どうしても知りたいこと
水曜日、金曜日と、塾に通った。
私は波田野くんをとても意識してしまっていた。けれども、頑張っていつものように振る舞っていた。波田野くんもまたいつものようにげらげらと笑っているだけだった。
莉子ちゃんと守屋さんも何事もないように普段どおりだった。
当然、私はまよっていた。まさか、会うことになるとは思ってもいなかったのだから。
金曜日の夜、私はまったく寝つけなかった。まぶたを閉じていても、閉じているのがつらくなって開けてしまい、開けていても闇を見つめているのがつらくなってまた閉じる。どんな体勢を取っても落ち着かない。仰向けでも、横になっても、丸まっても。枕の位置を何度も直し、掛け布団を何度も直しても。
波多野くんの表情や仕草、声を思い浮かべてしまう。
私が初めて消しゴムを見つけたとき、波多野くんの第一声は「ういッス」だった。何を思ってまじまじと私をながめていたんだろう。
莉子ちゃんに責められたときも平然として「べつに誰だっていいんじゃね?」などと言っていた。
添田くんか藍島くんのどちらかに突っつかれると、大声を上げて否定している。
やっぱり――。
恥ずかしがり屋で負けず嫌いで意地っ張りで嘘つきで自分の否をなかなか認めない。
でも、波田野くんがどれだけ否定したとしても私は知っているのだから。どうして12時30分という中途半端な時間を指定してきたのか知っているのだから。
十二時半。じゅうにじはん。七文字だから。
11時や12時だと五文字になってしまう。だから、30分にしている。十四時半や十五時半にしないのは、彼には時刻を二十四時間で数える概念がないんだと思う。午後二時や午後三時と数えることに慣れてしまっていて。
莉子ちゃんや守屋さんはわかっていなかったけれど、私はわかっている。
私にはそれが少しうれしい。私にしかそれがわからなくて、そして、彼の気持ちをようやくわかれたことがうれしい。
訊いてみたい。どうして12時30分なのかって。きっと、そうなんだから。
でも、怖い。なんて会話をしたらいいのかわからない。
それに告白されたくない。波多野くんが私を好きだというのはもうはっきりしている。だから、付き合ってくれだとか言われたくない。今の私の気持ちにはそんな余裕がない。
好きだということはもうわかっているから、私はその気持ちを教えてほしいだけ。そして私は波田野くんをもっと知りたい。
そうとなると、やっぱり公園に行くしかない。行かなかったら、波多野くんはもういなくなってしまう。短歌を消しゴムで送ってくれる本当の彼は。
私は率直な思いを伝えればいい。付き合ってくれとか言われても、私が説明すれば彼はきっとわかってくれる。
思えば波多野くんはげらげらと不良みたいに笑っているけれど、笑っていないときは、たまに物憂げな表情をしていた。どこか遠くのほうを見るような、私たちとはまったくべつのことを考えているような、そんな瞳をするときがあった。目許には幼さが残るけれど、左のまぶたの下のほくろがどこか大人びた印象だった。
一緒に授業を受けていてわかるけれど、大して成績はよくないはず。でも、中学校一年まではものすごく頭がいい人だったと守屋さんが言っていた。どうしてか急に成績が悪くなったみたいだった。
はっきり言って何も知らない。
公園に向かう私は何度もためらった。何も知らない人と何を話せばいいんだろう。
ううん、私は知っている。消しゴム短歌の波多野くんは知っている。
そうやって何度も何度も前に進んだり、後ろに引っ込みそうになったりした。
とりあえず、私はまず、波多野くんと顔を合わせたら、何を話そうか考える。お昼だから「おはよう」はおかしいし、「こんにちは」と言うのは私はちょっと好きじゃない。「こんにちは」や「こんばんは」はものすごく他人行儀な挨拶のような気がする。アクセントといい音の数といい。そもそも家族の間で「こんにちは」とか「こんばんは」だなんて使わない。友達同士でも。
じゃあ、莉子ちゃんにお昼や夕方にあったときは、なんて挨拶していたんだろう。してなかったような気がする。疲れたあ、とか、あーあ、今日は暑いね、寒いね、とか、そんな言葉が開口一番だったような気がする。
いや、そんなことは今はどうだっていいんだから。
どうせ、波多野くんは「ういッス」って言ってくるんだから。あのときの他人事みたいな適当な感じで。嘘つきの感じで。だから私も「ういッス」って返せばいいだけじゃないかな。
すると、私は、自分が「ういッス」だなんて返すところを想像して笑えてしまった。もしも、そんなことをしたら私ってバカだなと思った。でも、素敵なことじゃないかなとも思った。
腕時計を確かめると12時をちょっとすぎたぐらいだった。私はコンビニエンスストアの駐車場に自転車を流して入れていった。サンドイッチでも買って、公園のベンチで食べようと思って、スタンドを立てた。
見たことあるような自転車が止まっていた。
はっ、と、して、私はあわてて本棚のガラスから店内を覗き込んだ。すると、自動扉が開いて、やっぱり、右手にビニール袋をさげながら波多野くんが出てきた。
「あ――」
と、波多野くんは自動ドアを出てその場で突っ立った。
彼は私を見たなり真っ赤になった。私も顔があつくなっていくのがわかった。
「こ、公園?」
波多野くんはそう言った。嘘つきの顔ではなかった。私が知っている中では、見たこともないぐらい彼は二重のまぶたの中を泳がせていた。
私は緊張のあまり声が出せない。ただうなずく。
「め、メシ買っててさ――、松山さんも、そう?」
オタマちゃんじゃない。私はびっくりした。波多野くんを見つめたまま唇をむすんだ。私を例のオタマちゃんと呼ばない彼に本当の彼を見てしまったような気がして、私は波多野くんの少年らしい瞳から視線が離せなかった。
私は自然と笑顔になっていた。
「うん」
なんでもない土曜日のお昼だった。空は青くて、雲は白くて、太陽は輝いている。
道路には車が走っていて、すぎていくたびに日差しをまばゆく照り返していく。同じ間隔を保っているかのように、時間を刻む針のようにして車はつぎつぎとすぎさっていき、新しい音はすぐに遠くの音となって消えていき、また新しい音は遠くの音になっていく。
「さ、サンドイッチ買ったんだけどさ、もしよかったら、食べる?」
「うん」
私もサンドイッチを買おうと思っていた。
私も。
「あ、あの」
波田野くんの自転車の後ろに付いていこうとしていた私だけれど、彼を呼び止めた。私は心臓の高鳴りと体の震えで声が裏返ってしまいそうだったので、一度呼吸をしてから、言葉を選ぶようにして、ゆっくりと口を開いた。
「あの、公園じゃなくて、どこか違うところが。莉子ちゃんが隠れて見ているかもしれないから」
こんなにも自分の意志を表明するために精一杯だったためしはなかった。たったそれだけでもとてつもないエネルギーを消費した。けれども、それは波田野くんも同じようだった。むしろ、私のほうが自分を整理できているようだった。
波田野くんは「じゃあ、どこがいい?」と訊ねてきたのだけれど、「じゃあ」と言ったとき、声が裏返りぎみだった。彼がいつも奏でている旋律から音符はすっとんきょうに跳ねてしまっていた。彼は自分自身の滑稽さに気づいていないようで、とにかく精一杯の様子だった。私は思わず口許が緩んでしまって、唇をむすんで内側に押しこめた。
「どこでも」
「じゃ、じゃあ、川で」
「川?」
私は波田野くんの後ろを付いてペダルを漕いだ。すぐに彼は住宅街に折れた。車通りがまったくない通りに入って、自然と私は波田野くんと自転車を並べていた。
波田野くんは川が好きなんだと私の顔を見ずに言った。それを伝えるだけでも再び顔を真っ赤にしていた。
建ち並ぶ住宅街のはずれを出ると、視界が広がった。もろてを水田に囲まれて、向かう先は高い土手と青い空だった。青葉の香りがそよいでいる。驚くほど、私たち以外に人の姿がない。
白と水色の格子柄の襟シャツをはためかせながら、波田野くんが初めて私に振り向いてきた。
「川、好き?」
私は彼の黒い瞳を見つめながら、
「うん。好き」
と、うなずいた。すると波田野くんはそそくさとハンドルにうつむいてしまった。彼の髪だけが風に乗ってさらさらと踊っていて、私もうつむいた。
私は緊張しすぎていて、気を抜けば目が回ってしまいそうだった。でも、とても楽しかった。早く知りたかった。あの若葉色の土手を上がったあとの景色を。私を待っていてくれるのがなんなのかを。
土手の斜面を上がるとき、私は本当は立ち漕ぎで乗り越えられたけれど、かまととぶって自転車から下りた。波田野くんも自転車から下りた。そこだけアスファルトで繰り抜かれた細い坂を、自転車を押してゆっくりと上がっていった。
彼と無言で並んでいる中、私は絶対に訊ねたかったことのために勇気を振りしぼった。
「あの。この前の消しゴムなんだけど、私、どうして十二時半なのかなって」
波田野くんは「あっ」と声を上げた。しばらく自分の自転車のかごを見つめていた。そうして、私に顔を上げながら、ひどく申し訳なさそうに、今までの真っ赤な顔も、精一杯にたどたどしい表情もなく、「ごめん」と、言った。
「お昼ご飯だよな。いや、まさか来てもらえるとは思ってなくて――」
「ううん。違う。そういうことじゃなくて、どうして、十二時半にしたの」
波田野くんは急に頭を掻いた。「その――」と、言いよどんでいた。五七調に合わせるためだったのだろうと私から訊こうとしたけれど、やめた。私は戸惑っている波田野くんの横顔を胸を焦がすような思いで見つめた。私は彼の口から彼の気持ちを教えてほしかった。
波田野くんは自嘲するかのようにして笑いを含めながら恥ずかしそうにしている。
「だ、だってさ、短歌じゃん。だから、そ、それしかわかんなくて。変だろ。今まで短歌だったのに、急に普通の言葉になったら」
彼は私に向かいながらとても一生懸命に意地っ張りになっていたけれど、私は緩んでいく頬がおさえられなかった。
「知ってる」
土手を上がるとそこは五月のまぶしさだった。広がる景色すべてがどこまでも続いていた。大きな川の流れは音もなくゆっくりと波を立てていて、けれども、聞こえてきそうだった。何かの始まりが聞こえてきそうだった。
「よ、よくさ、ここで釣りするんだ。川、好きなんだ、俺」
「私も、好き」
波田野くんが川べりへと土手を下りていくので、私も一緒に下りていった。




