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動くアルプス  世界ヘビー級王者 プリモ・カルネラ(1906-67)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2026/01/21

カルネラは、アメリカの作家パット・シュールバーグの小説「殴られる男」(1947年)の主人公である巨人ボクサーのモデルと言われる。小説が話題となり、1956年にハンフリー・ボガート主演で映画化された。この小説は私も一読したが、ありきたりの裏社会ものという感じだったので、映画は観ていない。

 北イタリアのセクアルスという片田舎出身のプリモ・カルネラは、生まれた時にすでに八kg近くもあり医者もびっくりしたジャンボベビーだったが、図体が大きくなるわりに骨の成長が遅く子供の頃は身体が弱かったという。

 医者の勧めで十歳頃から生の馬肉を一日一kg食べるようになり筋骨たくましい身体にはなったものの、下に弟が二人おり生活は逼迫する一方だったため、口減らし目的で十四歳の時、家出した。

 十四歳とはいってもすでに一八〇cm八十kgを超える偉丈夫である。北イタリアから南フランスまで放浪しながら、薪割り、荷積み、石工とあらゆる仕事をこなした。巡業中のサーカスからスカウトされた十七歳の時には一九五cmを超えていた。

 サーカスではレスリングの試合を呼び物にしており、カルネラはジョバンニという悪役レスラー役を演じ、最後は善玉にやられてしまうのがお約束だった。ヨーロッパでも稀に見る大男だけに、見世物としてのカルネラの商品価値は高かったが、一九二八年早々に経営悪化によりサーカス団は解散し、カルネラはパリで浮浪者同然になってしまった。

 ところがその立派な体躯に見惚れたポール・ジュルネというパリではちょっと知られたヘビー級ボクサーに公園で声をかけられたことで、人生は一変する。

 ジュルネから紹介された興行師レオン・ゼーは、カルネラを一目見るなり金のなる木であることを確信し、ジュルネの指導でカルネラをボクサーとして売り出すことにした。

 一九二八年九月十二日、カルネラはパリでのデビュー戦を二ラウンドKOで飾った。ジュルネがカルネラにボクシングの手ほどきを始めたのが八月十日のことだから、初めてグローブを手にしてからわずか一ヶ月しか経っていない。

 筋肉がつきすぎて動きこそぎこちないが、長年力仕事に従事してきただけあって、腕力だけはズバ抜けているカルネラは、ゼーがキャリアの浅い相手ばかりを対戦相手に選んでくれたおかげで、デビューから二年で十六勝二敗(十二KO)の好成績を残すことができた。

 二つの敗戦はゴングが鳴った後のパンチなど勇み足的な反則負けに過ぎず、ヘビー級の人材が乏しいフランスではその活躍は大きな話題となった。

 やがてカルネラの強打はニューヨークのプロモーター、ウォルター・フリードマンの目に留まり、一九三〇年からは、本場アメリカに拠点を移す運びとなった。

 「ヨーロッパで大活躍中の動くアルプス」という誇大な触れ込みが功を奏したのか、ニューヨーク市長までがカルネラを出迎えたというから、大変な歓迎ぶりだったようだ。しかも「大物」らしく、渡米第一戦はMSGで行われ、ビッグボーイ・ピーターソンを試合開始のゴングから七十秒で四度も倒す絵に描いたようなKO勝ちで飾っている。

 渡米後一年足らずで二十三連勝(二十二KO)という快進撃で、カルネラはたちまちスターダムにのし上がったが、一九三〇年十月七日に伏兵のジム・マロニーにいいところなく敗れ、大きく評価を下げてしまう。

 この時点でゼーやフリードマン、興行利権を持つギャングらが手を組んで、半八百長でカルネラを集客力を見込めるボクサーに仕立て上げようとしていたことはほぼ間違いない。

 これまでは手ごわそうな相手には試合前にたっぷり脅しをかけて本気を出さないように言い含めておいたのだが、マロニーだけはどうしても首を縦に振らず、本気でカルネラを打ちのめしてしまったのは痛かった。

 七十ポンドも軽い相手から苦もなく捻られたこの一戦で、これまで自分が強いと思い込んでいたカルネラが自信喪失に陥ったため、ギャング達もカルネラのメッキが剥がれるのを怖れ、ひとまずヨーロッパに連れて帰ることにした。

 

 一九三〇年代は今日のような情報社会でない。そのため、惨敗したマロニー戦の詳細をうやむやにしたままアメリカでの素晴らしい戦績だけPRしておけば、ヨーロッパのボクシングファンの関心を呼ぶビッグイベントも可能だった。

 そこでゼーら一味がセットアップした試合が、”バスクの英雄”の異名を取るスペインの強豪パウリノ・ウズクダンとの一戦である。世界王座を狙えるヨーロッパ出身の白人ヘビー級ホープ同士の対決は大変な評判を呼び、一九三〇年十一月三十日、スペインバルセロナのモンジュイック・スタジアムには七万五千人もの観客が集まった。これはスペインのスポーツ史上最大の観客数である。

 試合は最初から波乱含みだった。まず試合前にカルネラがスペイン製のグローブ着用を拒んでひと悶着あり、続いて三名の審判が全員スペイン人だと公平性を欠くという理由で全員が入れ替えられた。

 この間に開始時間はすでに数時間遅れており、観客たちのいらだちもかなり募っていた。

 そして肝心の試合は、地元の大声援の中、ウズクダンが終始カルネラを圧倒したにもかかわらず、結果はカルネラの十ラウンドスプリットでの判定勝ちだった。おそらくカルネラの勝利と採点した二名はギャングたちから袖の下をつかまされていたのだろう。ポイント集計の間に会場から姿をくらましていた。

 収まらないのは観客たちである。スタンドでは怒号が飛び交い、やり場のない怒りにかられた男たちがフーリガンのように大騒ぎを始めた。

 危険を感じたカルネラは慌ててリングの下に潜って事なきを得たが、静かになった頃合いを見てリング下から出てきた時には、あちこちに死体や怪我人が転がる修羅場だった。この乱闘による死傷者は数十名にも及びスペインのスポーツ史上未曾有の惨劇となった。


 再びカルネラがMSGのリングに戻ってきたのは三ヶ月後の一九三一年三月五日のことである。二週間前に肋骨を骨折していたにもかかわらず、前回とはうって変わって物分りの良くなったマロニーの協力?もあってか、見事判定勝ちで復帰戦を飾っている。

 この年、九勝一敗(七KO)の好成績で人気を持ち直したカルネラは、一九三二年にはヨーロッパ、アメリカを股にかけ二十六度もリングに上がる(二十四勝二敗・十八KO)など各地でひっぱりだことなった。不器用なカルネラも、(適度に八百長が組まれていたにせよ)豊富な実戦経験のおかげで、それなりのリングスキルが身についてきた。

 中でも目を見張ったのは、長いリーチを生かしたロングジャブである。スピードはさておき、一発当たれば相手の動きを止めるだけの威力があるため、ジャブを繰り出している限りは、当たらなくても一種の防弾幕となり、フットワークの良いボクサーも不用意に懐に飛び込めなかった。

 一九三三年二月十日、いよいよ世界が視野に入ってきたカルネラの前哨戦として挙行されたアーニー・シャーフ戦は、彼の真の実力を示した生涯のベストバウトであると同時に、その悲劇的な結末においても忘れられない試合となった。

 かつてヘビー級のホープと謳われたシャーフが十三ラウンドにナックアウトされたまま意識が戻らず、三日後に死亡したのである。死因はカルネラのパンチによる頭蓋内出血であったが、同じヘビー級でも両者の体格があまりに違っていたことから、無差別級であるヘビー級の上にカルネラのような超重量級のために別の階級を創設すべきという意見が出たほど、このリング禍の衝撃は大きかった。

 同年、六月二十九日、ついにカルネラは世界チャンピオン、ジャック・シャーキーとの対戦にこぎつけた。シャーキーはシャーフよりさらに軽量だが、二年前の対戦ではカルネラに判定で圧勝しているため、賭け率も三対一で王者有利と見られていた。

 実際、シャーキーの巧みなアウトボクシングの前に鈍重なカルネラのパンチは空を切り続けた。かくして迎えた六ラウンド、楽勝ペースに気が緩んだのか、ロープ際での揉み合いからの離れ際に右アッパーをまともに喰らったシャーキーは、半ば失神状態で前のめりに倒れこみ、そのままカウントアウト。絵に描いたようなワンパンチKOであった。

 それにしても、鮮やかすぎるほどの逆転KO勝利であったうえ、カルネラの周囲には常にギャングの影があったことから八百長説まで飛び出したのは気の毒だった。確かに弱い相手だけを選んでマッチメークすることでうわべだけの好成績を残すことは出来るだろうが、多くのボクシング通や専門家の見守る世界戦で彼らの目をごまかせるほど甘い世界ではない。

 それにヘビー級の世界戦ともなると、当時はファイトマネーだけでも一流大リーガーの年俸の十倍近くに達するうえ、講演や映画出演などの副収入も合わせれば天文学的な稼ぎになることを考えると、ノンタイトル戦ならまだしも、タイトルのかかった試合で社会的ステイタスを含めたこれら全てを失うような話に乗るボクサーなどいようはずがない。

 イタリア人初の世界ヘビー級チャンピオンになったカルネラは、凱旋帰国したローマで、ムッソリーニの大々的な宣伝によって国民的英雄として大歓迎を受けた後、シエナ広場に七万人の観客を集め、ムッソリーニや米大統ルーズベルトの息子が観戦する中、ヨーロッパ選手権者パウリノ・ウズクダンを十五ラウンド判定に下し初防衛に成功(十月二十二日)した。

 この二人の対戦は三年前の因縁の対戦であったことからファン注目の一戦だったが、ウズクダンはすでに落ち目で今回はカルネラの圧勝に終わっている。

 翌一九三四年三月一日、元世界ライトヘビー級チャンピオン、トミー・ラグランの二階級制覇の野望を打ち砕き二度目の防衛(十五ラウンド判定勝ち)を果たしたところまでがカルネラのピークだった。

 同年六月四日、三度目の防衛戦でマックス・ベアに一方的に打ちまくられて十一ラウンドKO負けで王座を失ってからは下り坂で、一九三五年六月二十五日、新鋭ジョー・ルイスに六ラウンドKO負けを喫したのを機に、ギャングたちからも見離なされた。

 ルイスの強打によるダメージが大きく、試合後ロッカールームで横たわって呻くカルネラの傍には誰もついていなかったという。


 一九三七年、母国イタリアに戻ると、翌年、糖尿病に起因する腎臓病が悪化して、腎臓を片方摘出したため、とてもボクシングどころではなくなった。

 第二次世界大戦中はドイツで労務者として重労働に従事するかたわら、ゲリラ活動にも参加していたが、食糧不足のため栄養失調に陥り、戦前は一一八~一三〇kgあった体重が一〇〇kgにまで落ちてしまった。戦後しばらくの間、「カルネラは戦時中ドイツの捕虜となり、家畜同然に扱われていた」というデマが飛んでいたののは、戦後別人のようにやせ衰えた彼を見た人達が勝手に想像したものであろう。

 ギャングに利用されるだけされて役に立たなくなるやボロ雑巾にように捨てられた「リングの道化師」のその後の人生としては、より惨めである方がゴシップネタとしては都合が良いからである。

 だが、人生悪いことばかりではない。長い戦争が終わり、再び平和が訪れると、イタリアに隠棲していたカルネラの元に各国のプロモーターからイベントへの出演依頼が舞い込み始めた。「元世界ヘビー級王者」の肩書きと「動くアルプス」と呼ばれた巨体はショービジネスの世界ではまだ十分に金になると思っていた人々が多かったのである。

 ヨーロッパの戦争が終わった一九四五年七月二十二日には、久々にリングに上がりKO勝ちを収めたが、その後二勝三敗と負けが込むに至って、現役を諦めレフェリーに転身することにした。

 一九四六年、カルネラがレフェリーとしてリングに立つべく体育館に通って身体を鍛え直していたところ、トレーニングの合間にプロレスの真似事をしてリングで相手を投げ飛ばすのを見ていたプロモーターは驚いた。「カルネラはレスラーとしても通用する!」

 それもそのはず、カルネラはプロボクサーになる直前までグレコ・ローマン型のレスリング経験があったのだ。サーカス巡業の出し物としてカルネラは飛び入りの腕自慢たちと力比べの相手をしており、その時にレスリングの練習を積んだらしい。

 一九四六年八月、米国のマットでプロレスラーとして再デビューを果たしたカルネラは、マネージャー兼レスラーのハーディー・クルスカンプの指導の下、メキメキと頭角を現し、レスラー転向から一年後にはメインエベンターとして地方興行のポスターにでかでかと名を連ねるまでになった。

 四十路も過ぎ動きこそスローモーだったが、ボクサー時代より肉体がビルドアップされたぶん、ブレーンバスターなどの力技は並み居る大男たちの中でも傑出しており、ほどなくルー・テーズやバディ・ロジャースとNWAタイトルをかけて闘うほどの人気レスラーになった。

 昭和三十年七月(一九五五年)にはトップレスラーの一人として日本にも来日した。

 蔵前国技館における力道山、東富士組対カルネラ、クルスカンプ組のタッグマッチは大盛況で、空手チョップ対殺人パンチの応酬は、草創期の日本のプロレス界の躍進を支える人気カードの一つとなった。

 カルネラはすでに五十歳前だったが、力道山をグロッギーに追い込むほどパンチ力は強く、怪力を活かした寝技も上手かったためレスラーとしても一流として通用した。そのうえ元ボクシングのヘビー級王者としてヨーロッパ、アメリカで数々のビッグマッチを経験してきただけあって、風格もありリングマナーも紳士的だったので、プリモ・カルネラの名で年間七十万人の観客を動員できた。

 ボクサーとしての技術は拙かったが、元世界ヘビー級チャンピオンという肩書きはイタリア国内では、サッカー選手以上の偶像だった。しかもレスラーとしても一流とくれば、同時代の若者たちにとっては憧れであり目標とするアスリートでもあった。後年、プロレスラーとして一世を風靡したブルーノ・サンマルチノがカルネラを崇拝していたことはよく知られているが、カルネラの選手生活の晩年には若きサンマルチノとメインエベントで激突したこともある。

 レスラーを引退したのは一九六三年だが、その頃アメリカに武者修行にやってきたジャイアント馬場を軽々と担ぎ上げてマットに叩きつけるほど引退直前でもそのパワーは健在だったようだ。

 生前の力道山は、ライバルとしてルー・テーズ、ディック・ハットン、ボボ・ブラジルら歴代の世界王者の名を挙げることが多かったが、無冠のカルネラも同等の評価をしていたという。

 腎臓病で亡くなるまでに数十万ドルの財産を残したと言われ、知名度こそ高くてもギャングたちにいいように利用されたボクサー時代よりも幸福な生活を送ることができたのは幸いだった。

 生涯戦績八十八勝十四敗(七十一KO)














余談だが、カルネラは一九三九年に地元で二十歳の郵便局員と結婚し、一男一女に恵まれたが、夫人はモデルのようにすらっとしており、カルネラと並んだ感じでは一八〇センチ近くはありそうだった。

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