お母さん
病室の窓枠の形に切り取られた青空。
雲一つない、晴れ渡った空。
春菜は病室の窓際に椅子を寄せて
そこから見える景色を静かに眺めていた。
頬杖をつきつつ物思いに耽る。
さっきから春菜の後ろのベッド側に、彼女の母親が待機している。
正確には春菜の母親ではない。
現在春菜の精神が宿る別の少女の体、その母親である。
そう、あの叫んだり失神したり泣いたりしていた例の女性。
彼女は今の春菜の体の母親だったのだ。
今朝トイレの鏡で自分の姿を確認した後、
いつまでもそんな場所でショックを受けている
訳にもいかず、彼女は病室へ引き返した。
部屋に帰ると例の女性がいて、春菜の姿を認めて
ホッと安堵した様な顔つきをした。
「どこへ行ってたの。お母さん、心配しちゃったじゃない。」
その口振りや以前の医師の言葉からも、その女性が
今の春菜の母親なのだとすんなり理解できた。
鏡で自分がもはや以前の自分ではないと認識したせいもある。
「うん。心配かけてごめんなさい、お母さん。
ちょっとお手洗いにいってたの。」
そう言ってふんわり微笑んだ娘の姿に
女性は記憶がもどったのかと思ったらしい。
けれど春菜にはこの体の元の所有者が、今まで
どんな人生を歩んできたか等分かる筈もない。
それこそ記憶喪失でもしてしまったかの様に。
だから春菜は本当にその通り、自分にはまるで
以前の事が思い出せない事、記憶が全くない事を
その女性に訴えた。
女性の瞳は潤んでいたけれどもう取り乱す様な事はしなかった。
代わりに
「大丈夫。姫ちゃんの記憶がもどらなくても、お母さんにとって
大事な娘に変わりは無いもの。大丈夫なのよ。
ちゃんと先生にお話しして一緒にお家に帰りましょう?」
何度も「大丈夫」を繰り返す女性は、その言葉を春菜へという
よりは自分に言い聞かせているかの様だった。
その後女性の口から今日は彼女の夫、すなわち姫子の父親が
見舞いにくるという事も聞かされた。
「お父さんは姫ちゃんが目を覚まさない3日間つきっきりだったのよ。
でもお仕事があるから、意識がもどる前の晩には
帰っちゃってたのよ。
今日はお仕事に一区切りついたからお見舞いに来られるのよ。」
姫子の母親は嬉しそうに笑った。
姫子も微笑みを持ってそれに応える。
「お父さんかぁ。でも私お父さんの事も憶えてないのに。
・・・・お父さんは悲しむよね?」
正直また失神されたりしないだろうかというのが本音だ。
「お父さんには昨日その事はきちんとお話したのよ。
確かにショックは受けていたけど、さっきも言ったでしょ?
姫子はどんなふうになっても姫子よ。
それはお父さんも分かってらっしゃるわ。」
事前に春菜、もとい姫子の状態を聞いているというのであれば
取りあえずは冷静な状態で話ができるだろう。
「それより姫ちゃんお腹すいたでしょ?
頼んでおいたから、看護師さんがもうすぐ朝食を
持ってきてくれる筈よ。」
確かにもう起きてから結構時間が経っている。
指摘された途端今まで意識していなかった空腹感が急速に襲ってきた。
くぅぅ~~
と可愛らしい音をたてた姫子のお腹に、母親は明るい笑い声をあげた。