きっと、どうでもいい
「へーえ。吉海くんって、あのちょっと天然パーマの吉海くんでしょ。だったら、べつにさ、付き合っちゃえばよかったんじゃない? 吉海くん、悪くないじゃん。今からでも遅くないって」
幼なじみの莉子ちゃんは、にやにやと笑いながらそう言っていて、明らかに無責任だった。
テキストのひらきの部分に右手の掌を押しすべらせながら、私は莉子ちゃんにため息を返した。
「吉海くんのことは嫌いじゃないけど、でも、好きでもない人と付き合って、相手に悪いじゃん。私は好きじゃないんだもん」
「付き合えば好きになるかもしれないでしょ。環は頭が堅い」
莉子ちゃんは私のあたまを軽くゲンコツしてきた。私が唇をとがらせて莉子ちゃんをにらんでいると、通路をへだてた向こうの席、長机を二脚並べて座っている三人の男子たちが私を見ながらにやにやと笑っていた。
「え? オタマちゃん。誰に告白されたの? 誰と付き合うの?」
三人のうちでいちばん短髪の藍島という人が茶化してきたけれど、私はあの人たちとは学校が違うし、会話もまったくしたことがないしで、こういうときだけ話しかけてくる連中は無視して黒板のほうに向いた。
男子たちと席が近い莉子ちゃんが代わりに言った。
「言ったってわかんないでしょ。環はウチらと学校が違うんだから」
「知ってっかもしれないじゃん。オタマちゃんの中学、仲いいやつとかいるし」
「どうだっていいじゃん。あんたらには関係ないじゃん」
「あー、俺も告白しようかなー」
と、三人のうちで一番長身の添田という人が冗談ぽく言うと、三人は、ギャハハ、と、不良の集団みたいな笑いかただった。
「無理無理、添田じゃ無理」
「わかんないじゃん。そういう波田野だって無理じゃんか」
「いや、俺は別に好きな人とかいないしー」
「俺だっていねえしー」
「添田はこの前フラれたばっかじゃん」
連中をよそに莉子ちゃんがぼそりと吐き捨てた。
「くだらな」
確かにその通りだと私は小さくうなずいた。
吉海くんも友達同士ではあのようにくだらないのかなとも思った。もしも、くだらなかったら、今日の昼休みの吉海くんの緊張した姿勢はなんだったんだろうって幻滅してしまいそう。
別に好きではないけれど。
すると、私と莉子ちゃんの前の席に一人で座っている守屋さんが、やっぱり口許をゆるませながら、私に黒ぶちメガネの横顔だけを振りむかせてきた。
「でもさ、オタマちゃん、これで何度目? 告白されたの」
私は黙っていたけれど、莉子ちゃんがピースサインみたいに指を三本出して、守屋さんに見せた。
「いいなあ、オタマちゃん。モテて」
「守屋ッチだってモテるじゃん」
莉子ちゃんがそう言うと、まさか、と、笑って見せたけど、絶対に守屋さんは十回以上は告白されているはずだと私は思った。
私は守屋さんとは学校が違う――、私だけ塾のみんなとは中学校が違うので、彼女がモテるかどうかはわからないけど、守屋さんは芸能事務所にスカウトされたっておかしくないと私は思っている。
ガチャ、と、ドアがひらいて、遠藤先生が入ってきた。
「うーい」
頭髪は白まじり、眼鏡を鼻の頭に乗っけているだけだ。先生が入ってきても三人の男子は盛り上がっていたので、遠藤先生は彼らの頭をテキストで次々と叩いていった。
教師を定年退職したあとに遠藤先生が自宅にひらいたこの学習塾は、中学三年生が私たち六人だけ、べつの曜日の一、二年生を合わせても全員で十四人の小さな学習塾だ。
私が自転車を四十分走らせて、学区外にあるこの小さな塾に来ているのは、ママが遠藤先生の元教え子だから。
引っ越して転校してしまった莉子ちゃんのママも元教え子で、守屋さんは家が近いだけという理由らしい。
男子たちは知らない。
つい半年前まではママの車の送りむかえで進学塾に一年生のころからかよっていた。でも、一年生のときからそこはいやだった。仲良しの人が出来なかったというのもあるけれど、受験に対してすごくプレッシャーをかけてくる塾だった。塾の先生たちは熱心だっただけかもしれない。でも、目玉を大きくさせて、受験受験と何かに取りつかれたみたいに執拗に言葉にする姿勢が私には受けいれられなかった。
私はママに辞めたいと言ってだだをこねた。とてもこねた。
ママは最初は反対していたけれど、私が先生たちを嫌っているのを前々から知っていたので、折れてくれた。そうして、ママは莉子ちゃんのママとどこかで会ったみたいで、遠藤先生が学習塾をひらいているという話を聞いて、私にすすめてきた。私は莉子ちゃんがいると知って、二つ返事で入ることにした。
ただ、パパは私が塾を辞めたことにいつまでも納得していない。
――辞めたいだなんて、勉強に付いていけなくなっただけじゃないのか。そういう気持ちでこれから先をやっていけると思っているのか。受験だってうまくいくと思うか。
私の気なんて知らないくせに。
遠藤先生の塾に通うなら、今までのように車の送りむかえではなくて自転車でかようこと、さらに、成績が下がったらすぐに元の塾にもどすとも偉そうに言ってきた。
遠藤先生の塾のほうが学費が安いみたいだから、私は家計に貢献しているはずなのに。
「おっ、そういやオタマ」
と、遠藤先生が顔を下に向けてメガネを鼻頭に乗っけたままの裸眼で私に視線を向けてきた。
莉子ちゃん以外の塾の皆が私をオタマオタマと呼ぶのは遠藤先生が呼びはじめたからだ。学校ではタマちゃんとは呼ばれても、時代劇の女の人みたいにオタマちゃんとは呼ばれない。
「オタマ、日曜日の新聞の地方版に載っていたな。短歌。あれ、オタマだろ。14歳、松山環って」
私は今日二度目の顔のあつさだった。広げたテキストにうつむくと、隣の莉子ちゃんがすぐに顔をよせてきた。
「えっ? 何? 短歌って」
遠藤先生が莉子ちゃんに短歌も知らないのかと言ってみんなが笑った。知っていますと莉子ちゃんは声をとがらせた、けれど、私はうつむいたままあつい顔を精一杯隠そうとしていた。
「なかなか才能あるじゃないか。オタマにそんなあれがあったなんてな。ま、そういうことで、8ページ。添田、読め」
「えーと、8ページは――」
「立って読めよ。立って」
まさか入選すると思っていなかったし、たとえ入選できたとしても学校のみんなも塾のみんなも新聞なんて読んでいないだろうから大丈夫だろうと思っていた。でも、遠藤先生が同じ新聞を取っていたなんて予想だにしなかった。
「栞」
おみそ汁を運んできたママは、私の隣に座るお姉ちゃんに声をとがらせた。
「スマホ。食事中はやめてって昨日も言ったばかりでしょ」
お姉ちゃんはふてくされながらお茶碗のわきにスマートフォンを置いたけれど、ママに取りあげられ、食器棚の上に移動させられた。
ママが台所からリビングへ出ていくと、お姉ちゃんは素早い動きで食器棚のスマートフォンを取りに行き、左手の親指を器用に動かしながら、右手のお箸でご飯を口に運んでいく。
私はお姉ちゃんの指の素早さをながめたあと、リビングのソファに座ってテレビ番組を観ているママを呼びかけた。
「ねえ、ママー。私もスマホ、欲しーい」
「高校生になってからってパパが言ってたでしょ」
「あと一年もあるじゃーん。友達皆持っているんだよー。莉子ちゃんだって持っているんだよー」
「人は人。環は環。それにあっと言う間なんだから、一年なんて」
「あっと言う間なんかじゃないよ」
ママはテレビドラマに夢中でいて、私がソファー越しに背中をにらみつけているというのに、りんごをしゃりしゃりと食べているだけだった。
私は頬をふくらませながら食卓に姿勢をもどし、カキフライにお箸をのばした。口の中に放りこんで咀嚼しながら、隣のお姉ちゃんの指先をながめた。お姉ちゃんは、器用に、見向きもしないでおみそ汁を右手にした。
「お姉ちゃん、カキ、食べないの」
お姉ちゃんはお椀に口づけたまま私をちらりと見やってき、すすってテーブルに置くと、カキフライを取った。
ピンポン、と、家のインターホンが鳴りひびいて、お姉ちゃんはあわててスマートフォンをジャージのズボンのポケットに入れた。ママがソファーから腰を上げてモニターを確認し、玄関へと出ていく。
お姉ちゃんはさっきまでの指のはやさみたいなはやさでご飯をぱくぱく食べていく。
おかえりなさい、と、玄関からママの声が聞こえてきて、やがて、パパがリビングに入ってきた。パパはソファーの上にバッグを置くと、ふう、と、太いため息をついた。私とお姉ちゃんはリビングに背中を向けたままご飯をぱくぱく食べていた。
「ご飯、食べてきたんでしょ?」
「ああ」
「シャワー?」
「ああ」
パパはリビングを出ていった。ちょっとお酒くさかった。ママがパパに付いていって、明日のゴルフは何時に出るのかと訊いていた。朝4時半にだれだれさんが車で迎えに来るから、4時には起こしてほしいとパパは言っていた。
「パパ、明日、4時だって」
私がお姉ちゃんに顔をよせて言うと、お姉ちゃんは唇をひしゃげて笑った。
パパは、私が塾から帰ってくるときにはいつも晩酌をしているから、今日は会社関係の人たちと食事をしてお酒を飲んできたんだろうけど、夜の9時過ぎに帰ってきて朝4時に起きるだなんてどうかしている。それもゴルフのために。パパはゴルフはそんなに好きじゃないと言っていたことがある。だったらやらなければいいのに。
パパが帰ってきたあとのお姉ちゃんは、食事のスピードを三倍ぐらいにギアチェンジしてたいらげていき、スマートフォン片手に二階の部屋に階段を上がっていった。
お姉ちゃんがいなくなると、ママがお姉ちゃんの食器を無言で洗った。私はため息をついていたママに遠藤先生のことを話した。
「遠藤先生も新聞見ていたんだって」
「そうなの? 短歌?」
「うん。なかなか才能あるじゃないかって褒められた」
ママは、ふふ、と、笑った。良かったじゃない、とも言った。ママは食器を布巾で拭いたあと、りんごを食べるかどうか訊いてきた。私は食べると言った。ママは私の向かいに座ると果物ナイフでりんごをくるくると剥きはじめた。
「遠藤先生って、あんまり褒めたりしないんだよ」
「知ってる」
ママは綺麗に剥けたりんごを一旦まな板の上でさくさくと切った。お皿に並べると、食事を終えていた私の前に差し出してきて、代わりに私の食器を流し台に持っていった。
「全部食べないでよ。栞の部屋に持っていってあげてね」
私は頬杖をついたままうなずき、りんごをフォークで刺した。切り分けられたりんごの白い身を私はじっとながめた。糖分なのか水分なのか私にはわからないけれど、身の繊維から甘そうな果汁がにじみ出ていた。
私はあふれそうであふれてこない果汁をながめていた。
「ママ、私、今日ね」
「何?」
「告白された」
「えっ? ほんとっ?」
ママは急に食器を洗う速度をギアチェンジして流し台をさっさと切りあげてくると、りんごを食べている私の向かいに再び腰かけた。口許を緩めて目をきらきらさせながら、テーブルの上に両腕を置いて身を乗りだしてきた。
「良かったじゃない。で、好きって言われたの? どうしたの? 環もその人のことが好きだったの?」
「好きじゃない。きらいでもない。ちょっとしか喋ったことない」
「で、どうするの」
「ごめんなさい」
「そうなの。でも、よかったじゃない。男の子から言われるだなんて。何年生? 三年生? 同じクラスの子?」
私は新しいりんごにフォークを刺したけど、なんだか急にため息が出て、そのまま壁の時計のほうをぼけっとながめた。
「どうでもいい」
「贅沢な人」
パパがお風呂から出てくる物音がしたので、私は腰を上げ、りんごのお皿を持った。
「よかったね。告白されるだなんてなかなか無いんだから」
「パパには言わないでよ。絶対に」
「わかってる」
食器棚からお皿をもう一枚、フォークをもう一つ取り出して、私は台所を出ていった。