『祈りだけが残った』
私はずっと、教会の中で生きてきた。
高い天井。色とりどりのステンドグラス。
朝になれば祈り、昼には祈り、夜にも祈る。
人々は私を見て言う。
「聖女様」
「神に愛された子」
「この国の希望」
その言葉を聞くたび、私は微笑んだ。そうするように教えられていたから。
けれど、本当のところを言えば――世界を知らなかった。
教会の外に出ることはほとんどない。
街の喧騒も、森の匂いも、遠い国の話も。すべて、本の中の出来事だった。
そんなある日。教会の門が乱暴に開いた。騎士でも司祭でもない。一人の青年だった。
ぼさぼさの髪。使い込まれた剣。どこか呆れたような顔。
彼は私を見て言った。
「……きみが聖女?」
私は頷いた。
「はい。リナリアです」
「よし、俺と魔王倒そうぜ!」
「……はい?」
周りの司祭たちが怒鳴る。
「無礼だぞ!!」
けれど彼は気にしない。むしろ私をまっすぐ見た。
「外、見たことある?」
私は答えられなかった。
彼は少し笑った。
「じゃあさ」
肩をすくめる。
「見に行こうぜ」
それが、マキアとの出会いだった。
◆
教会の外は、想像していたよりもずっと騒がしかった。市場の匂い。人の声。子供の笑い声。
私はきょろきょろしてしまう。
マキアが呆れる。
「観光客かよ」
「だって……」
言葉が見つからない。
空が、こんなに広いなんて知らなかった。風がこんなに強いなんて知らなかった。
「……世界って」
思わず言う。
「こんなに広かったんだね」
「当たり前だろ」
マキアが笑う。
それから私は、彼と旅をした。
森を歩き。魔物と戦い。街を渡り歩く。
彼には既にアネモネという仲間がいたけれど、個人的には仲良くできていたと思う。
怖いことも多かった。初めて魔物を見たとき、私は震えて動けなかった。
その時、マキアが前に出た。剣を振るう。一撃。魔物が倒れる。振り返って言った。
「ほら」
手を差し出す。
「聖女様。立てるか?」
私はその手を握った。温かかった。
それから、少しずつ。私は戦えるようになった。祈りだけじゃない。人を助けるための力。
「お前の魔法、すごいな」
「本当?」
「ああ」
少し笑う。
「仲間にいると安心する」
その言葉が、嬉しかった。
◆
旅は続いた。
たくさん笑った。たくさん戦った。たくさんの人を助けた。新しい仲間も増えた。
教会にいた頃の私はずっと、「聖女様」と呼ばれていた。
朝の祈りが終われば、人々が列を作る。
病気の子供。怪我をした兵士。家族の無事を願う母親。
私はその一人一人に手を差し出す。
祈り、祝福を与える。
「ありがとうございます、聖女様」
感謝の言葉が降り注ぐ。
けれど、そのたびに思っていた。
(私は、本当にこの人たちを救えているのでしょうか)
誰もその疑問を口にしない。
聖女は疑わないものだから。
でも、マキアは違った。
「聖女って大変だな」
「え?」
「みんなの希望なんだろ?」
薪を棒で突く。
「そんなの、重いだろ」
私は少し考えた。教会では誰もそんなことを言わなかった。
聖女は希望であるべきだ。迷ってはいけない。弱音を吐いてはいけない。けれど――
「……少し」
私は小さく言った。
「重いね」
マキアは笑った。
「だろうな」
それだけだった。慰めの言葉も、説教もない。
でも、その言葉が不思議と楽だった。旅の途中。
ある村で、私は子供たちに囲まれた。
「聖女様だ!」
「魔法見せて!」
私は困ってしまう。
するとマキアが後ろから言った。
「こいつな、実は食いしん坊なんだぞ」
「ちょっと!」
抗議すると、子供たちは笑った。
「聖女様でも食べるの?」
「当たり前だろ」
マキアが肩をすくめる。
「人間なんだから」
私は思わず笑った。
教会では、聖女は特別な存在だった。けれど旅では違う。
私はただの一人の人間だった。それが、嬉しかった。
そして、ある夜。
マキアはまだ起きていた気がする。
「先に寝てろ」
そう言っていた。私は安心して眠った。
朝。目が覚めた時、彼のベッドは空だった。
アネモネも既にこの部屋から抜け出していたようだ。
最初は、二人で外にいるのかと思った。でも違った。
アネモネのベッドにだけ温もりが感じられる。なによりマキアだけ荷物もなく、剣もない。
机の上に、小さな紙だけがあった。そこには、短い言葉。
『すぐ戻る』
それだけ。だから私は待った。
1日経った。彼もアネモネも帰ってこない。祈る。
2日経った。マキアは帰ってこず、アネモネは帰ってすぐにまた出て行った。祈る。
3日経った。今日も何も変わらなかった。祈る。
そして届いたのは――知らせだった。
勇者マキア、魔王城で戦死。
私は、言葉が出なかった。
もうマキアに会えない。その現実が私に深くのしかかる。
ただ、祈ることしかできなかった。ずっと。ずっと。祈り続けた。
もし神様がいるなら。どうか。もう一度だけ。
「あの人に会わせてください」




