5.吟遊詩人 vs 剣聖
流石は剣聖――剣術はまだ粗いところもあるけれど、その速度と威力、そして身体能力はまさに一流だ。
だが、相手は僕。毎日彼の剣術を観察してきた男である。
リベルランド剣聖流が劣っているわけではない。それは王国一の剣術流派であり、師匠が異世界から持ち込んだ『戦闘狂』の技と比しても、まぎれもなく世界トップクラスだ。
ただ、マシューはまだ若すぎる。そして「剣聖」という天職に頼りすぎている。剣を通じて動かされているようで、一手一手が何だか古めかしく、型に捉われすぎている。
そこに、僕が修めた【玄陰決】による身体強化が加わっている。以前なら反応できなかった身体が、今では僕の意図についてこられるようになってきている。
例えばこの構え。まず顔面を斬ってくる。もしそれを受け止めれば、身体を狙った返し斬り…だが、相手が剣ではないとどうする? 僕の【焦尾琴】は細長い剣ではなく、木板のような形をしている。剣を押さえつけ――前に押し出して――僕が身体をすり抜け、マシューの懐へと飛び込む。
そういう局面で、彼は剣を収めて後退すべきなのに、無理に力任せに返し斬ろうとした。
僕が急に力を抜くと、力を込めすぎていたマシューは前へ倒れこんだ。二歩踏みとどまって体勢を立て直したが、乱戦でこの二歩が致命傷になる。
「くそっ!」
その瞬間、彼は再び僕の【群芳秘譜】の音波を浴びた。
既に五撃目だ。どれだけ剣聖であっても、それには耐えられない。彼は吐血し、ひざまずいた。
「さて、マシュー。なんでここにいるんだ?」
僕が問いかけると、先に口を開いたのはアナだった。
「なにゆえ彼がここに? あの黒衣の者たちと同じなの?」
「たぶん違いますわ。黒衣の連中はたまたま同じような格好をしていたってだけです」
「暗殺用の制服として黒は定番なんですって。血が飛んでも目立たないかららしいです」
僕は三人の会話を静かに遮った。
「マシュー、何人来た? 父上も?」
マシューは僕が【焦尾琴】を構えているのを見て、怖くなって言い返した。
「お前…さっきの技は何だ? たかが吟遊詩人のくせに、どうして勝てるんだ!」
彼は鈍いのかな?
「今は俺が質問してるんだ。お前が答える番だ」
マシューは黙って僕を見つめる。僕がもう我慢できず、次の一撃を構えようとしたとき、ようやく彼が言った。
「いや…俺ひとりだった。父上は、お前がフィレティーノ市の逆方向に向かうと思ってな、アナの父上と一緒に人を率いて追っていったから」
「じゃあ、なんでお前がひとりで?」
「後になって気づいたんだ。お前は父上の言うことは聞かない人間だって。逆方向に向かえば“父上の言うことを聞いた”ことになる。でもお前は、いつも自分の考えで動く。王国を最速で離れる道を選ぶんだ」
「だから、一人で来たのか?」
「もちろんだ。アナは俺の妻だ。俺が連れ戻すのが当然だろう?」
アナはその言葉を聞いて、顔をしかめた。
「結構ですわ。私はあなたなんかいりません」
その一言で、マシューは吐血し、その場に倒れ込んだ。
*
マシューには、どうして自分が負けたのか、まったく理解できなかった。なぜアナは、あんな役立たずについて行くのか――自分を選ばないのか?
アナと最初に会ったのは、自分が三歳のときだった。あのとき、アナは五歳にして、巨大な灰色の熊を一太刀で仕留めた。その姿に、一目で心を奪われたのだ。
だが、あろうことか、そのアナが、あの役立たずの許嫁だと聞かされたとき――マシューは、信じられなかった。同じ五歳でも、アナは熊を倒し、あの役立たずは熊に歌を聞かせようとしていたのだ。「音楽で心を通わせる」とか、意味がわからないことを言って……
マシューが初めて「言葉を失う」という体験をしたのは、その時だった。しかも、アナはその役立たずに向かって、甘やかすようにこう言ったのだ。
「大丈夫よ、ニック。安心してやってみて。私は、ずっとあなたを守ってあげるから。」
アナは、本当に世界一の優しさを持っていた。だが、あんな兄に彼女はもったいない――マシューは、そう思った。だからこそ、心に決めた。彼が代わりになる、と。
あの日から、マシューは誰よりも努力した。
あいつが屋敷でのんびりしている間、自分は毎日走り込んだ。
あいつが小遣いで使用人にプレゼントを買っている間、自分は剣を買って鍛錬した。
あいつが楽器を練習している間、自分は剣を振り続けた。
そうして、マシューはついに剣聖となった。だが、あいつは、いつまでも役立たずのままだった。
――そう、そうだったはずなのに。
なぜ、負けた?
どうして、剣すら握れないあんな相手に、負けるんだ?
あの妙な技は何だったんだ?音で攻撃してきた?魔法でもないのに?接触もしてこなかったくせに……!
あれが吟遊詩人の能力だっていうのか?だったら、なぜ吟遊詩人なんて「外れ職」扱いされてるんだ?
わからない。まったく、わからない……。
父の部下たちが駆けつけるまで、マシューは地面に倒れたまま、ただ空を見上げていた。
悔しさと、そして何より――訳もわからぬまま、呆然としていた。