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言動はただの矛盾

 パパが人間のクズだということはずっと前からわかっていたから、いまさらどうでもいい。


 けれども、ママまで私を裏切ったことは、私の怒りを落ち着かせてはくれなかった。ママは結局はパパの手先だったのだ。陰でこそこそと、悪代官に賄賂を送っている悪徳商人のような陰気さで、パパの権力にすがっているとんだ卑怯者だった。


 このさい、もう、私から彼らを裏切ってやろうと思う。高校なんて進学しないと考える。授業中、ノートの一切を取らない。テキストを開いて、ノートを広げて、今までの松山環を見せかけるけれども、私がノートにひそかに書き連ねているのは、今後の人生設計だった。


 義務教育は国で定められているので、中学三年生までは牢獄に囚われているものとして我慢する。卒業と同時に私は家を出て、住居を東京に移す。前に何かの雑誌か新聞で読んだことがあったけれど、住み込みで新聞配達をしながら勉強し、高卒認定試験を取得して大学に進学、そのまま新聞配達をしながら奨学金で大学を卒業したという人がいたので、私もそういう過程を踏む。大学を卒業したら――、とりあえずどこかに就職する。


 なんなら、お姉ちゃんと二人暮らししたっていいんだ。


 東京とは電車で一時間もかからないのだから、莉子ちゃんにだって会える。波田野くんにだって会おうと思えばいつだって――。


 会ってくれるんだろうか。


 あらためて、書き連ねた人生設計表をながめたとき、十五歳で家出して働くだなんて無謀だと思った。私だってバカじゃない。たとえ、私にやる気があったとしても、社会は受け入れてくれない。いたし方ない理由があるのなら受け入れてくれるかもしれない。けれど、社会通念として、いたし方ない理由があるとは思えない私だった。両親のもとに追い返されるのが関の山のような気がする。


 もしも、奇特な人がいて追い返されなかったとしても、パパは絶対に私を連れ戻そうとして乗り込んでくる。ママは発狂しかねない。


 波田野くんが私を連れ出してくれないかと妄想もする。私一人だけだと勇気は湧かないけれど、波田野くんならきっとどこまででも私を連れていってくれる。でも、そんなのはただのメルヘンだ。妄想はすぐにやめる。


 昼休みにこっそりと携帯電話の電源を入れてみたら、予想通りママからメールが入ってきていた。学校はちゃんと行ったのか、パパに喋って申し訳なかった、パパはただ単にやきもちを焼いているだけだ。言ったことは気にするな、と。


 忌々しい。


 パパがやきもちだなんてのは鳥肌が立つほど気持ち悪いけれど、なによりも、すっかりしぼんでいると見せかけて、ちゃんと学校には行っているのかだなんていう、自分の罪を棚に上げて、母親顔しているママのその言動が忌々しい。


 当然、返信をせずに電源を切る。


 放課後、自転車にまたがったがてら携帯電話の電源を入れると、またメールが入っていた。二件も入っていた。一件目は学校に行ったのか、給食はちゃんと食べたのか、と、くだらないメールだった。二件目はくだらない長文だった。


 ごめんね、環。ママ、調子に乗ってパパに喋っちゃってごめんね。悪気はなかったんだけど、ママ、おしゃべりだから。ママもパパがあんなこと言うなんて思ってなかった。でも、パパも悪気があって言ったわけじゃないからね。ママは環が大好きだからうれしくなってパパに言っちゃって、パパも環が大好きだからやきもちを焼いて――。


 読むに値しないので私は携帯電話をたたむ。


 ママは事の本質をまったく理解していない。親の愛情なんていうお涙ちょうだいのくだらないものを押し付ければ、私が許すとでも思っているようだ。その押し付けてくるくだらなさが欺瞞であり、卑怯なのだ。


 私は家に帰りたくなかったので、図書館に立ち寄ってしばらく本を読んでいた。


 ママから電話がかかってきたけど出なかった。気づいたら18時を過ぎていたので、私は図書館をあとにして、遠藤先生の塾に向かう。テキストは家に置いたままだけれど、莉子ちゃんに見せてもらえばいいと思う。


 自転車を漕いでいる途中もママからの電話がしつこかったので、私は電源を切る。


 遠藤先生の自宅に着いたのはいつもより少々早かった。そうして、自転車を停めて、鞄を手にすると、遠藤先生が家から出てきた。メガネを鼻の頭に乗せて、いつものように上目がちになって歩み寄ってきながら、遠藤先生は言った。


「オタマ。お母さんから電話があったぞ。家に帰っていないのか」


「はい」と、私は小声でうなずいた。


「どうした。何かあったのか」


 私はうつむいたまま何も答えなかった。いつもはガミガミとうるさい遠藤先生だけれど、執拗に何かを問いただそうとはせず、うつむいて立っているだけの私をじっと待っている。


 私は遠藤先生の我慢強さに根負けしてしまい、口を開いた。


「朝、喧嘩したんです。両親と。進路のことで。急に大浦一女に行けって言ってきたんです」


 日の落ちた薄闇の庭で、私は胸を痛めた。パパやママが嘘つきであるように、私も嘘つきだった。喧嘩した理由は進路のことではないのだから。


「そうか。そいつは、まあ、オタマも怒るわな。けど、お母さんには電話しておくぞ。心配しているからな」


 遠藤先生は教室のドアを引くと、そんなことは今までしたことがないのに、私を教室の中に促した。私は突っ立ってうつむいているばかりだったけれど、「ほら」と、遠藤先生が言うので、私は教室に上がった。


 まだ、誰も来ていない。


 波田野くんがいたら、少しだけ話したかった。


 いつもの席につくと、机の上には筆記用具とありあわせのノートだけを広げる。


 私はなんだかさびしくなった。


 遠藤先生のように何も言わない、むしろ、私を私自身として受け入れられてしまうと、私がものすごくわがままを働いている人間に感じてしまった。


 私はせめて波田野くんと挨拶ぐらいはかわしたかったのだけれど、波田野くんはいちばん最後にやって来た。


 莉子ちゃんや守屋さんが私にどうして制服のままなのか訊ねてきたので、波田野くんも、男子二人も、理由はわかったと思う。ただ、私は嘘をついた。放課後まで学校の用事があって、それで家に帰っている暇がなかったという嘘を。


 遠藤先生は私をいつもの私のように扱いながら授業を進めた。添田くんや藍島くんや波田野くんが問題を読み間違えたり誤答すると、「馬か鹿かそれとも猿か?」とか「お前らちゃんと勉強してるのか?」とか「お前らの将来は本当に見たくないな」と、容赦しなかったけれど、彼ら三人はまったく応えておらず、むしろ、遠藤先生に叱られて喜んでいるぐらいだった。


 そうした雰囲気の中で、居心地はとてもよかった。


 でも、悶々とした。


 私の成績が下がったのはある意味当然だったのかもしれない。もちろん、勉強している、ここで習っている。


 けれども、私がここに求めていたのは学習ではなくて、何か違うもののようだ。安心できるものであったり、私を私として保護してくれるものであったり、あるいは、学習しているという欺瞞を構築するための逃げ場所であったり。


 どうして、そう考えてしまうのか。


 私は間違っていないはずなのに。


 21時前に授業が終わり、波田野くんを含めた男子三人はいつものようにさっさと帰っていった。


 家に帰りたくない私の帰り支度は緩慢かんまんな動きでいた。


「よし、お前らもさっさと帰れ。また、月曜日。土日はちゃんと家で勉強しろよ」


 遠藤先生は明らかに私に言っていたが、莉子ちゃんの肩を揉みながら、莉子ちゃんに言っているふうにしていた。莉子ちゃんがセクハラだと騒ぎ立てると、「何がセクハラだバカ野郎」と江戸弁でまくし立て、私たち三人は帰れ帰れと教室から追い立てられた。


 遠藤先生の家の前で三人で話すのはもはや恒例になっていて、莉子ちゃんは私に波田野くんと連絡を取り合っているのか、あれからどうなんだと訊ねてきた。私はうんともすんとも答えず、特に進展はしていないようなことを話した。


「連絡して遊べば?」


 と、守屋さんがにこにこと笑っていたけれど、私は首をかしげながら曖昧な返答しかしなかった。


 そのうち、莉子ちゃんがおなかが空いたと言い出して、別れの挨拶をしてきた。私は別れたくなかったけれど、莉子ちゃんは明るく元気に「じゃあね、また月曜日」と言って自転車を漕いで夜の暗がりに消えていってしまう。


 私は仕方なく守屋さんとお別れし、自転車をゆっくりと漕ぎ始める。


 パパは帰ってきているのかどうか。


 ママはなんて言ってくるのか。


 私は誰もいない閑散とした西予公園に自転車を入れると、ベンチに腰かけた。


 たった一つの外灯の光が、ただただ子供たちの足跡を照らしている。


 もし、許されるなら、私は今から波田野くんに電話をして、会いたかった。何を話していいのかわからないけれど、彼ならきっと私の気を紛らわしてくれる。


 だが、私はベンチに座ったまま電話ができないでいる。迷惑かもしれない。いや、ただ単に私は波田野くんを逃げ場所にしようとしているだけなのかもしれない。


「オタマちゃん」


 はっ、と、して顔を上げたら、公園の出入口から私をそっと呼びかけてきたのは守屋さんだった。守屋さんはバッグを背負いながら薄手のパーカーのポケットに両手を入れ、長い足をゆっくりと運んで、私に歩み寄ってきた。


「何、やってんの?」


 守屋さんはなんのことない軽快な具合で私の隣に腰かけてきて、うつむく私に穏やかな微笑みを向けてくる。私は少し視線を落とす。途方に暮れていたところに友達が来てくれた喜びもあれば、守屋さんの眼差しが優しすぎるつらさもあった。

 

 私はぼそぼそと訊ねる。


「守屋さん、帰ってなかったの?」


「遠藤先生に言われた。オタマちゃんがちゃんと帰るか見ててくれないかって」


 私は隣の守屋さんに視線を上げた。


「そうなの? 他に何か言ってた?」


「ううん。見といてくれって。それだけ」


 そよ風が守屋さんの長い髪の先をほんの少しだけゆらしていた。黒縁メガネの向こうの優しい瞳に私をずっと映している守屋さんは、同級生とは思えないほど、とても大人びている。対して、私は自分がひどい子供のように感じる。


「悩み事? 聞くだけなら私にもできるよ」


 私はしばらくじっとして自分の手を見つめていた。


 私は今朝の出来事をぼそぼそと話した。


「そっか。じゃあ、うちに泊まる? 明日は土曜日だし」


「えっ?」


「大丈夫。私の家、お母さんと私だけだし、お母さんは結構オープンな人だから。うちのお母さんからオタマちゃんのお母さんに電話してもらえば、大丈夫だよ。男の子の家に泊まるわけじゃないんだし?」


 守屋さんの急な発言に私は動揺した。


「でも、私、友達の家にお泊りなんてしたことないから、両親がなんて言うか」


「そう? オタマちゃんのお母さんは許してくれると思うよ」


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