくだるとタイヤまかせ、息を吐いて呼吸を整えながら、休まず休まずペダルを漕いだ。


 そうして、近くなったところで腕時計を確かめてみたら、予定より30分も早く到着するペースだった。いったいどれだけ速く漕いできたのだろう、これまで通うときはどれだけゆっくり走ってきたのだろう、と、なんとも言えない気持ちで笑いながら、私は自転車をそのままコンビニエンスストアの駐車場に流していった。


 ひとまず、おしゃれじゃないレインコートを脱いで、バサバサと叩いて雨の玉をはらって、自転車のかごにかぶせた。


 私はさすがに喉がかわいていた。なので、自動ドアの出入口をまたごうとした。


 すると、入れ違いで店から出てくる人がいたので、私は入るのをやめて出てくる人に譲った。私は出てくる人を待った。そうしたら、出てきた人は私を見て、立ち止まった。


「あっ」


「あっ」


 遠藤先生の塾で一緒の添田という人だった。彼はすでに菓子パンを口の中に運ぼうとしていて、店を出る前から包装をやぶるだなんて、どれだけ食いしんぼうなんだろう。


 私はすぐに視線を外し、頭を少しだけさげて、自動ドアをまたいだ。雑誌棚のガラス越しから見てくるような気がしたので、私は視線を伏せて足早にペットボトルの棚まで歩いていった。


 やがて、私は買った水のペットボトルを持って外に出た。そうしたら、添田という人は私の自転車のわきで、自分の自転車のスタンドを立てたままにペダルを漕いでカラカラとタイヤを回していた。菓子パンを頬張りつつ私に向けて左手をかかげてきた。


 私は彼を上目にのぞきながら、もう一度、頭をちょっとだけさげた。そして、鼻先を突き上げてスタスタと自転車に歩み寄り、目ざわりな彼には一切の目もくれずに、レインコートの袖に腕を通した。


「早いじゃん、オタマちゃん」


「そうかな」


 私は水を飲みたかったけれども、スタンドを蹴ってはらい、さっさと自転車にまたがった。


「カッパ、似合うじゃん。黄色いの、小学生みたいで」


 私はペダルに乗せていた足を止めた。ニタニタと笑っている彼に視線を上げると、ものすごくゆがめた口許で言ってやった。


「添田くんも似合うじゃん、パンを食べているとこ。食いしんぼうみたいで」


 私は鼻をそむけながら自転車を蹴って進め、立って漕いだ。コンビニエンスストアの駐車場を出ると、怒りに任せて全速力でペダルを漕いだ。喉がかわいているのも忘れるくらいにものすごく頭にきていた。


 遠藤先生の自宅の広い庭に猛スピードで入っていく。ブレーキ音をひびかせながら急停止する。ようやく、かごの中からペットボトルを引ったくってきて、野蛮人みたいな手つきでキャップをひねって、山賊みたいな乱暴さでボトルの半分まで一気に飲んだ。


 喉の潤ったよろこびの息と一緒に、怒髪天突きぬけの息をぬいた私は、庭の離れの大きいプレハブ小屋に歩み寄っていき、ドアノブを引いた。


 教室は白い蛍光灯が照っていた。けれども、誰もいなかった。私はもう一度ため息をついた。


 レインコートを脱ぐと、教室の中に上がり込み、開け放した出入口から駐車場へ、レインコートをバサバサと叩いてはらった。そういえば言われた通り、真っ黄色のレインコートなんて小学生みたいだと冷静になって考えた。


 ママのせいだ。こんなレインコートを買ってきたのもママだし、ママが車で送ってくれないから食いしんぼうに出くわしてしまった。


 でも、ママにたてついたところで無視されるだけだから、私はまたため息をこぼし、レインコートを教室のすみのコートハンガーにかけた。


 そうして、私はリュックサックを下ろしながら、いつも座っている左側、二列目の長机の前に腰かけた。リュックサックを机の前に置いたまま、18時40分の時計の針を見て、またまたため息をついた。いったい、今日は何回ため息をつくんだろう。私は自分自身にもいやになってきながら、リュックサックの中からテキストとノート、筆記用具を取り出し、ほぼ空っぽになったリュックは、長机の下に備えつけられてある棚に押しこめた。


 ぽとり、と、何かが落ちた。私は机の下をのぞきこんでみた。私がリュックを押しこめたはずみで消しゴムが落ちていた。


 昨日の二年生かな、と、消しゴムを拾ったけれど、手にしてみて妙だった。なんの変哲もない、誰もが使っている消しゴムだった。青白黒のトリコロールのカバーにおさめられた消しゴムだった。でも、使った形跡がまったくないのが違和感だった。


 買ったばかりで無くしちゃったのかと思い、あとで遠藤先生に渡そうと考えながら、何気なく表なり裏なり返してみたら、また、違和感を覚えて手を止めた。カバーのはしが中身の消しゴムから若干ずれていた。そして、中身の消しゴムの部分に、マジックの線がちょっとだけカバーからのぞいていた。何かしらの字が書いてあるようだった。


 私はどうしようと思いながら、ひとまず消しゴムを膝の上に置いた。


 中身の消しゴムに何かが書かれてある。何が書かれてあるのかとても気になる。でも、誰の消しゴムなんだろう。他人様のそういう部分を勝手にのぞいてしまっていいんだろうか。


 でも、私の中で戦った天使と悪魔は、悪魔の私が勝った。好奇心のほうがまさった。消しゴムに何かを書いて、わざわざまた隠すだなんて、何の真似だろうと口許をゆるめながら、私は消しゴムからカバーを外してみた。


 私はすぐに笑うのをやめた。



 ――言えないでいる 好きなんだけど



 と、油性マジックの極細の先で丁寧な字で書かれてあった。


「やばい」


 私は目を点にしつつも思わず声に出してしまった。私は誰かの心の思いを覗いてしまった。


 多分、昨日の二年生の。


 私は戸惑いのままに消しゴムをひっくり返した。すると、こちら側にも書かれてあった。



 ――好きだけど 好きなんだけど 今はまだ



 ドアがガチャとひらいて私はあわてて消しゴムにカバーをはめた。顔を振り向かせてみると、波田野という人だった。片手に傘をたずさえていた彼は、あわてて振り向いた私の様子に目をまるめていた。挨拶なんて私からも彼からもしたことがなかったけれど、多分、私があんまりにもひどい形相だったに違いなく、


「ういッス」


 と、とりあえずと言ったぐあいで波田野という人は声を投げてき、私は適当にうなずいたあと姿勢をもどした。


 私は消しゴムを気づかれないようそろりとリュックサックの上に置いた。いや、でも、莉子ちゃんに見つかったらあらぬ誤解を受けそうなので、後ろで傘を立てている波田野という人に警戒しながら、リュックのジッパーをゆっくりと開けていき、消しゴムを人差し指ではじいて、リュックの中に入れた。


「どうしたの。なんか変だけど」


 波田野という人がいつも自分が座っている席にショルダーバッグを置きながら、思いがけずに私をながめてきていた。


 私はとにかく怪しまれないよう、動揺を精一杯押さえながら波田野という人をちらっとだけ横目にして、


「べつに。何が?」


 と、だけ、言った。


 波田野という人は首をかしげて、ようやく椅子におさまってくれた。


 私は気が気じゃなかった。罪悪感をとても覚えた。この消しゴムは遠藤先生には渡せない。なぜなら、遠藤先生がもしこの中身に気づいてしまったら、あの人の性格だと、きっと、私が新聞に投稿したときのようにみんなの前でさりげなくはやし立てるに違いなくて、そうすると、二年生のここに座っている子は傷ついてしまう。


 かといってこれをそのまま棚に置いておいても、遠藤先生が掃除をするときに見つけてしまう。


 これは私が私の手でほうむってしまったほうがいいはず。うっかり変な行動を起こしてしまうと、この消しゴムの持ち主からしたら、テロ行為にあたるかもしれないのだから。


 それにしても――。


 私が消しゴムの中身を先に見たほうはおそらく逆で、この消しゴムは表と裏で五・七・五・七・七の短歌を作っていた。




 好きだけど 好きなんだけど 今はまだ


 言えないでいる 好きなんだけど




 気持ちはわからなくはないし論じるつもりもないけれど、なんだか率直すぎるな、と、私は率直に思った。


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