だって、雨だから
二時間目の休み時間、書き終えた学級日誌を担任の先生に渡し終え、私は職員室から三年生の廊下に帰ってきていた。
廊下には、三年生の生徒のうち、三分の一ぐらいが教室から出てきていて、思い思いに会話をはずませていたり、友達目当てに教室から教室を渡っている。
窓からのぞける桜の木は春の雨に濡れそぼっていて、花びらのほとんどがなくなってしまっていたけれど、二年生から三年生に進級したばかり、クラス替えのあとのふわふわと落ち着かない気配はまだ続いていた。
私は友達が片手で数えるほどしかいないので、だれだれちゃんを目当てに違うクラスに顔を出してみるなんてことはしなかった。
でも、自分の1組の教室まで行くまでの間、少し歩みをゆるめて、各教室の中をそれとなくのぞいていきながら、ああ、あの子は何組になったんだ、ああ、この子は誰々ちゃんと別々になっちゃったんだ、なんて、詮索だけはしてみた。
そうしたら、2組の前を通ったとき、私はうっかり、吉海くんと目が合ってしまった。吉海くんは廊下との出入口にいちばん近い席のところ、そこに座っている男子生徒の肩を肘でぐりぐりと押さえつける悪ふざけをしていて、ちょうど、吉海くんがこちらに向いたとき、私もちょうど出入口を通りすぎていた。
目が合ったとき、私は、一瞬、時間を止めた。吉海くんも吉海くんで、それまで悪ふざけをして笑っていたのに、私と目が合った途端、はたと真顔になった。
どうして、私がそんな思いにならなければいけないのか、とても気まずい。それに、なぜか、こういうときになると視界が広くなるみたいだった。私は吉海くんとお互いに気まずさを共有しながら、彼の周りにいた二人の男子生徒も急に気まずい顔つきになったのが見えた。
吉海くんとその友達は、まるで、私を疫病神扱いするみたいに、その場の空気を面倒にこじらせている。
私はすぐに顔をそむけた。足早に立ち去って、さっさと自分の教室に入った。さっさと自分の席について、さっさと次の授業の支度をした。そうしたら、二時間目にやったばかりの数学の教科書と、ノートは五時間目の国語を出していた。
私はなんとも言えない気持ちで不具合な机の上の並びを見つめたあと、二冊とも乱暴に畳んで、机の中に突っこむようにして押しこんだ。
ため息だった。
私はどうにも脳裏から、吉海くんたちの面倒な表情が離れない。気まずさを押しつけられている状況に不条理さを感じている。こういうことになるのなら、どうして吉海くんは私に告白したんだろうと、めちゃくちゃな疑問を起こしてしまう。
もちろん、私だって男子を好きになったことはある。
でも、告白なんてしたことない。気まずくなってしまうことぐらい容易に想像できたから。
私が好きだからあの人も好きでいてほしいっていう願いならたくさんあった。でも、一か八かの正面体当たりでそれを確かめようとして、そのまま相手にひらりとかわされて、うっかり猪突猛進のまま崖から落ちてしまうぐらいなら、そんな気持ちは胸の小箱のひそかなところに閉じこめてしまっていたほうがいい。もしかしたら、風の噂で聞こえてくるのかもしれないし。誰々は松山を好きらしい、だなんて。
むしろ、やられてみて初めて知ったけれど、告白の正面体当たりなんて、例えれば自爆テロ行為みたいなものだった。吉海くんは、私はおろか、周りの友達にまで気まずさを与えているのだから。
やだな、と、私は声に出して呟きそうだった。
卒業まであと一年弱、今日みたいな気まずさが何度もあるのだろうから。
「やだな」
と、呟いたのは、日暮れ前になってもやまないこぬか雨だった。
週に三度の塾の日だった。
学校からの帰宅は徒歩で傘だからいいのだけれど、家から塾までは自転車。
傘だけだと濡れてしまうからレインコートを羽織るけれども、レインコートだと蒸れて暑くなるし、かと思って薄着になると肌寒いし、それにそもそもレインコートはおしゃれじゃないので着たくない。
前に一度、私のレインコート姿を、莉子ちゃんが「おばさんみたい」と、からかってきたときがあって、もちろん、莉子ちゃんはたまに口が悪いだけで冗談なんだけれど、私はひそかに傷ついていた。二度と着たくなくなった。
17時半頃になるとママが仕事から帰ってくるので、私はとりあえず宿題を進め、時折部屋の窓から手を出してみたり、ビニール傘が外灯の光を照り返している道路にママの姿を探してみたりした。
ママは帰ってくるのがいつもより遅かった。玄関の鍵が下りた音を逃さず聞いていた私は階段を駆けおりていって、買い物袋を両手に抱えているママにお願いした。
「ねえ、ママ? 今日の塾、送ってって」
「え?」
ママはレインコートに濡れて湿った髪の毛にハンドタオルを当てながら、わずらわしそうにして私を見やってきた。
「どうして」
「だって、雨降ってるじゃん」
「だから?」
ママは靴を脱いで廊下に上がると、パンパンの買い物袋を両手にさげて、私を通り越してリビングに入っていってしまう。私はリビングにママを追いかける。
「送ってってよ」
「環。パパと約束したでしょ。自転車で行くんだって。それに言っていたじゃない。遠藤先生のところなら自転車でも苦にならないだなんて」
「だってそれは雨が降ってないときで――」
「ダメです」
ママは相手にしてくれないまま、キッチンに入っていってしまった。私は冷蔵庫の前で屈んだママをしばらくにらみつけた。
「私が変な人にストーカーされていたらどうするのっ!」
ママは無視して見向きもしてこない。
「バカっ!」
私は吐き捨ててリビングを飛びだすと、階段をこれでもかというぐらいにあからさまに音を立てて踏んで上がっていった。