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けっして悔やまない

 私は彼の気持ちを想像した。


 一度目、二度目はただただ率直に思いをつらねている。


 三度目は盗作。


 四度目は消しゴム自体がない。


 五度目はためらいの一本線だけ。


 私は消しゴムを綺麗に並べた。一個ずつの間隔もなるたけ均等に整えた。三度目と五度目の間は、存在しない消しゴムのために一個分余計に広げた。


 とある年表のようだった。あるいは、そこに確かに月日が流れていたのを示す軌跡だった。


 彼の気持ちの軌跡。


 最初、この消しゴムが私あてだと知ったときは、絶句した。でも、今は整然とした気持ちで受け止められている。どうしてかはわからなけれど、ただただ私は知りたい。彼がどんな思いで月日をすごしていたのかを。


 二度目の消しゴムのとき、莉子ちゃんに責められた。


 どんな思いでとぼけていたのだろう。


 みんなに知られてしまったことで、あまりにも率直すぎる短歌を送ってしまったと後悔したのか、率直さに自信を持てなくなってしまったのか、三度目は怖くなって柿本人麻呂を見つけ出してきたんだと私は思う。


 四度目がなかったのは、そこでやめようとしたのかもしれない。自分がしている意味のなさ、むなしさを感じてしまったのが表れている。並べた消しゴムのうちで唯一の存在のなさがまさしく物寂しい。


 そうして五度目は私が突然泣き出した次の週だった。


 彼は何を書こうとしたんだろう。四度目でやめようとしたのに、どうして再び書こうとしたんだろう。私の泣いている姿を見たためだろうか。一度、やめたようとしたのに彼を再び書かせようとさせた気持ちはなんだったんだろう。


 そして、彼をためらわせた気持ちは。踏み出せなかった気持ちは。


 きっと、彼はどうしていいのかわからなかった。


 私も何をしていいのかわからない。


 先生の言われたこと、親の言われたことにただただ従っている。忠誠心のかけらもない服従心で、彼らの言うことに従っている。正解かどうかが疑わしいのにもかかわらず。


 叱られながらも勉強することって何?


 我慢していれば本当に報われるのだろうか。そもそも何をもってして報われるのだろう。幸せ? 幸福? そんなものって本当にあるの?


 だいいち、今を犠牲にしてまでやるべきことなの?


 嫌な思いをして。もう二度と来ないこの時期に毎日毎日嫌な思いをして。


 それで幸せになれるの?


 わからない。私にはわからない。お姉ちゃんにもわからない。どうせパパやママにだってわからない。「環が立派な大人になれば幸せ」だとか、「この家庭があることが幸せ」なんていう的外れな答えをしてくるに決まっている。


 わかっていない。あなたたちの幸せが私の幸せではないということをわかっていない。


 じゃあ、私は不幸な女の子?


 違う。それも全然違う。


 私はただ単に不幸な愚か者でいたくないだけ。


 告白を断っておいて、そのあとに意識してしまって、わがままをこじらせて勝手に爆発し、そして勝手にドン底に落ちるような、不幸で愚かな中学三年生にはなりたくない。


 でも、自分が嫌いな私じゃなくなるために、自分が大好きな私になるためには、私は何をしていいのかわからない。どうすればいいのかわからない。


 どうせ、パパだってママだって先生だってこう言う。今はそういう時期で情緒不安定にもなる。今はやるべきことをとにかくやっていればいい。高校生になったら解決できる。大学生になったら解決できる。本当の自分はそのときに見つかる。だから、今は、とにかくやるべきことをやりなさい。


 そんな切っても切っても同じ模様の話なんか聞きたくない!


 自分が見つかる保証なんてどこにあるの!


 人生ってそんなものなの? 時間の風に身を任せていれば、真実は突然降って湧いてくるようなものなの?


 明日どうすればいいのか、私は知りたい。私はどうすればいいのか私が決めたい。


 どうすればいいのか――。


 私は机の引き出しから黒いマジックを取り出した。五度目の消しゴムを左手に支えると、極細のペン先で彼が残した一本線の続きを書いていく。




 あいの風とどけてほしいいつの日も


 わたしの知らないあなたの声を






 その日は塾の日ではなかったけれど、私は莉子ちゃんに無理を言って遠藤先生の自宅近くの西予公園に来てもらった。


 莉子ちゃんは私がベンチに腰かけてから10分ぐらい経ってやって来た。私のほうが早く来ていた。莉子ちゃんが私の隣に腰かけてくると、さっそく、五度目の消しゴムを渡した。


「この消しゴム、明日、塾の男子の誰でもいいから渡してもらえるかな」


「え?」


「五回目の消しゴム。何も書いてなかったやつ。でも、何か書こうとしていた跡があったから、私が勝手に続きを書いたの」


 莉子ちゃんは手にした消しゴムを見やり、また、私を見やった。


「どうしたの?」


 莉子ちゃんは呆気に取られていた。私を松山環とは違う別人と間違えてしまったかのような軽い驚きの表情でいた。


「私、後悔したくないと思った。嘘はつきたくないって。莉子ちゃんに前に言われたみたいに素直になるって」


 オレンジ色の日差しに包まれる公園には私たちの姿しかなかった。子供たちがいそうなものなのに、ぽっかりと静かだった。吹き込んでくる風には暑さも冷たさも湿り気もない。五月の息吹だけがある。木々の葉がざわざわと鳴れば、地面に映し出された光と影がめくるめくるに揺れている。


 ずっと消しゴムを見つめていた莉子ちゃんは、何かしら悩んでいる様子だったけれども、私に顔を上げてきて、言った。


「好きなの?」


 私はうつむいた。莉子ちゃんは周りくどいのが苦手な女の子だった。私はわからなかった。でも、もう、「わからない」とは言いたくなかった。


「たぶん、そうだと思う」


「いいの?」


「うん」


「吉海くんのことはきっぱり忘れられたの」


「うん」


 本当はきっぱり忘れられたのかどうかもわからないし、短歌の人を好きかどうかもわからない。私はいまだにもやもやしている。でも、私は決して後悔したくなかった。自分に嘘はつきたくはなかった。私が愚か者である理由は、もやもやを解決しないからだった。もやもやを解消させるために何をすればいいのかわからないけれど、今、ひとつだけはっきりとわかっているのは、私は知りたい。その人の気持ちをもっと知りたい。その点について、私は一切嘘をつかないと決めた。莉子ちゃんにも、みんなにも、私自身にも。


 莉子ちゃんは消しゴムの中身を見ずにポケットにおさめた。


「環は誰がいい? あの三人の誰だったらいいの?」


「誰でもいい」


 冗談でしょうとでも言いたげに莉子ちゃんは笑った。


「ほんとに言ってるの?」


「私はその人は優しい人だと思っている。誰でもいいっていうよりか、その消しゴムを送ってきた人なら、私は、うん」


 きっと、その人は、恥ずかしがり屋で、意地っ張りで、負けずぎらいで、嘘つきで、自分の否をなかなか認めそうもない人。でも、寂しがり屋で、泣き虫で、悩んでばかりで、そのくせ素直になれなくて、私によく似た人。


 だから、添田くんであろうと、藍島くんであろうと、波多野くんであろうと、私は構わない。本当のその人は、私が目で見ているその人とは違うのだから。


「わかった。波多野くんに渡すから。私はあの人だと思っているから。違ったら、あの人が他の二人に言うでしょ」


「うん」


「もし、メアドとか聞かれたら教えちゃうよ。いい?」


「うん」


「告白されたらどうするの」


 わからない。けれど、その言葉はもう口にしたくない。何かを知るためには、私からわかろうとしなければいけないと思う。


「そのときはそのときで考える」


 莉子ちゃんは笑いながら腰を上げた。莉子ちゃんはママと買い物に行く予定があるということだった。私は急に呼び出したことをお詫びして、私も腰を上げた。


「莉子ちゃん、ありがとう。いつも」


 莉子ちゃんは照れ臭そうにして笑った。私は莉子ちゃんに手を振りながら自転車にまたがった。ペダルを漕ぎ出すと、時報の春の小川が夕暮れの空に流れた。




 それから六度目の消しゴムが届くまでの四日間、なんの音沙汰もなかった。金曜日に遠藤先生の塾はあって、いつものようにみんなが揃って遠藤先生に習った。三人のうちの誰にも変化はなかった。彼らはげらげらと笑っていて、遠藤先生に叱られていて、前からと同じようにして、莉子ちゃんとも私とも守屋さんとも会話をしない。何事も起きていないように帰っていく。


 塾が終わって10分だけ、私たちは遠藤先生の家の前で話した。莉子ちゃんは西予公園で話したとおり、月曜日の休み時間、波田野くんに消しゴムを渡した。波田野くんは最初は驚いたけれど、それほど不審な点を見せなかったと莉子ちゃんは言った。


 彼ら三人は、クラスがべつべつで、学校内ではいつも一緒にいるというわけではないそうだった。だから、もし波田野くんじゃなくて、添田くんか藍島くんだとしたら、塾で一緒になるさいに波田野くんは二人に消しゴムを見せるのではないか。莉子ちゃんはそう推理していた。


 でも、そんな素振りはまったくなかった。


「どこかで会っているのかな?」


 と、守屋さんが言って、莉子ちゃんは細い眉をしかめながら首をかしげた。


「とにかく、月曜日、消しゴムがあるかどうかだね。あったらいいね、オタマちゃん」


 守屋さんは黒縁メガネ越しに二重のまぶたを優しく緩め、私に手を振りながら歩いて去っていった。すらりと伸びた背中に黒髪をさらさらと流しながら、守屋さんは外灯が立ち並ぶ静かな夜の道へと消えていく。守屋さんの姿が見えなくなるまでながめていたら、莉子ちゃんが自転車にまたがって、私にうなずいた。


「じゃあね、環」


 莉子ちゃんはペダルを大きく踏みしめていった。ボブヘアの髪をなびかせながら守屋さんとは反対の方向へ帰っていった。


 私はゆっくりと家路を辿った。帰り道にはかえるの鳴き声とともに爽やかな夜風が流れていた。静かに灯る外灯が、静かに広がる田んぼの水面に反射している。


 空には月が。


 煙の流れのようなうすい雲が明るい夜空を泳いでいる。


 私はしみじみと感じた。あと一年もしないうちに卒業だということを。遠藤先生の塾でみんなと一緒になる時間がなくなることを。


 やらなければいけないことって――。


 そして、月曜日、消しゴムは置いてあった。あるかどうかずっと不安でいた私は、ほっとした。すぐに緊張もした。何が書かれているのか、何が答えなのか。私の心臓は胸の内側から私をせかしてきた。


 でも、私は中身を見ずにリュックサックにすぐにしまった。莉子ちゃんや守屋さんだけならず、三人も息を呑んでこちらを見てきていたから。


「終わってから」


 私が言うと、莉子ちゃんも守屋さんもうなずいた。


 いつものようにとどこおりなく授業は進んでいって、やがて21時になって、男子三人はいつものように帰っていった。私も莉子ちゃんや守屋さんと一緒に教室を出た。


 何が答えなのか。彼はどんな気持ちでいるのか。


 リュックサックから消しゴムを取り出すと、莉子ちゃんと守屋さんと三人で囲みながら、私はカバーをはずしていった。




 土曜日にまた会えたらいいと思ってる


 西予公園 十二時半


 波田野裕太






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