だれかは知りたい
四度目の消しゴム短歌は一本のマジックの線が小さく入っているだけだった。
送り主は何かを書こうとしてやめていた。今までと同じように角の尖った新品のもので、カバーも一度ははずした形跡が見受けられるけれども、それ以外は真っ白だった。
消しゴムを拾ってから中身を確認するまでのあいだ、遠藤先生の塾のみんなが、私に注目していた。黙って、寂しげに、私を見つめていた。
先週、私が突然泣き出して以来、塾に来るのは三回目だけど、二回ともみんなは私に配慮してくれているようで、消しゴムについて騒いだりはせず、むしろ、消しゴム短歌が始まる前までと同じように、ただの塾の一員として私を扱っていた。
「なんて書いてあったの」
私が首を振りながら莉子ちゃんに消しゴムを見せると、莉子ちゃんは「そっか」とだけ言った。
男子三人もお互いがお互い、黙って顔を合わせているだけだった。
私は消しゴムを握りしめ、リュックサックに入れた。
守屋さんがおだやかな口調で言った。
「もういいんじゃないかな、このさい。はっきりしたほうがいいよ。ね? オタマちゃん」
私は守屋さんがどういう意味でそれを言っているのかよくわからなかった。どういうことなのかと訊ねると、私には今、好きな人がいるのかどうかということだった。つまり、彼ら三人のうちに好きな人がいなければ、短歌の送り主もあきらめるだろう、と。
私が突然泣きだした理由は、莉子ちゃんしか知らない。吉海くんとあの子に裏切られたということは莉子ちゃんしか知らない。あるはずの消しゴムがなくて感情の堰が切れてしまったというのは、たぶん、誰も知らない。
私以外のみんなは同じ中学校だから、おそらく、高い確率で、私が泣き出した理由を莉子ちゃんに訊いている。莉子ちゃんはなんて説明したのだろう。
どちらにしろ情緒不安定な私を察して、守屋さんはそう言っているんだと思う。
でも、消しゴムを送ってきた人は、なぜ、私に空白を伝えてきたのかわからない。何かを書こうとしてどうして書かなかったのか。
私はうつむきながらも率直に言った。
「誰かは知りたい。私は消しゴムを送ってきている人がきらいじゃないと思う」
莉子ちゃんが椅子の背もたれをきしませながら、大きくて細長い息をついた。守屋さんは唇をゆるめながら目を細めていた。
「オタマちゃんはそういうことだって」
そう言いながら守屋さんは姿勢を前方に戻してテキストを開き、男子三人は黙っていた。
遠藤先生が教室に入ってきて授業が始まった。
しかし、中間テストの結果は最悪だった。二年生のときの期末テストから比較すると、点数が大幅に落ちこんだわけではない。
私に絶望感に近いものを与えたのは、私のその見当ちがいぶりだった。
憔悴しきったままに受けた数学と理科の点数が下がったのはわかる。いたし方ないと自分で自分を納得させられる。ところが、国語と英語も下がっていた。社会は満点だったけれども、出来がよかったと確信していた国語と英語が悪かったのは、私をものすごく落ちこませた。
当然ながら、パパは私を向かいのソファに座らせた。私はパパの顔を見なかった。本当に見たくなかった。パパは何回も何回も解答用紙を教科ごとに見回した。総合成績表も手に取って見た。ママが差し出した芋焼酎の水割りにも手をつけずに、いつまでもいつまでも解答用紙をながめてしつこかった。そのくせ10分ぐらいずっと無言でいた。
私はテーブルの上に置かれてある和調テイストのパパのコップを見つめているしかなかった。ろくろで回して仕立てたようなコップだ。ねずみ色の、砂嵐みたいなつぶつぶが施されている、中年向けの。100円ショップで大量に売っているような。でも、取引先の社長さんに貰ったらしい。安物なのか高価な物なのかは私にはわからない。パパについてはわからなくてもいいようなことがたくさんある。
パパは解答用紙をテーブルの上に置くと、ようやくあら探しをやめた。鼻息を立てながらソファに腰を沈めていき、
「駄目だな」
と、ぼそりと呟きながら、疲れたふりをして右手の親指と人さし指で目許を押さえていた。
ママがさくらんぼを持ってキッチンからやって来た。パパの隣に座り、テーブルにさくらんぼのお皿を置いた。水玉を伝わらせながら、実がぱんぱんに膨らんでいる。赤ずきんちゃんが鼻歌を口ずさみながら森でたくさん収穫してきたさくらんぼのようにして、真っ赤につやづやとしている。
国道沿いのスーパーだろうけど。
私はまったく食べる気が湧かない。
ママはさくらんぼのひとつぶを、おてんば娘みたいにして、ぽいっと口に放り込んだ。
パパがソファにふんぞり返って私をねむたげに見つめてきている。
「解答用紙を埋めたあと、見直したのか?」
「はい」
と、私は顎を突き出すようにしてうなずいた。
「でも、時間がなかったかも」
ママがむしゃむしゃとさくらんぼを食べながら、ぷっ、と、掌に種を吐いた。種をティッシュの上に捨てながらも、私の解答用紙を別の手に取ってながめている。
「やめてよ」
私はママをにらみつけた。ママは解答用紙を手から離さず、空いている左手で、また、さくらんぼを手に取った。
「べたべたした手でテスト用紙触らないでよ。ママ。やめてって言ってるでしょ」
「おい」
パパがママに視線を向けて、ママは、はいはい、と、あの、言葉には出さないときの敵愾心を招くだけのふてくされ目つきでうなずいた。私は頭にきて、ママがその手から離す前に解答用紙を奪い取った。ばちんと叩き置く。パパがにらみを私に向けてくる。
「環。何をカリカリしてる」
「するに決まってるじゃん。パパに言われなくたってわかってることだし」
「それじゃあ、どうして間違っているんだ。わかっていたら間違えないだろう」
「ケアレスミスだし」
「だから聞いているんだ。見直したのか?」
「時間がなかったって言ってるじゃん! てか、パパはなんなの! 先生じゃないでしょ!」
「お前の親だ」
「親なら親らしくしてればいいじゃん!」
「お前の思う親らしくってなんだ」
「黙って見守ってくれてりゃいいじゃん!」
「黙って見守っていてどうなる。次のテストもまた点数を下げるのか?」
「下げないっ!」
「下がったら黙ってないぞ。塾は元いたところに変えてもらうからな。いいな?」
私は解答用紙をかき集めると、リビングを出ていこうとした。それなのにパパはソファから背中を伸ばしてきてしつこかった。
「環。わかってるのか」
「わかってるよ!」
リビングのドアを大きな音を立てて閉め、私は階段を踏み抜かんばかりに上がっていった。お姉ちゃんの部屋の前を通ると、けらけら笑い声が聞こえてきた。私は別世界を謳歌しているお姉ちゃんへ向けて、あからさまに自室のドアを叩き閉めた。
五枚の解答用紙をその場に放り投げ、私はベッドに倒れるようにして倒れ、埋まった。やるせない感情はそのまま涙と嗚咽だった。
四度目の消しゴムに何も書かれていなかったようにして、私もどうして私なのかわからない。
志望校は決めているけど、その学校に行けるのかどうかはわからない。行けたとしてもどんな高校生になるのかわからない。お姉ちゃんのようになるなってパパもママも暗黙のうちに伝えてくるので、私もお姉ちゃんのようになりたくはないと思っている。
でも、私はそもそもお姉ちゃんじゃない。栞じゃなくて環なの。お姉ちゃんのようになるはずがないし、お姉ちゃんにはなれないのだし。
もしかしたら、お姉ちゃんのほうが優れているのかもしれないし。わがままで愚か者な私なんかより。
「お姉ちゃん」
私はお姉ちゃんなんかに相談はしたくなかったけれど、もう私にはお姉ちゃんしかいないような気がしてしまっていた。
「何?」
お姉ちゃんは私のどんよりとした気持ちをわかっているのかわかっていないのか、ベッドに寝転がりながらスマートフォンをいじくっていて、小さなガラステーブルの上に昨日のさくらんぼの余りを置いた私は、そのままそこに座った。
「お姉ちゃん、高校を卒業したらどうするの?」
「どうして?」
お姉ちゃんはちらっと私を見やってきたけど、すぐに液晶画面に視線を戻した。
「環、テストの点数、下がっちゃったんだって?」
私はうなずいた。お姉ちゃんは液晶をタッチしていた。
開け放された窓から夜風が入ってきて、カーテンレースを音もなく揺らしている。
「私は短大に行くよ」
お姉ちゃんはベッドから起き上がってくると、水色の座椅子の上に腰かけた。スマートフォンをベッドの上にぽいっと放り投げて、卓上鏡をじろじろとながめたあと、
「これ種なし?」
と、訊いてきたので、種なしのさくらんぼなんてこの世にないことを伝えると、お姉ちゃんは「そうなんだ」と意にも介さず、さくらんぼをつまんで口の中に放りこんだ。
「私は卒業したら短大に行くよ。行けそうなところ」
「大学のあとはどうするの?」
「知らない」
ぷっ、と、種を掌に出して、またすかさずお皿からさくらんぼをつまんで口の中に放りこみ、お姉ちゃんはママにそっくりだった。お姉ちゃんは夢中になって食べているというよりも、手持ち無沙汰でさくらんぼを口の中に放っているという具合でいた。
「でも、高校を卒業したら東京で一人暮らしするつもりだよ。パパは電車で通えるだろとか言って反対するだろうけどさ」
「うん。すると思う」
「でもさ、家賃はバイトとかして自分で払うよ。学費はちょっと無理だろうけど」
「ママには言ったの?」
「言ってない。再来年のことだもん。今から言う必要ないし」
「だけど、もう決めてるの?」
「うん。もしかしたら気が変わるかもしれないけど、でも、たぶん、そうすると思うよ」
「どうして?」
私が訊ねると、お姉ちゃんはわざとそうしているのか、唇の端からさくらんぼの茎を出したまま、目を丸めて、首をかしげた。
「どうして一人暮らししたいの。私はやだ。お姉ちゃんがいなくなるの」
「いなくなるわけじゃないし」
お姉ちゃんは唇の端から緑とも茶色ともつかない茎を取ると、それをお皿に放り捨て、そうして私に顔を上げてきて、笑った。
「いやじゃん」
「何が?」
「パパの、俺が育ててやっているんだ、みたいな顔」
「うん。やだ」
「まあ、学費を出してもらおうとしている時点でパパから脱却できてないんだけど。でも、できることは最低限、自分でやりたいよね。そっちのほうがなんか楽しそうじゃん。のびのびできて。大変かもしんないけど」
私はうつむいた。お姉ちゃんは強い人だと思った。ものすごく呑気なことを呑気に言っているのだけれども、お姉ちゃんからするとこの世の中で起きていることなんてどうでもいいことのようだった。いい意味でも悪い意味でも、そういう無神経さでやっていられるのだから、強い人だった。
「点数下がったぐらいでくよくよするなって」
お姉ちゃんは座椅子から腰を上げ、また再びベッドに寝転がってスマートフォンをいじくり始めた。
「環は頭がいいんだからさ。挽回できるよ。全然。頑張りな」
「私、わかんない。私、べつに高校なんてどこだっていいもん。パパが勝手に言ってくるだけだもん。お姉ちゃんみたいに何がやりたいかわかんないもん」
すると、お姉ちゃんは液晶画面を触るのをやめて、私のほうに体を向けてきた。
「私より頭がいいってのは否定しないの?」
「しない」
「バーカ。さっさとそれ持って帰れ」
私はお皿を手にして腰を上げた。お姉ちゃんは夢中になってスマートフォンを操作していたけれども、私がドアを開けて出ていこうとすると、
「先にお風呂入っていいかんね」
と、伝えてきた。




