19・戸惑い
希と愛紗が見つめあっていた時、奏と明音は……
「ちょっ……や、やめろっての」
私が闇雲に振り回した手を明音は容易く避けた。
「う、うるさいバカ!」
何回も違うって言っているのに、明音が私のことをからかい続けているから明音が悪い。そもそも、『私が明音のことを好きだと言ったらどうするか』なんて聞いたのは単なる気まぐれであって別に本当に私が明音に気があるわけじゃない。
だというのに、明音のやつはさっきからニヤニヤ笑って、本当にムカつく。
「わかったわかった、もう言わないからやめろって」
私の拳を掴んだまま明音はそう言った。振り払おうとしても彼女の握力にはかなわなかったから、私は観念して手の力を抜いた。
「……言っとくけど、あの質問に変な意味はないからね」
「わかってるって、何回も言わなくてもいいよ」
ヘラヘラ笑いながら言われても説得力に欠ける。
ああもう、それにしても明音を殴り倒そうと躍起になっていたせいで体中が火照っている。
「うう……暑い」
「え、奏それ照れてるだけじゃねーいや違う! 違うね! 今のマジ失言だからやめて! ほんとおやめください待ってちょっ」
本当に、この馬鹿はいつもいつも余計な一言が多い。もう許さん、殴ってやる!
「違うっつってるでしょ!」
「だからわかったから! 待て頼む……」
私が振り上げた拳を受け止めた明音の足がもつれた。私は彼女に殴りかかろうと背を伸ばして爪先立ちになっていて、そうして前に倒れ込んだ。私の方が明音より倒れるのが早く、彼女の豊満な胸に私の顔が埋まった。
やば、やわらか……って、そんなこと考えてる場合じゃない。
止まろうと思ったけど勢いは死ぬことなく、私と明音は倒れ込んだ。もう片方の手に持っていた鞄が指から滑り落ちる。仰向けに倒れた明音の上に私が、まるで明音を襲った変態であるかのようなかっこうでのさばっていた。不本意だ。
「いたた……うわー奏ちゃんそんなことしちゃうんだーエッチー」
「う、うるさいだまれ! 今のは不可抗力だし、大体よろけたアンタが悪いでしょ!」
「はいはい、とりあえず起き上がらないと。立てるか?」
明音はダイレクトに床に背をぶつけたにも拘らずさっさと起き上がって自分の鞄を拾うと私に手を差し伸べた。
ふん、さっきまで意地悪な表情だったくせに、今更優しくされたってこっちも困る。
「う、うん……」
私は横に転がっていた鞄を持って明音の手を取り立ち上がろうとした。そのとき、鞄の中身がドサドサ、とこぼれ落ちた。
「あ……」
「あーあー、何やってんの奏」
「うるさい」
とりあえず、無造作に散らばったノートをひろう。明音は何も言わず教科書なんかを一冊ずつ拾っていってくれた。
「ほい、これ」
「……ありがとう」
「そんな拗ねたような顔すんなって。ところでこれ」
教科書の後に彼女が私に手渡したのは一冊の文庫本だった。
「今日までに返却みたいだけどいいの?」
「あっほんとだ……図書室ってまだ開いてるよね?」
「ん、確か下校時間まで開いてた気がする」
下校時間まであと五分とちょっと。図書室は昇降口の隣の廊下沿いにあるから、歩いても間に合うだろうし、今日返してしまおう。
「これ返してくるから、先いってて」
「待ってるよ」
明音の柔和な表情に少しドキッとした。
昇降口の一年生の下駄箱の横にある廊下。そこを十歩ほど進むと図書室の入り口にたどり着く。入り口のドアのガラスの部分から、金色の光が漏れてくる。図書室は多分、綺麗な夕暮れの光に包まれているんだろう。
そう思って中を覗いて
一瞬、呼吸が止まった。
今まで見たことも、もちろん考えたこともなかった。
なのに、いや、だからこそ、強く鮮やかな印象を私の中に残した。ずっと絡みついて、いつまでも消えない。
カウンターの内側に、ショートカットの女の子ーーーー多分、ノゾミだと思うけど、彼女が向かいのロングヘアのアイ先輩らしき人にカウンター越しに抱きしめられ、キスを……してい、る?
ど、どうして? 二人の間に、何かあったの?
二人の口づけに目が吸い寄せられて、身動きすることすら忘れていた。それに気づいて顔が火照ってきた。今度ばかりは紅潮しているんだろう。鏡を見なくてもわかる。
女の子同士でキスするなんて……。
十秒、二十秒、数えても二人はやめる気配を見せない。私は、見ていると変な気分になってしまいそうで図書室に背を向け、そのまま走り出した。勘違いだ。二人が顔を近づけあっていたのを見間違えただけだ……でも、だとしたらなんでそんなことを……違う違う、それも見間違いだ。夕暮れが美しすぎておかしくなっていただけで……だめだ、倒錯してしまう。
昇降口まで戻ってくると、柱に寄りかかっていた明音がこっちを向いた。
「お、戻ってきたか……どうした?」
そのときの私はとても変だったに違いない。なにせ返すつもりだった本を手に持ったまま頬を紅潮させていたんだから。自分がどういう顔をしていたのか、思い返したくもない。
「あ、明音ぇ……」
私はよろよろと彼女の元まで歩いていって、そのまま全体重をあずけた。
「お、おいどうしたんだよ。本は?」
「今日はもういい……ねぇ、明音……?」
「な、なんだ」
そのときの私は、困惑しきってまともな判断もできなかったらしい。
「キ、キス……したいな」
なにせ、こんなことを言ってしまうんだから。
「……? 熱か? 今日はゆっくり休めよ」
「えっ……あっ!? ち、違う! 今のはなんでもないから!」
慌ててさえぎった。だめだ、まともな会話ができそうにない。特に明音相手だと尚更な気がするのが癪にさわりそうだ。
「本当にどうしたんだ? 顔も赤いし、マジで熱があるんじゃねーの?」
「……」
返事はしなかった。というか、あの二人のキスシーンばかりが網膜に貼りついて離れない。
今の私は明音に強くしがみついていて、身長差ゆえに私の顔に彼女の胸が当たっている。いるのはわかっているけど、そんなこと気にする余裕もない。
「おい……そろそろ帰ろう」
「そうだね。ちょっと待って」
私はゆっくり、顔を見られないように明音の身体から離れて、彼女の足元にあった私の鞄を拾った。顔を見られたくないのは、赤かったのもあるけど絶対に見られたくないような恥ずかしい表情をしていたからだ。
「は、早くいこう」
「おう」
靴を取り出して履く間も私は胸の動悸が止まらなかった。明音もそんな私を慮っているのか、話しかけようとしなかった。昇降口を出て階段を下りて校門を出て、私はようやく表情を作っておそるおそる明音を見上げた。
まず視線が向かうのは唇ーーーーだめだ、そんなところを見ていたらまた考えてしまう!
そう言い聞かせても、まるで魅入られたように私は明音の唇ばかり見ていた。頭では正反対のことを考えながら。だからだろうか、明音が私のことを見ているのに気づかなかった。
「おい、私の顔になんかついてるか?」
「へっ!?」
彼女の丸い瞳が私の視界に飛び込んできて、やっと唇以外の部分を見たと思ったら、ずっと明音と顔を合わせていたことが恥ずかしくなって、顔をそむけた。
「なんでも、ない」
「そっか」
今度も明音は何も言わなかった。私はうつむいたまま帰路をたどる。二人無言の道路に、虫の音が響く。




