もどかしいけども
そこはたぶん地元の人しか知らない場所だ。周りには草が生い茂っている。けれど、そこだけはぽっかりと雑草が刈り取られている。誰がなんのために置いたのかわからないベンチが置いてあり、波田野くんはコンビニエンスストアのビニール袋をそこに広げて敷いて、私に座るように促してきた。
波田野くんは座らなかった。私の前でスタンドを立て、自転車にまたがってサンドイッチを食べていた。
私はどうして消しゴムで短歌を送ってきたのか訊ねた。守屋さんが言った通り、私の短歌が新聞に掲載されたからということだった。
じゃあ、消しゴムなのはどうしてなのか。
手紙だとそれっぽくて嫌だったから。
莉子ちゃんにメールアドレスを訊けば良かったんじゃないののか。
それをしたら気があることを莉子ちゃんに知られてしまうから。
「俺、ケータイは持っているけど、メールはショートメールしか使えないから。親がウェブとかメールとか使えないようにしてて」
お父さんお母さんは厳しいのか。
そこそこ厳しい。幼稚園のときからいろいろやらされていた。ピアノ、英会話、体操、サッカー、習字、小学校四年生からは塾に通っていて、中学受験もした。失敗したけど。
「でも、今は全然勉強してない。もう嫌なんだ。なんか、うまく言えないけど、嫌になってさ。最初はすげえ怒られたけど、怒られても何もしなかったから、親はもう言わなくなってる」
短歌を作ったことはあったのか。
ない。学校の授業でちょっとやっただけ。
どうして三度目は柿本人麻呂だったのか。
すごい恥ずかしくなったし、ちゃんとした短歌にしようと思った。
「え? 松山さん、あれって本の真似しただけってわかっていたの?」
当然、知っている。
「そ、そうだよな。下手だもんな」
「ううん。素敵だった」
川波が、岸にぶつかっては、また引いて、ぶつかっては引いてを繰り返して、ちゃぷちゃぷと音を立てていた。
波田野くんが顔を真っ赤にさせていた。私も自分の口から軽快にすべり出ていた言葉の意味にようやく気づいて、あわててうつむいた。
「実はさ、俺、今日、松山さんに会いたかったのは――」
私は思わず顔を上げた。私の恐れていることを言おうとしているのだと思って、私は息苦しくなった。
波田野くんは火照った顔を上げると、唇を結びながら川の向こうの遠くを潤んだ瞳で見つめた。
「松山さんから初めて消しゴムをもらって、それを見て、俺、このままじゃ駄目だって思ったんだ。なんか、自分の中で、一つ、踏ん切りをつけたかったっていうか、その、なんていうか。どうしていいのかわかんなくなって」
波田野くんはジーンズのポケットから何かを取り出してきた。
それは、私が続きを書いた五度目の消しゴムだった。波田野くんはそれを見つめ、思いのたけを込めたような真っ直ぐな眼差しだった。
「よくわかんないんだけど、会わなくちゃ駄目だって。なんか、そう思って」
風がそよそよと吹いてきて、私の髪の一部はあおられた。
でも、髪の何本かが顔にまとわりつくのもいとわなかった。私は吸い込まれるようにして波田野くんを見つめていたのだった。
「なんかさ」
と、波田野くんは私に振り向いてきて、瞼を優しくゆるめながら、口許に照れくさそうにして微笑みを浮かべた。
「俺、自分で始めたくせに、よくわかんなくなっちゃって」
私の視界の波田野くんが涙で滲んだ。
彼の飾り気のない恥じらいが、私の中のすべてを解決していくようだった。答えとなるものが生み出されたわけではない。けれど、胸の奥に沈んでいた不安の何もかもを、湧き上がってくる感情が消し去っていってくれる。
私は顔を手で覆った。
「ど、どうしたの」
私は首をふる。
「ごめん。なんか変なこと言った?」
私は首をふる。
「なんで泣いてるの」
「ううん。私も――、私もわかんなくなってて。波田野くんと同じで。だから、だから、ほっとしちゃって」
私は本当に良かったと思った。今日、勇気を持って彼に会って、本当に良かったと思った。
私と波田野くんのあいだには何事も起こらなかった。
何事もなさすぎで、私は波田野くんとわかれるとき、思わず携帯電話番号を訊いてしまった。波田野くんは快く教えてくれた。
次もまたいつか二人で会いたかった。
家に帰ってからも私は胸が高鳴っていた。むしろ、わかれたあとのほうが苦しかった。ふいにぼんやりとしてしまったし、何事も手が付けられないでいた。向こう岸をながめている波田野くんの横顔を思い浮かべるたびに、胸がしめつけられて、ベッドに顔を埋めるしかなかった。
私は恋をしている。
好きとかどうとかじゃなくて、恋をしている。
初めてかもしれない。波田野くんが今どうしているか、彼が今どう思っているのか、私を今どう思ってくれているのか、知りたくて知りたくてたまらないし、彼の声を聞いて、彼の笑顔を見て、安心したくてたまらない。
けれど、私は、自分の思うがままにそうしてはいけないものだと、なぜか認識している。怖いから出来ないとかそういうのではなくて、もちろん、怖さもあるのだけれど、何よりも私を自制させているのは、私は私のために存在するんじゃなく、波田野くんの気持ちのためにこの世界に存在していたいという思いからだった。
俗に言う恋する自分に恋しているってことなのかもしれない。そうだとしても私は自分に恋なんかしたことがない。つまり、私は初めて恋をしている。
どうすればいいのかわからない。
またか、と、思う。どうして、いつもわからなくなるのだろう。
解決しても解決してもまた新しいことについてわからなくなる。
疑問がのしかかって、とても苦しい。彼を好きだけど、私はつらい。いっそのこと電話をしてしまおうかとも考える。でも、さっき会ったばかりじゃないか。私は携帯電話を静かに置く。
気がつけば莉子ちゃんからメールが入っている。おそるおそるメールを開いてみたら、今日どうしたか、という質問だった。私は答えに窮した。どうしたかと問われれば、恋をしてしまったとしか説明のしようがない。
そんなこと恥ずかしくて言えない。
波田野くんと会っているときはこんな地獄じゃなかった。
会いたい。声が聞きたい。もっともっと波田野くんを知りたい。今はそればかり……。
私は寝てしまっていた。肌寒さを感じて、目が覚めたときには、窓から音もなく風が入ってきていて、部屋は薄暗さの沈黙によって支配されていた。
チクタクと、時計の針は孤独の調べを奏でながら時間を刻んでいて、道路から届いてくる誰かの声は今日の日のわかれのように消えていく。
窓の向こうの空は赤紫色の夕染めだった。
私の部屋は流れる時の中から隔絶されている。何者にも侵されない時間をつむいでいる。誰かの息もなく、誰かの感情もなく、誰かの生もなく、闇に飲み込まれることすら受け入れて、ただ、ただ、私の部屋で在り続けていた。
今日一日が一日であった夢は、私の心に季節のあこがれを残していた。純粋な玉のようなときめきが淡い火となっていた。歓びや苦しみの感情に惑わされることもなく、記憶は私の時間とともにあるのを拒んでいなかった。
夢となって消え去った一日は、私の確かな記憶になっている。
私はごくごく自然にベッドからおりると、机の前に座った。ひとしきりぼんやりとまどろみを見つめたあと、卓上ライトを灯し、引き出しから使い古しの消しゴムを取り出した。カバーを取り外し、何も考えることなく、なんのひねりも加えようとせず、極細のマジックの先を入れていった。
忘れない あなたの今日の 横顔を
今もあこがれ 抱きしめている
書き終わったあと、ゆっくりと天井を仰ぎながら深く息を吸いこんだ。私は恋をしている。時には患うほどに、時には穏やかに、私は彼を思っている。
机を立って、テーブルの上の携帯電話を取ると、消しゴム短歌を作ったことをショートメールで波田野くんに送った。明日、置いておくとも伝えた。
すぐに返信が来て、じゃあ自分は水曜日に置いておく、と、あった。
私は微笑みながら液晶画面をしばらくのあいだながめていた。
そうして、莉子ちゃんにメールを送って携帯電話は閉じた。波田野くんを好きになりました、と。
川岸にただよう風にふたりきり
夏の始まり夢の途中
私は消しゴムの中身を見て思わず笑った。どうしてこんなことを書けるんだろう。ましてや、こんな消しゴムを送っておきながら、彼は素知らぬ顔で他の二人とげらげらと笑っているのだ。
莉子ちゃんと守屋さんは頬をゆるめる私に対して、呆れたふうに笑った。もしかしたら、添田くんも藍島くんも知っているのかもしれない。知っているから素知らぬふりに付き合っているのかもしれない。
「ごめん」
私は莉子ちゃんと守屋さんに自嘲を見せながら、消しゴムをリュックサックにしまった。
この時間が、いつまでも続けばいいと思った。




