143回目の世界
69回目の世界―――
あぁ、またこの場面だ。
チキュウのニホンのどこかの都市、どこかの建物で、木枯らしが吹く季節に、少女は男と一緒にいた。
男が口を開いた。唇が一文字一文字言葉を形どり、ゆっくりと吐き出していく。彼女を少しでも悲しめるように、苦しめるように。
『オ前ナンカ生マレテコナケレバ良カッタ。オ前ガ死ンデ由美ガ助カレバ良カッタノニ。』
少女は大きな瞳を見張り、僅かに俯いた。しかし、気丈な様子で顔を上げ、男を確かに見つめ直した。
『今マデ養ッテクレテアリガトウ。』
強い声だった。
同時にその声は震えていた。今にも泣き出しそうに。
少女は家を出て、最初の曲がり角で立ち止まった。
涙がとめどなく溢れていた。しゃくりあげて、すすり泣いて、嗚咽を漏らす。
顔が涙でクシャクシャになって、いつもの彼女とは別人のようだった。
ワカッテタノ
父サンが私ヲ愛シテナイナンテ
デモ、気付キタクナカッタ
ソレデ、少シデモ理想ニ娘ニナレルヨウニ強ク生キテキタツモリダッタ
ケド、駄目ナンダネ
ドウヤッテモ彼ハ私ヲ愛シテクレナイ
僕は悲しんでいる彼女を何とかしてあげたくて、
悲しんでいる彼女をこれ以上見ていたくなくて、
69回目の世界を壊した
「壱、またやり直し?」
世界を壊した僕に参はそう尋ねた。
「そんなに頻繁にやり直してるのは壱くらいだ。伍はまだ一回目で、微調整くらいしかしないっていうのに。次、何回目だっけ?」
「……70」
「ななじゅう!それは随分な数だね。僕とは50も違う。そこまでして、成し遂げたいことがあるのかな?」
可笑しそうに笑う参に嫌気が差した僕は、プイッと背を向けて、邪険に扱う。
「気が散るからあっち行けよ」
参はやれやれといった仕草でその場を立ち去る。捨て台詞はあくまで嫌みで、そのモットーは崩さないままにして。
「せいぜい素敵な世界を創ってくださいね、と。」
僕らは世界を創る存在だ。僕が創っている世界のチキュウでは、ゴッドとかカミと呼ばれる存在に近い。
カミは全部で十人。数字で区別し、それぞれが違う世界を創造する。
僕らが世界を創り始めるとき、各が担当を決めた。弐は白、参は朱、といった具合に。そして、僕は黒だった。
真っ黒なキャンバスに何を描こうかと悩んでいた。
それだけで三百年くらい。
やがて、色とりどりの球を散りばめたら綺麗かな、と考えた。
最初は滞空する球を、それから空に流れる球も創ってみた。
大まかに配置が決まったところで、それぞれの球を細かく作り込んでいった。赤い球には炎を与え、ガスだけで作り上げた球もあった。
最も大変だったのは、青い球だった。唯一生物を住まわすことが出来たから、一番手を込んだ。
様々な生物を創っては失敗し、創っては失敗し、8回目で成功した。9回目では哺乳類が誕生した。
僕としてはそれで、世界は完成させていた。もうこれ以上いじるつもりはなかった。
―――人類が現れたことに気付くまでは。
彼らは僕の知らない1000の間に、いつの間にか進化して、文明を築いていた。
今まで繁栄していた生物の中で最もカミに近い生き物だった。容姿においても、頭脳においても。
気付いたら、僕は彼らに見入られていた。きちんとした自我を持ち、自尊心のためなら同種を敵と見なす。僕にとって異生物だった。
ジャンヌダルクの勇敢さには舌を巻いた。神なんて曖昧なものを信じて戦場にたつその勇気に。
ナポレオンの侵略は見事なものだった。彼の統制は隙が無かった。
僕にとってみれば百年どころか一億年なんてあっという間にすぎるものだった。けれど、彼らの生き様は僕の過ごす時間より遥かに短いくせに、彼らの一生は僕の今まで過ごした何兆年よりも遙かに密度が濃かった。
僕は2000年間飽きることなく彼らを見続けていた。
2012年11月6日。
これが僕が世界をやり直す理由だ。
僕は彼らの生き様を見るのが非常に楽しかった。しかし、この日に彼女を見つけてしまったのだ。
シノサキノゾミに。
漢字だと篠崎望。
生まれた時に母が死に、父に育てられてきた。父は彼女を愛そうとはせず、彼女のせいで自分の妻が死んだと考え、彼女を恨んでいた。
それでも、少女は気丈だった。父に愛されてなくても、支えてくれる人がいなくても、少女は強かった。笑顔は儚さと芯の強さを秘め、自分の不幸に泣くこともなかった。
その強さに惹かれた。
けれど、少女はこの日に壊れてしまったのだ。
父に愛されていないという事実を突きつけられてから。
この後、2ヶ月間彼女を観察し続けた。けれど、もう人形のようだった。応答ははい、か、いいえ。ひたすら俯いて笑うこともなかった。僕は少女の強い笑顔を知ってるのに、少女はもう笑わない。
なら、なら、僕は世界をやり直そう。
彼女があの日壊れなくてすむように僕が世界を壊す。
全ては彼女のため。
彼女が泣かなくてすむために。
ウチュウを創って、チキュウを創って、ニホンを創って、少女の人生を動かす。少女の曾祖母の頃から、いじるのだ。
それでも、少女はあの日、泣く。壊れる。
だから、僕は世界をやり直す。
何回も何回も。
ウチュウを創って、チキュウを創って、ニホンを創って、少女の人生を動かす。少女の曾祖母の頃から、いじるのだ。
それでも、少女はあの日、泣く。壊れる。
だから、僕は世界をやり直す。
何回も何回も。
何回も何回も何回も何回も何回も何回も…………
143回目の世界
2012年11月6日
彼女は泣かなかった、壊れなかった。
少女の母は生きていて、少女の父も少女を愛していて、少女は幸せだった。
けれど、少女はもう僕の知っている少女じゃなかった。
誰にでも与える媚びた安い笑顔。誰かの気を引くための涙。
そこには、僕が少女に求めていた強さはなくて。少女は万人に有りがちな弱いヒトになっていた。
何故だろう?
少女が幸せになったら少女はあの日壊れることはなく、強いニンゲンのまま、生きていけるんじゃなかったのか?
何故少女は弱くて薄くて安いニンゲンになったのだろうか。『あれ?壱、どうしたの?』
振り返ると、69回目を壊したときのように参が立っていた。
『どうしたって……』
『君、茫然としてるからさ?いつも、世界をやり直すときは気が張っていたんだもの。』
『だって、』
少女はもう少女たりえない。
僕が創ることのできるのは弱い少女か壊れた少女。
僕が見惚れた強さを秘めたまま、少女が幸せに笑うことはなかった。
少女の強さは逆境の中で存在していたもので、少女は不幸だったからこそ、少女は強かった。
『僕らは世界を創ることは出来ても、運命を操ることは出来ないんだなぁ、って。』
『当たり前だ。僕らの仕事は世界を創ることまで。その先は世界に委ねていくんだ。そこで、世界が輝くとしたら、それは世界のおかげで、僕らのおかげじゃない。逆もまた然りってね。流れに沿ってこそ、世界は美しくなるんだ。』
じゃあ、参は立ち去った。69回目のときのように。けれど、珍しく捨て台詞は嫌みじゃなかった。
『だから、壊れていてもまた輝くこともあるんだ。』
目から鱗だった。
壊れていても輝く?
彼女は壊れていてもまた強さを有して輝いていたのだろうか?
僕は143回目の世界を壊し、144回目の世界を創った。
ウチュウを創り、タイヨウケイを完成させ、チキュウを創り、ウミとリクを入れて、セイブツを創った。
シーラカンスが泳ぎ、キョウリュウが闊歩し、シソチョウが羽ばたく。
ジャンヌダルクが戦場で馬を駆け、ナポレオンがヨーロッパを侵略する。
そして、1994年8月19日に篠崎望が生まれ、同時に彼女の母、篠崎由美が死んだ。
2012年11月6日、彼女の父、篠崎茂が彼女を突き放し、彼女は壊れた。
1ヶ月目、彼女は壊れたままだった。
3ヶ月目、彼女は壊れたままだった。
半年目、彼女は壊れたままだった。
1年目、彼女は壊れたままだった。
2年目、彼女は壊れたままだった。
3年目、彼女に転機が訪れた。
彼女の心を分かつ彼が現れた。彼女の脆弱さを包み込み、彼女の強固な部分を認め、彼女の涙を拭い、彼女の笑顔に笑った。
彼女はあの時のように、強く笑った。輝き始めた。
僕が世界をいじらなくても、彼女はまた輝いた。
あの時のように。あの時より輝きを増して。
彼女の笑顔は愛おしくて、そして彼女の笑顔は彼に向けられていた。
そのことに微かに胸が疼く。
彼女の強さは失われることはなかった。美しく瞬いて僕が見惚れたものに復活した。
『杞憂だったんだなぁ……』
そっと僕は呟いた。
それから、世界を愛おしく見つめ、世界を放置した。僕がいじらなくても、世界は美しく輝く。しばらく休んでも罰は当たらない。
僕にとって彼女の一生はあっという間で、僕が休んでいる間に彼女はもう息絶えている。人類ももう滅んでいるかもしれない。
けれど、ぼくは―――……。
彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。強くて儚い笑顔。
今は儚さはなく、花が綻ぶような強く明るい笑顔。
僕は、彼女という強いヒトが僕の世界に生きてくれたことを忘れないだろう。