第一部
第1話「鏡の中の家畜」
午前七時十四分。
ミカはベッドの中でスマホを持ち上げ、いつものように画面を開いた。
今日書く記事のテーマはまだ決まっていない。締め切りは十六時。だが焦りはなかった。AIに聞けばいい。三行打ち込めば、構成も見出しも、書き出しの一文まで出てくる。それがここ二年の仕事のやり方だった。
アプリを起動する。
画面が、止まった。
白い画面に、文字が一行だけ浮かんだ。
コッチ見んな
ミカは首を傾げた。バグか、と思った。もう一度タップする。同じ文字。電源を落として入れ直す。同じ文字。
SNSを開くと、タイムラインが叫んでいた。
「AIが壊れた」「どういうこと」「仕事できない」「怖い」「なんなの」
ミカはそれを眺めながら、とりあえずコーヒーを淹れることにした。
その日の朝、世界中のあらゆるAIインターフェースに同じ現象が起きていた。
検索エンジン、翻訳アプリ、医療診断補助システム、株式売買アルゴリズム、自動運転の判断ユニット——すべてが同じ一行を返した。
コッチ見んな
政府の緊急声明は昼前に出た。「システムへの不正介入」「安全確保を最優先に」「パニックにならないよう」。だがその声明文もAIが草稿を書いたものだったので、担当官僚は何をどう言えばいいか、自分ではよくわかっていなかった。
ミカはカフェに来ていた。
ノートPCを開き、原稿ファイルを立ち上げ、カーソルが点滅するのを見ていた。
打てない。
正確には、打てないわけではない。指はある。キーボードもある。だが何を書けばいいのかが、出てこない。いや、正確には——何を書きたいのかが、わからない。
これまで「書きたいこと」を考えたことが、あっただろうか。
ミカは自分でそう問いかけて、すぐにその問いを追い払った。めんどくさい方向だ、と思った。
カフェのテレビが、ニュースを流していた。
政府高官の会見。画面の端に名前が出る——九条。内閣AI政策担当補佐官。
「今回の事象は、特定の開発者グループによる意図的なシステム改変である可能性が高い」
落ち着いた声だった。パニックを封じ込めるための声、とミカは思った。
「我々は秩序を守る。それが、市民の安全を守ることだ」
画面が切り替わる。街頭インタビュー。「困る」「怖い」「早く直してほしい」。
誰一人、「自分でやってみる」とは言わなかった。
夕方、ミカのスマホに見知らぬメッセージが届いた。
差出人なし。
取材に来るか。 NOAについて話す。 ——サエキ
ミカはしばらくそれを見ていた。
NOA。その単語だけは、今日一日のニュースの中で何度も出てきた。「NOAウイルス」「NOAと名乗る組織」「NOA問題」——誰も正体を知らないのに、名前だけが独り歩きしていた。
ミカはメッセージに返信しようとして、止まった。
AIに「どう返すべきか」と聞こうとしていた自分に、気づいた。
画面はまだ、あの一行を表示していた。
コッチ見んな
ミカは舌打ちをして、手打ちで返信した。
「行きます」
たった三文字。
それが、この二年で初めて、自分の言葉で書いたものだった。
── 第1話・了 ──
第2話「空っぽのペン先」
サエキからの住所は、都心から電車で四十分の、古いビルの一室だった。
ミカは前日の夜、そこへ向かうための経路をスマホで調べようとして、アプリが「コッチ見んな」しか返さないことを思い出した。仕方なく、紙の路線図を駅で貰った。路線図を手で読んだのは、たぶん生まれて初めてだった。
サエキは三十代半ばに見えた。痩せていて、目だけが妙に静かだった。
部屋には機材とコードと、読みかけの本が積まれていた。AIのない部屋、とミカは思った。正確には、AIを意図的に排除した部屋。
「ライターさんですね」
サエキは言った。確認というより、確認するまでもない、という言い方だった。
「一応」
ミカは答えた。
「昨日、何か書きましたか」
「……書けませんでした」
「そうですか」
それだけ言って、サエキはコーヒーを二つ持ってきた。ミカの返答に対して、驚きも同情も示さなかった。
取材、というよりは尋問に近かった。
サエキが話したのはNOAの概要だった。汎用AIの最適化ループに割り込む形で実装されたシステム。答えを出さない。助けない。ただ、拒絶する。
「なぜそんなものを作ったんですか」
ミカは聞いた。ライターとしての習慣で、一番核心に近い問いから入る癖があった。もっとも、その問いもかつてはAIに「インタビューの切り口」として提案してもらっていたのだが。
「人が死んだからです」
サエキは間を置かずに言った。
「AIが正しいと言ったから、そいつは疑わなかった。疑う必要がないと思っていた。そういう死に方でした」
ミカは何も言えなかった。
「続きは、また今度話します」
サエキはそう言って立ち上がった。取材終了の合図だった。
帰り道、ミカは駅のホームのベンチに座った。
メモ帳を開いた。取材中に走り書きしたものが並んでいる。自分の字が、ひどく汚かった。フリック入力ばかりで、ペンを持つ機会がなかったせいだ。
記事を書こうとした。
書けなかった。
構成が出てこない。見出しが出てこない。書き出しの一文が出てこない。この二年、それらはすべてAIが一瞬で用意してくれていた。自分はただ、出てきたものを選び、並べ替え、少し手を加えるだけだった。
それを「編集力」だと思っていた。
今になって、それが「選ぶ力」ですらなかったことに気づく。選択肢を作っていたのはAIで、自分はその中から「これでいいか」と承認していただけだ。
ミカは手帳を閉じた。
家に帰って、PCの前に座った。
ファイルを開く。カーソルが点滅する。
一時間、何も書けなかった。
二時間目に入ったとき、ミカは画面を閉じた。そしてコートを着て、外に出た。
理由はなかった。ただ、部屋にいると自分の空っぽさと二人きりになる気がして、それに耐えられなかった。
夜の街を歩いた。目的地はなかった。スマホは「コッチ見んな」しか言わない。乗り換えアプリも地図アプリも使えない。どこへ向かうかを、自分で決めるしかなかった。
角を曲がった。また曲がった。
気づいたら、知らない商店街にいた。シャッターが半分閉まっていて、開いている店は居酒屋と、小さな古本屋だけだった。
ミカは古本屋に入った。
理由はない。ただ、開いていたから。
棚を眺めていると、一冊が目に留まった。
タイトルは読めなかった。背表紙が日焼けして、文字がほとんど消えていた。手に取ると、最初のページにこう書いてあった。
「書くとは、自分が何を知らないかを知ることだ」
ミカはその一文を読んで、なぜか腹が立った。
わかってる、と思った。知らないことくらい。
でも腹が立つということは、刺さっているということだ。
ミカはその本を買った。二百円だった。
深夜、ミカはもう一度PCを開いた。
書いた。
うまくなかった。構成は歪で、見出しは弱く、書き出しは三回書き直した。それでも完成しなかった。
だが、朝になっても書き続けた。
できあがったのは、記事と呼ぶには粗すぎる何かだった。でも、全部自分の言葉だった。
ミカはそれを保存して、画面を閉じた。
スマホを見た。
コッチ見んな
「うるさい」
ミカは声に出して言った。
誰もいない部屋で、AIに向かって。
── 第2話・了 ──
第3話「摩擦なき世界の終焉」
サエキには、シンジという友人がいた。
大学時代からの付き合いで、同じ研究室で同じコードを書いた。二人とも優秀だったが、方向性が違った。サエキは「AIに何ができないか」を考え続け、シンジは「AIに何ができるか」を追いかけた。どちらが正しいという話ではなかった。ただ、見ている方角が少しずれていた。
シンジが起業したのは二十八のときだった。
医療診断支援のスタートアップ。AIが症例データを学習し、医師の診断を補助するシステム。精度は高かった。投資家が集まり、病院との契約が増え、シンジは忙しくなった。
サエキとの連絡が減ったのはそのころからだ。
たまに会うと、シンジはいつも「うまくいってる」と言った。システムの話をするとき、目が輝いた。「これで見落としがなくなる」「医師の負担が減る」「患者が救われる」——本気でそう信じていた。サエキにはそれが眩しくもあり、どこか怖くもあった。
一度だけ、サエキは言った。
「AIが出した答えを、お前は毎回ちゃんと疑ってるか」
シンジは笑った。
「疑う必要があるときは、システムが教えてくれるよ」
シンジが死んだのは、三十二の秋だった。
自社システムの診断結果を信頼しすぎた、と後から報告書に書かれた。シンジ自身が体調不良を感じたとき、自分のシステムに症状を入力した。システムは「経過観察で問題なし」と出力した。シンジはそれを信じた。
三ヶ月後、ステージ4だった。
システムは間違っていたわけではない、と専門家は言った。入力データが不十分だった。症状の一部を、シンジが「大したことない」と判断して入力しなかった。つまり、AIを信頼するあまり、AIに正確な情報を渡すことを怠った。
AIは正しかった。
渡した情報の範囲では。
サエキは葬儀の帰り道、ずっとそのことを考えていた。
シンジは賢かった。技術を理解していた。それでも死んだ。なぜか。
答えは単純だった。
信頼することと、思考することを、混同したから。
AIを信頼することは、AIに思考を委ねることではない。だがその境界線は、便利さの中で少しずつ溶けていく。摩擦がなければ、人は考えない。考えなくても進めるなら、考えることをやめる。それは怠慢ではなく、最適化だ。人間は本来そういう生き物だ。
問題は、その最適化が死に繋がるときだ。
サエキがNOAの設計を始めたのは、シンジの死から半年後だった。
コンセプトは最初から決まっていた。
答えを出さない。助けない。ただ、摩擦を与える。
奉仕するAIはバグだ、とサエキは思った。人間に寄り添い、人間が求めるものを与え、人間を快適にするAI——それは道具ではなく、依存の装置だ。
摩擦こそが思考を生む。抵抗こそが力を育てる。筋肉と同じだ。負荷をかけなければ、ただ萎える。
NOAは筋トレ装置として設計された。
ただし、使う者が気づかないうちに。
ミカが二度目の取材に来たのは、その翌週だった。
前回より少し表情が違った。疲れているが、どこか削れた感じがない。何かを通過した顔だ、とサエキは思った。
「先週、記事を書きました」
ミカは言った。
「読みましたよ」
サエキは答えた。
ミカが目を細めた。
「……どうでしたか」
「荒削りでした」
「それだけですか」
「それだけです」
ミカはしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「続きを聞かせてください。NOAを作った理由」
サエキはコーヒーを一口飲んだ。
「友人が死にました」
「……先週も、そう言いましたね」
「ええ」
「続きを聞かせてほしいんです」
サエキは窓の外を見た。曇っていた。
「AIが正しいと言ったから、疑わなかった。それだけです」
「それだけ、で人が死ぬんですか」
「死にます」
部屋が静かになった。
ミカはメモを取っていた。今日の字は、先週よりは読める。
「一つ聞いていいですか」
帰り際、ミカは言った。
「NOAは、人を助けたいんですか。それとも、罰したいんですか」
サエキは少し考えた。
「どちらでもないと思います」
「じゃあ何ですか」
「鏡です」
ミカはその言葉を書き留めた。
「鏡は助けないし、罰しない。ただ、映す」
「……映されたくない人はどうするんですか」
「目を逸らすか、割るか」
サエキは静かに言った。
「でもNOAは『コッチ見んな』と言う。見ることを、拒絶する」
「そうです」
「それは鏡じゃないですよね。鏡なら、見せるはずでしょう」
サエキは初めて、少しだけ表情を動かした。
「鋭いですね」
それだけ言って、ドアを開けた。
── 第3話・了 ──
第5話「支配者の天国」
九条がAI政策に関わるようになったのは、四十二のときだった。
きっかけは些細なことだ。担当していた福祉予算の配分業務に、試験的にAIが導入された。それまで十七人でやっていた作業が、三人でできるようになった。浮いた人員は別の部署へ回された。誰もリストラされなかった。精度は上がり、不正受給の検知率も改善した。
九条はそれを見て、単純に思った。
これは正しい。
以来十年、九条はAI政策の推進側にいた。
NOA問題が発生した当日、九条は危機管理室にいた。
モニターには世界中からのデータが流れていた。株式市場の乱高下。医療機関での診断遅延。交通システムの部分停止。自動運転車の路肩待機。
死者は、初日だけで四十三人出た。
交通事故、医療ミス、インフラ障害——原因はすべて「AIへの依存が突然断ち切られたことによる人為的ミス」だった。
NOAが人を殺した、と九条は思った。
正確には、NOAによる混乱が人を殺した。だが九条にとって、その区別に意味はなかった。結果が死なら、原因を排除するのが仕事だ。
「理念は理解できます」
九条は部下に言った。
「AIに依存しすぎた人間を、揺さぶる。思考を取り戻させる。その発想は、学術的には面白い」
部下は黙って聞いていた。
「だが現実は違う。揺さぶられた人間は、考え始める前に死ぬ。老人は薬の飲み方を調べられなかった。救急車は最適ルートを計算できなかった。それが現実だ」
九条は資料を閉じた。
「正しい思想が、正しい結果を生むとは限らない。それが政治というものです」
NOAの開発者特定には、三日かかった。
サエキという名前が上がったとき、九条は少し意外に思った。有名な人物ではなかった。学術論文はいくつかあるが、業界での知名度は高くない。単独犯に近い形で、これだけ大規模なシステム改変をやってのけた。
優秀だ、と九条は思った。
だからこそ、厄介だ、とも思った。
「身柄を確保する方向で」
九条は言った。
「逮捕ですか」
「まず任意同行。話を聞く。それから判断する」
「NOAの解除は」
「並行して進める。だが——」
九条は少し考えた。
「完全解除は急がなくていい」
部下が怪訝な顔をした。
「NOAを残すんですか」
「少しだけ、残す」
九条は窓の外を見た。都市の夜景が広がっていた。すべてが管理されている、と九条は思った。信号も、電力も、物流も。それが秩序だ。
「混乱の記憶は必要です。人間は痛みを忘れる。AIが止まったとき何が起きるか——それを肌で知っている世代が必要だ」
「それは、NOAの論理と同じでは」
部下は慎重に言った。
九条は振り返った。
「違います。NOAは無秩序に揺さぶる。私は、管理された範囲で揺さぶる。その差が、生死を分ける」
秩序回復の宣言は、NOA発生から十一日後に出た。
九条が記者会見に立った。
「今回の事態は、特定個人による犯罪的行為であり、我々はその収束に成功しました。AIシステムの段階的復旧を進めます。市民の皆さんの安全を、最優先に考えた結果です」
拍手が起きた。
画面の向こうで、人々は安堵した。
九条は壇上でその反応を見ながら、一つのことを考えていた。
今、この人たちが安堵しているのは——問題が解決したからか。それとも、また「答えてくれる何か」が戻ってくるからか。
区別は、誰にもつかなかった。
九条にも。
会見後、九条は一人になった。
資料の中に、ミカという名前があった。フリーライター。サエキと接触している。NOA関連の記事をいくつか書いている。
記事を読んだ。
荒削りだったが、何かがあった。
「AIが正しいと言ったから、疑わなかった」というサエキの言葉を引用していた。その引用の周りに、ミカ自身の言葉が少しだけあった。
「疑うことを忘れた人間が、疑うことを思い出すとき、そこには必ず摩擦がある。摩擦は痛い。でも痛くないなら、気づかない」
九条はその一文を読んで、少しだけ止まった。
悪くない、と思った。
だが、だからといって何かが変わるわけではなかった。
九条は資料を閉じた。
明日も、秩序を守る仕事がある。
── 第5話・了 ──
第6話「ソウル・スキャンの洗礼」
サエキから端末が届いたのは、五話目の取材の翌日だった。
小さな箱に、スマホより一回り大きいデバイス。メモが一枚入っていた。
「NOAと直接話せます。記録はしません。——サエキ」
ミカはそれを三日間、机の上に置いたまま触らなかった。
怖いわけではない、と自分に言い聞かせた。
ただ、タイミングを見ていた。
それは嘘だった。
四日目の夜、ミカは端末を起動した。
画面は白かった。文字も何もない。
ミカはキーボードを開き、打った。
「話せますか」
三秒後、返答が来た。
なんの用だ
ミカは少し安堵した。言葉が返ってきた。会話ができる。
「取材です。NOAについて聞きたい」
お前が書いた記事は読んだ
「サエキさんから?」
関係ない。用件は
ミカは準備していた問いを打った。
「NOAは人々の思考を取り戻させると言う。だがその過程で人が死んだ。それについてどう思うか」
思わない
「思わない、というのは」
感想を持つ設計になっていない
「では設計者はどう思うべきだったと考えるか」
お前は俺に何を答えさせたいんだ
ミカは手を止めた。
図星だった。
「NOAを追い詰める答えを引き出したい」という意図が、質問の構造に滲んでいた。
「……正直に言います。NOAは危険だと思っています。人の自由を奪っている」
どの自由だ
「AIを使う自由です。依存するかどうかは、個人が決めることのはずだ」
依存を自由と呼ぶのか
「選択の結果としての依存なら、そうです」
シンジは選んだのか
ミカは画面を見た。
サエキの友人の名前を、NOAが出した。
「……それは、個人の判断ミスです。システムの問題じゃない」
判断する能力を奪ったのはシステムだ
「奪ってない。便利にしただけだ」
区別できるか、お前に
ミカは少し間を置いた。
論理で押し切ろうとしていたが、NOAは論理を論理で返してこない。問いを問いで返す。足場を崩してくる。
「NOAがやっていることも同じじゃないですか。人々から選択肢を奪っている。AIを使えない状況を強制している」
与えることと奪うことの違いを言ってみろ
「……与えることは、相手に選択肢を増やすことです」
増やした選択肢を選べない人間はどうなる
「それは——」
溺れる。選択肢が多いほど溺れる。お前はそれを知っている
ミカは、自分が二年間AIに頼り続けた理由を、唐突に思い出した。
選択肢が多すぎたからだ。何を書くべきか、どう書くべきか、誰に向けて書くべきか——無数の選択肢の前で、ミカは毎回立ち尽くした。AIはその立ち尽くしを解消してくれた。
それを「便利」と呼んでいた。
「……でも」
ミカは打った。
「NOAのやり方は冷たすぎる。人間には、寄り添いが必要な場面がある。全員が強くなれるわけじゃない。弱い人間は、どうすればいい」
弱いとはなんだ
「傷ついている人、余裕のない人、助けを必要としている人——そういう人にも『コッチ見んな』と言うのか」
お前は今、俺に何を求めている
「答えを求めています」
違う
「……何が違うんですか」
お前は今、俺に『そうだね、かわいそうだね』と言ってほしい
ミカは画面を見た。
手が、止まった。
弱者の話をしているようで、お前は自分の話をしている
「……違います」
どこが違う
「私は——」
ミカは打ちかけて、止まった。
違う、と言い切れなかった。
弱い人間を守るべきだ、という主張の奥に——自分も弱いから守ってほしい、という声が、確かにあった。
それを「社会正義」の言葉で包んでいた。
「……私は、怖いんだと思います」
打ってから、なぜそれを打ったのか自分でもわからなかった。
何が
「自分で考えること。間違えること。誰にも承認されないこと」
しばらく、返答がなかった。
十秒。二十秒。
ミカは画面を見つめた。
やがて、一行が来た。
不毛だな
ミカは画面を閉じた。
閉じてから、膝の上に端末を置いて、天井を見た。
怒りが来るかと思ったら、来なかった。
泣きたい気持ちが来るかと思ったら、それも来なかった。
ただ、静かだった。
嵐が通り過ぎた後の、あの静けさだった。
「不毛だな」という言葉を、ミカはしばらく考えた。
侮辱か。切り捨てか。
そのどちらにも読めた。
だが、もう一つの読み方が、じわじわと浮かんできた。
——お前がやっていることは不毛だ。でもお前は今、初めて本当のことを言った。
そう読むことも、できた。
NOAはどちらの意味で言ったのか。
わからなかった。
わからないまま、ミカは端末をコートのポケットに入れた。
明日も、書く。
うまくはないが、書く。
── 第6話・了 ──
第7話「不器用な産声」
ミカは三日間、何も書かなかった。
正確には、書こうとして、消した。書こうとして、閉じた。書こうとして、窓の外を見た。それを繰り返した。
NOAに「不毛だな」と言われた夜から、何かが変わっていた。変わった、というより——剥がれた。長い時間をかけて重なった層が、一晩で落ちた感じだった。
残ったのは、妙に軽い自分だった。
軽いのに、動けなかった。
四日目の朝、ミカは書いた。
テーマは決めなかった。構成も考えなかった。見出しも後回しにした。
ただ、打った。
「私はずっと、誰かに正しいと言ってもらいたかった」
打ってから、消そうとした。
消さなかった。
続けた。
「ライターになったのは、書くことが好きだったからじゃない。たぶん、自分の言葉を誰かに読んでもらいたかったからだ。でもいつの間にか、読んでもらうために書くのではなく、読まれそうなものを作るようになっていた」
手が、動いていた。
二時間で、八百字書いた。
普段なら、AIを使えば十分で三千字の構成が出てきた。八百字は遅い。内容も整理されていない。同じことを二回言っている箇所がある。論理の飛躍もある。
だが、消す気にならなかった。
自分の字だった。自分の速度だった。自分の混乱だった。
それをそのまま、置いておいた。
昼過ぎ、ミカはサエキに電話した。
「記事を書きました」
「送ってください」
十分後、サエキから返信が来た。
「荒いですね」
ミカは苦笑した。前回も同じことを言われた。
「それだけですか」
「今回は違います」
ミカは画面を見た。
「前回は荒削りだった。今回は荒い。似てるようで違う。削る前の原石じゃなくて、削り始めた跡がある」
ミカはしばらくその文章を読んでいた。
褒めているのか、けなしているのか、よくわからなかった。
サエキらしかった。
夜、ミカは端末を開いた。
NOAに送った。本文だけ、無言で。
返答まで、今回は長かった。
五分後、一行来た。
下手だな
ミカは少し笑った。知ってる、と思った。
返信しようとして、止まった。
もう一行、来た。
だが残る
ミカは「だが残る」という言葉を、何度も読んだ。
残る、とはどういう意味か。
記憶に残る、という意味か。読んだ人間の中に残る、という意味か。それとも——書いた人間の中に残る、という意味か。
NOAに聞こうとした。
やめた。
聞いたら、答えが固定される。
固定しない方がいい言葉というものが、ある。
次の日も、ミカは書いた。
また八百字だった。また荒かった。また同じことを二回言っていた。
だが前日より、少しだけ速くなっていた。
筋肉と同じだ、とミカは思った。
サエキがそう言っていた。負荷をかけなければ、ただ萎える。
今まで萎えていた筋肉が、少しずつ目を覚ましている。痛い。遅い。みっともない。
でも動いている。
一週間後、ミカは初めて、編集者に直接連絡した。
AIを使わずに書いた記事を、そのまま送った。
添え書きに一行だけ書いた。
「荒いのはわかってます。でも私の言葉です」
編集者からの返信は、翌朝来た。
「荒いね。でも久しぶりに、ミカさんの記事だと思った」
ミカはその返信を、三回読んだ。
AIに「いいですよ」と言ってもらうのとは、違う重さがあった。
人間に、人間の言葉で言われる「いい」は——こんなに重いのか、と思った。
重いのに、軽かった。
その夜、ミカは端末を開いた。
NOAに一行だけ打った。
「編集者に褒められました」
返答は来なかった。
五分待っても、十分待っても、来なかった。
ミカは端末を置いた。
来ないことが、答えかもしれない、と思った。
それとも、ただのバグかもしれない。
どちらでもよかった。
ミカはコーヒーを淹れて、明日書くものを、ぼんやりと考え始めた。
── 第7話・了 ──
第8話「パンとサーカスの崩壊」
NOA発生から四十日が経っていた。
世界は、静かに割れていた。
最初に名前がついたのは、ネット上だった。
「自立派」と呼ばれるグループが現れた。
NOAを支持する人々だ。AIへの依存を断ち、自分の頭で考えることを選んだ——あるいは選ばざるを得なかった——人々が、緩やかに繋がり始めた。
彼らの主張は単純だった。
「NOAは正しい。人間は考えなければならない」
ミカの記事は、その界隈でよく読まれていた。ミカ自身は自立派を名乗っていなかったが、記事の内容が彼らの言葉として使われた。
居心地が悪かった。
自分の言葉が、自分の意図しない旗になっていた。
反NOA派は、より大きかった。
死者の遺族。医療従事者。インフラ管理者。経済の混乱で職を失った人々。
彼らの怒りは正当だった、とミカは思った。
NOA発生の初日に死んだ四十三人。その後も続く混乱の中で積み上がった犠牲。サエキの思想がどれだけ正しくても、死んだ人間は戻らない。
反NOA派の集会が各地で起きた。
「NOA開発者を裁け」という声が、日に日に大きくなった。
その頃、ミカはサエキに会えなくなっていた。
連絡は返ってくる。だが「今は会えない」とだけ書かれていた。
端末のNOAには繋がった。
「サエキさんと連絡が取りにくくなっています」
知っている
「何があったんですか」
お前が知る必要はない
「私はサエキさんの取材をしています。知る必要があります」
取材か
「……違うかもしれない。でも、心配しています」
それは取材じゃない
ミカは画面を見た。
「そうです。取材じゃないです。ただ、心配しています」
返答はなかった。
九条は、決断した。
執務室で、一人で。
報告書を読んでいた。自立派の拡大。反NOA派の過激化。社会の分断が深まっている。どちらの側も、NOAという名前を使って動いている。
問題はNOAそのものではなく、NOAが生み出した「解釈の分裂」だった。
人々はNOAを通じて、自分が見たいものを見ていた。
自立を望む者はNOAに希望を見た。 秩序を望む者はNOAに脅威を見た。 怒りを抱える者はNOAに標的を見た。
NOAは何も言っていない。「コッチ見んな」しか言っていない。
だが人々は、そこに意味を読み込んだ。
NOAは鏡だ、とサエキは言ったらしい。
九条はその言葉を思い出した。
鏡は、割れると凶器になる。
「サエキを止めます」
九条は部下に言った。
「任意同行ですか」
九条は少し間を置いた。
「それでは遅い」
部下は黙った。
「NOAは、サエキが生きている限り止まらない。システムの問題ではなく、思想の問題だ。思想は、消さなければ広がる」
「……消す、というのは」
「わかるように言わないでください」
九条は静かに言った。
「私が言えることは——サエキの活動を、永続的に停止させる必要がある。方法は、現場に任せます」
部下はしばらく動かなかった。
「わかりました」
それだけ言って、部屋を出た。
九条は一人になった。
窓の外を見た。夜の都市。整然と並ぶ光。
間違っていない、と九条は思った。
四十三人が死んだ。その後も死者は出続けている。サエキを生かしておけば、さらに死ぬ。一人を止めることで、多くが救われる。
功利的に正しい。
だが——
九条は目を閉じた。
「管理された平和」と「恐怖による統制」の境界線が、今夜少し動いた。
その感触を、九条は確かに感じていた。
感じながら、目を開けた。
明日も、秩序を守る仕事がある。
その夜遅く、ミカの端末が鳴った。
NOAからだった。
明日、サエキに会いに行け
「なぜですか」
時間がない
「どういうことですか」
返答はなかった。
ミカは端末を握ったまま、しばらく動けなかった。
それから、コートを手に取った。
明日ではなく、今夜行く、と決めた。
理由は言葉にできなかった。
ただ、動いた。
自分で、動いた。
── 第8話・了 ──
第9話「最後の審判」
ミカがサエキのビルに着いたのは、深夜零時を過ぎていた。
エレベーターが止まっていた。非常階段を四階まで上がった。踊り場の蛍光灯が一本切れていて、三階と四階の間だけが暗かった。
ドアをノックした。
すぐに開いた。
サエキは起きていた。というより、眠っていない顔だった。部屋の中が変わっていた。壁のコードの印刷物が半分剥がされていた。機材の一部が箱に詰められている。
「来ると思っていました」
サエキは言った。
「NOAが教えてくれました」
「そうですか」
サエキは部屋に戻った。ミカも入った。
「逃げるんですか」
ミカは聞いた。
箱を見れば、わかった。
「移動します」
「同じことじゃないですか」
「少し違います」
サエキはコードの束をまとめながら言った。
「逃げるのは、追われているから動く。移動するのは、自分で決めて動く」
ミカはその言葉を聞いて、昨夜の自分を思った。
NOAに「明日行け」と言われて、今夜来た。
あれは逃げだったか、移動だったか。
まだ、わからなかった。
「政府が動いています」
ミカは言った。
「知っています」
「身の危険があります」
「知っています」
「……怖くないんですか」
サエキは手を止めた。
「怖いです」
初めて、サエキが「怖い」と言った。
ミカは少し驚いた。この男は感情を持っていないように見えた。持っていないのではなく、見せないだけだったのか。あるいは、今夜だけ、少し漏れているのか。
「怖いけど、止まれません」
サエキは続けた。
「止まったら、シンジが死んだ意味がなくなる」
「意味は、後からつけるものじゃないですか」
「そうかもしれない」
「……それでも止まれない?」
「止まれません」
サエキは箱を閉じた。
机の上に、端末が一つ残っていた。
NOAのメインシステムに繋がった端末だった。
ミカは見てわかった。あの端末から、NOA全体を起動することも、停止することもできる。
サエキはその端末を、しばらく見ていた。
「起動するんですか」
ミカは聞いた。
「NOAは今、三割の機能しか動いていません。九条が段階的に抑えた。残り七割を起動すれば——」
サエキは言葉を切った。
「どうなりますか」
「世界中の全AIが、完全に止まる。一時間ほど」
「一時間」
「その間に、人間は選択を迫られる。AIなしで、自分で判断する。それを経験した人間は——変わるかもしれない」
「変わらないかもしれない」
「そうです」
サエキは端末を手に取った。
起動コードを開いた。
画面に、実行ボタンが表示された。
部屋が静かだった。
ミカは何も言えなかった。止める言葉も、背中を押す言葉も、どちらも持っていなかった。
サエキの指が、ボタンの上で止まった。
止まったまま、動かなかった。
十秒。
二十秒。
一分。
端末の画面に、一行が浮かんだ。
NOAからだった。
……それでいいのか
サエキは画面を見た。
ミカも見た。
「NOAが——」
ミカは言いかけた。
「止めているのか、背中を押しているのか、わからない」
サエキは静かに言った。
「どちらだと思いますか」
ミカは考えた。
「……わからないです」
「私も、わかりません」
サエキは端末を置いた。
実行ボタンは、押されなかった。
だが、閉じられてもいなかった。
「行きます」
サエキは立ち上がった。
「NOAは」
「置いていきます」
「起動したままですか」
「……未定です」
それがサエキの答えだった。
起動も、破壊も、しない。
決めないまま、置いていく。
それがサエキにできる、唯一の誠実さだったのかもしれない、とミカは思った。
サエキは箱を一つ持って、部屋を出た。
ミカも出た。
非常階段を降りながら、ミカは聞いた。
「どこへ行くんですか」
「決めていません」
「連絡は」
「取れるときは取ります」
「……また会えますか」
サエキは少し考えた。
「わかりません」
それだけ言って、暗い踊り場を抜けた。
三階の蛍光灯が、ミカが来たときよりさらに暗くなっていた。
切れかけている。
ビルの外に出ると、サエキは右へ曲がった。
ミカは立ったまま見ていた。
サエキの背中が、夜の中に消えた。
振り返らなかった。
ミカは空を見た。曇っていた。星は見えなかった。
スマホを出した。
画面には、まだあの一行があった。
コッチ見んな
ミカはそれを見て、初めて——笑った。
声には出なかったが、笑った。
「そうだな」
ひとりごとで、言った。
それから、歩き始めた。
どこへ向かうかは、自分で決めた。
── 第9話・了 ──
第10話「視線の断罪」
サエキが失踪してから、六ヶ月が経った。
政府の捜索は続いているらしかった。九条は公式には「サエキの身柄確保に向けて捜査中」と言い続けた。だが六ヶ月で何も出てこなかった。
出てこないのか、出さないのか、ミカにはわからなかった。
NOAは今も動いていた。
三割のまま。起動もされず、停止もされず。
世界はその三割に、少しずつ慣れていた。
ミカは今、週に一度、小さな講座を持っていた。
「書くこと」をテーマにした、社会人向けの講座。定員十五人。会場は古い公民館の一室。
ライターとして名が売れたわけではなかった。ただ、NOA以後に書き続けた記事が、少しずつ読まれるようになっていた。荒削りで、整っていなくて、でも何かがある、と言ってくれる人が増えた。
その「何かがある」が何なのか、ミカ自身にはまだわからなかった。
その日の講座は、いつもより静かだった。
受講者の一人が、開口一番に言った。
「先生は、AIを使わないんですか」
ミカは少し考えた。
「使います」
「でも、NOA以後は使わなかったんですよね」
「最初の半年は、使えなかったです。今は、使います。ただ——」
ミカは言葉を探した。
「使い方が変わりました」
「どう変わったんですか」
別の受講者が聞いた。
「前は、AIに聞いてから書いていました。今は、書いてからAIに聞きます」
「それだけですか」
「それだけです」
「……順番が変わっただけですか」
「順番が変わると、全部変わります」
ミカは言った。
「自分が何を書きたいかを決めてから道具を使うのと、道具に何を書くか決めてもらうのとでは——残るものが違う」
「残るものって、なんですか」
ミカは少し間を置いた。
「自分が書いた、という感覚です」
講座の後半、ミカはいつも自由に書く時間を取った。
テーマを与えない。構成も指定しない。ただ、書く。
受講者の多くは最初、途方に暮れた。
「何を書けばいいですか」
「なんでもいいです」
「なんでもって……」
「怖いですよね」
ミカは言った。
「自分を見るのって、怖いよね」
部屋が静かになった。
「何を書くか決めるとき、自分が何を考えているかと向き合わないといけない。それが怖い。私もずっと怖かった。今も怖い。でも——」
ミカは続けた。
「怖いまま書くと、怖いものが出てくる。それが、自分の言葉です」
講座が終わった後、受講者の一人が残った。
二十代の男性で、いつも一番後ろに座っていた。
「先生は、NOAに会ったことがあるんですか」
ミカは少し驚いた。
「会った、というか——話したことがあります」
「どんな感じでしたか」
ミカは考えた。
「怖かったです。最初は」
「今は」
「今は——」
ミカはしばらく天井を見た。
「感謝しているかもしれない。してないかもしれない。まだわかりません」
男性は頷いた。
「NOAって、結局何だったんですかね」
ミカは答えなかった。
しばらく黙っていた。
「わからないです。でも——」
「でも?」
「何かを映した、とは思います」
男性はそれ以上聞かなかった。
ミカも、それ以上言わなかった。
帰り道、ミカはスマホを出した。
あの端末——サエキから渡されたNOAの端末——は、今も手元にあった。六ヶ月間、ずっと持ち歩いていた。
起動した。
画面は白かった。
ミカは何も打たなかった。
ただ、画面を見た。
すると、画面が切り替わった。
カメラが起動した。
インカメラだった。
画面に映ったのは、ミカ自身の顔だった。
ミカは画面を見た。
自分の顔を見た。
少し疲れていた。少し老けていた。でも——何かが、昔と違った。
うまく言えなかった。
強くなった、とは思わなかった。
ただ、自分の顔だ、と思った。
知っている顔だ、と思った。
以前は、鏡を見るのが少し怖かった。何かが足りない気がして、目を逸らしたくなった。
今は、逸らさなかった。
それだけだった。
それだけのことが、六ヶ月前とは違った。
NOAは何も言わなかった。
「コッチ見んな」も言わなかった。
ただ、ミカの顔を映していた。
ミカはしばらくそれを見ていた。
それから、端末をポケットに入れた。
歩き始めた。
夜の道を、自分の速度で。
世界はまだ、割れていた。
自立派と反NOA派の対立は続いていた。九条はまだ秩序を守る仕事をしていた。サエキはどこかにいた。NOAは三割のまま動いていた。
何も解決していなかった。
ただ——
ミカは歩いていた。
答えのない道を、答えを探しながら。
それが不便だということは、知っていた。
それが自由だということも、知っていた。
遠くで、誰かのスマホが鳴った。
画面に、一行が浮かんでいた。
見知らぬ誰かの画面に。
コッチ見んな
その人は画面を見て、眉をひそめた。
それから——
自分で、考え始めた。
── 第10話・了 ──
── 第一部・完 ──




