うらぎりもの
「環。何かいいことあった?」
ママが食器を洗いながら訊いてきた。
「どうして?」
「母親の勘ってやつ?」
私はテーブルの上をながめながら口許をゆるめた。切り分けられたスモモがお皿に盛られている。切り口から果汁がみずみずしく溢れてきている。
「私さ――」
どういうふうに言えばいいのかわからなかった。恋人と言えるはずがないし、彼氏でもないし、好きな人、そう、好きな人なんだけど、でも、それを言うのも恥ずかしくて、だけど私は言いたくて仕方なかった。とても素敵な出会いをママには教えたかった。
「あのね、ママ、遠藤先生の塾でね――」
消しゴムの中身に短歌が書かれてあったのをママに教えた。ママはすぐに洗い物をやめて、私の向かいに座り、にやにやと笑いながらスモモを一切れ食べた。
私は事の顛末をママに話した。ママはうんうんと興味深くうなずきながらスモモを全部食べてしまった。
「それで、何? お付き合いしているの?」
「ううん。そういうのじゃないし」
「しないの?」
「だって、付き合わなくちゃいけないの?」
「そんなことないけど。でも、良かったね、なんか、いい男の子じゃない。優しそうで」
「うん」
「ママに今度会わせてよ」
「やだよ。付き合っているとかじゃないんだし」
「付き合っちゃえばいいじゃん。付き合っちゃえば」
ママは鼻歌でも口ずさむみたいにして、冷蔵庫から新しいスモモを取り出してき、まな板で切り始めた。
「私が全部食べちゃったから、パパの分は無し。栞の部屋に持っていってあげてね」
「そういえばまだ帰ってこないんだね」
「六月は株主総会の準備とかで忙しいんですって」
「ふーん」
すると、ママは切り分けたスモモのお皿を私に差し出してきながら、忌々しいことを思い出させた。
「父の日のプレゼント、栞と相談した?」
ママの神経を疑った。波田野くんの話をしていたのに、どうして、高慢で独善的で利己主義なパパの、ましてやそんな人間に対する、くだらないイベントに乗じてのプレゼントを強要してくるのか、私は忌々しくて仕方なかった。
「するわけないじゃん」
私はきっぱりとお断りして腰を上げる。お皿を手に取り、キッチンを出ていこうとしたらママが呼び止めてくる。
「ちょっと、環。どうして?」
「きらいだからに決まってんじゃん」
私は率直な気持ちをはっきりと吐き捨てると、二階に上がっていった。
その日はいつもの朝だった。
いつものように6時半の目覚ましで起きて、鏡の前に座ってブラシで髪をとかし、一度顔を洗うために洗面台のある脱衣場まで下りていって、部屋に戻ったらパジャマから制服に着がえ、時間割と見比べながら鞄の中身を確認し、引き出しの中の消しゴム短歌をながめたあと、一階のリビングに下りていく。
すると、どうしてか、パパがソファに座っている。時計を確かめたら7時をちょっとすぎたところなので、パパはすでに家を出ている時間のはずだ。それなのにパジャマ姿のままで新聞を広げている。
私はパパの様子をにらめつけながらソファのわきにそろりと鞄を下ろし、朝食のためにキッチンに入った。椅子に腰かけると、ママが焼き立てのトーストとハムエッグとオレンジジュースを並べてくる。私はリビングで偉そうにしているパパをうかがいながら、ママにひそひそと訊ねる。
「どうしてパパがいるの」
ママは「う、うん」と、なぜか、ためらうようなうなずき方だった。私はママのその仕草に不穏なものを感じた。
「残業が続いているから、今日は遅めなんだって」
遅めの出勤ならゆっくり寝ていればいい。わざわざリビングに出てきているのは怪しさ以外のなにものでもない。
近頃、帰ってこられるのが遅くて、私と顔を合わせられないからだ。つまり、私に小言をつくためにそこで新聞を読んでいるのだ。
私にはパパに叱られるような覚えはない。むしろ堂々とトーストをかじった。
しばらくすると、新聞を折りたたむ音が聞こえてきて、パパはやはりキッチンの間口にやって来る。
そして、とんでもないことを言った。
「環。ちょっと携帯電話を見せてみろ」
私は瞳孔を広げてパパをにらみ上げる。よれよれのパジャマがみっともないくせに、パパはさも当然のような顔つきでいる。私はいまだかつてパパに携帯電話を見せろなどと言われた試しがない。
私の声を怒りにふるえた。
「なんで」
「会社の同僚とそういう話になったんだ。最近の中学生は悪いヤカラにだまされているようなそういうやり取りをしているってな。パパも環が心配になったんだ」
私はママを見やる。ママは他人事のように、あるいは逃げおおせているかのようにして、無言で食器を洗っている。
私はそこまでバカじゃない。どうしてパパが急にこんなことを言い出したのかわかる。ママがパパにばらしちゃったからだ。
私はもう一度パパをにらみあげた。よくもいけしゃあしゃあとそんな作り話をしておきながら平然とした顔をできるなと感心さえする。きっと、この人は、会社でも自分の部下にこういう偉そうな態度を取り、こういう欺瞞でもって、こういう猜疑心のカタマリとなっているのだろう。本当にこの人はクズだ。
私は無視して朝食をすすめる。すぐにこの人は言ってくる。
「どうして見せない。やましいことがあるのか」
「あるわけないじゃん!」
私は我慢できなくてこの人をにらみつける。この人は表情をぴくりとも変えず私を居丈高に見下ろしてくる。
「だったら見せてもいいだろ」
「なんで! どうして! 私がパパにプライベートを教える必要がどこにあるの!」
「お前の父親だからだ」
「だから言ってるじゃん! 黙って見守っていればいいじゃん!」
「言っておくけどな、携帯電話の料金を支払っているのはパパが働いて得た収入だからな。環。そこのところわかっているのか?」
「じゃあ私に働けって言うの? ねえ? ねえっ! 働いても構わないんなら働きますよ! ねえっ!」
「そういうことは言ってない」
「じゃあ、どういうこと! ねえっ! 教えてよ! どういうことなの! 言っていることおかしいんじゃないの! 頭おかしいんじゃないの! ねえっ!」
「お前は、どうしてそうやってすぐに怒鳴る」
「怒鳴らせているのあんたじゃない!」
「あんたってなんだ! 父親に向かってあんたとはなんだ! わかってんのか!」
パパが唐突に吼えてきたので、私は怯んでしまった。私は間違ったことは言っていないはずなのに、この人は言い負けそうになると暴力的な声で私を押さえつけてきたのだ。私は心底腹立たしくなって、涙目になりながらも、にらみつける。
「もうやめて、パパ」
ママがパパをリビングに押し出していく。パパは不服そうながらもソファにどっかりと腰かけ、再び新聞を広げる。
「環はそういう子じゃないんだから。詮索するのはやめてよ」
「俺は心配しているだけだ」
パパとママがくだらないことを言い合っているあいだ、私は瞼のすそをぬぐいながら食事をすすめていく。ばさりばさりとパパが耳障りな新聞の音を立てており、ママはスリッパを鳴らしながらキッチンに戻ってくる。
私はママを真っ赤な目でにらんだ。
「ママ。言ったでしょ」
「何が? 何も言ってないって」
「嘘つきっ! なんでそうやって嘘つきばっかりなの! 卑怯者! 人でなし! もう信じられない!」
私は朝食を途中でやめて立ち上がり、怒りを足音で表しながらソファに歩み寄っていって鞄を手にする。
「おい、環」
と、この人は、新聞を読むふりをしたまま、また、とんでもないことを言ってきた。
「お前、志望校は大浦第一女子に変えろ。わかったな」
めちゃくちゃだ。頭がおかしいとしか思えない。
「ちゃんと勉強しろよ。しないと受からないだろ、あそこは」
「バカじゃないっ! 受験なんてしないからっ! 勝手に妄想となえてろっ!」
私は開け放たれていたリビングのドアをわざと叩きしめて、玄関のドアも叩きしめて、二度とこんな家に帰ってくるものかと思いながら自転車のペダルを漕いだ。
前から常々感じていたけど、
大人って卑怯だ。
あなたたちは正直にならないくせに、
私たちには正直を求める。
口をつけば、
子供は子供らしく、
中学生は中学生らしく、
やれ、今の子の考えていることはわからない、
やれ、自分たちが子供だったころは――、
ならば、今のあなたたちは何をもってして今のあなたたちなのか。
自分自身を嘘と欺瞞に覆いかぶせ、
それは生活のため、自分の人生のため、家族のためだなんて言うけれど、
あなたたちのそんな言動はただの矛盾でしかない。
あなたたちは自分が大人であることを振りかざして、私たちに理想像を強要する。自分自身はそうでないのに、私たちにはこうあるべきだと押し付けてくる。大人という絶対的な権力でもってして。
あやふやで、根拠のない、夢の国で語られているさらなるお伽話のようなただの夢想を私たちに求めてくる。
あなたたちはまったく気づいていない。あなたたちの要求は、つまり、私たちに常に「子供」という低い立場でいてもらいたいという欲求にすぎない。あなたたちのアイデンティティを確保するためのあらわれにすぎない。
私たちは成長という変化の波にさらされている。体も大きくなって、胸もふくらむ。内臓からも、子宮からも成長を促してくる。頭の中でさえも。
学校という集団生活に否応なしに身を投じていれば、健やかな毎日をすごすために、嘘と欺瞞を覚えてしまう。実はあなたたちの言っていたことは間違いではなかったのではとさえ思えてきてしまう。
だけど、あなたたちはそれが正しいことだとは言わない。私たちが嘘と欺瞞の虚構を築いたら、あなたたちは激怒するのだから。
それを理解しているのか、いないのか、どうせ理解していないだろう、だから、あなたたちは嘘つきで、欺瞞だらけで、卑怯者で、
私たちの裏切り者だ。