2.師匠は異世界から来た人
たしか三、四年前のことだった。あの日もいつも通り、俺はエリーを連れて山へ行った。表向きは「琴の練習」のため、人に迷惑をかけないようにという名目で。
実際のところは、人のいない場所で鍛錬したかったんだ。俺はこの家を継ぐつもりなんてなかった。天職が吟遊詩人だと分かった瞬間に態度を急変させた家、母が死んですぐに再婚した父――そんなものに未練はない。でも、独立して生きていくには、ある程度の実力がなければこの世界じゃ生き残れない。魔王も魔物も、どこにでもいるからな。
10歳の時、天職授与の儀式で俺が「吟遊詩人」を得てからというもの、父は俺を見限り、代わりに弟のマシューを鍛え始めた。俺には一切関心を示さなくなった。でも、母が昔語ってくれた「父との冒険者時代」の話を思い出して、俺も冒険者を目指そうと決めたんだ。それでエリーを連れて訓練に励んでいた。
そんなある日、俺の人生を変える人と出会った。その人はどうやら異世界から来た【転移者】らしい。
この世界では、時々【転移者】が現れる。原因は不明。女神の恩寵だとか、世界の変革をもたらす存在だとか、いろんな説がある。中にはこの世界に馴染んで定住する者も多く、彼らは文明にない技術や知識をもたらしてきた。
だが、目の前の転移者は重傷を負っていた。俺は家から持ち出した高級な治療薬でなんとか命をつなぎ止めた。彼は感謝の意として、自分の世界のことをいろいろ話してくれた。
「天職がない世界? ……すごいな! 努力すれば報われるんだろ?」
「はははっ、坊主、お前は甘いな! 人間なんてどこ行っても一緒だよ!」
笑われたけど、俺もつられて笑った。笑っているうちに、その笑顔が少し寂しげに変わっていく。
「でも……こっちよりはマシかもな。俺は毎日鍛錬してるのに、ちっとも強くならない。剣もまともに振れない……」
「そりゃあ、お前が【玄陰体】だからだろうな。体内の【陰】が強すぎるんだ。男ってのは【陽】が必要だからな。お前は最初から不利な体質だよ」
「いん? よう? それって何だ?」
「お前らの世界には【陰陽】の概念がねぇのか。人間の体には【陰】と【陽】があってな、バランスが取れてるのが健康ってやつだ。【陰陽調和】【陰陽互補】って感じでな」
「あっ、それって【聖属性】と【闇属性】のことか? うちの世界には六属性があるんだ。地・風・水・火・聖・闇。エリーは水と火の魔法が使えるんだ。エリー、先生に水魔法を見せてやってくれ」
「了解しました!」
エリーは小さな水球を作り、転移者に差し出した。彼はそれを一口飲むと――
「ぷははははっ!」
大笑いしながら涙を流した。涙には乾ききった血の塊も混ざっていて、白髪にべったりとくっついた。
「アッハッハッハ! 違う違う! お前、ほんとバカで面白いな! ……よし、手伝ってやるよ!」
こうして俺は彼を【師匠】と呼ぶようになった。彼が教えてくれたのは【玄陰決】というスキル。いわゆる【双修】の技で、セックスによって力を高める修行法らしい。
彼の世界には【陰】と【陽】というエネルギーがあり、これは俺たちの光と闇に近いが、完全に同じではない。簡単に混同しないほうがいい。
すべての人間の体には【陰】と【陽】があり、そのバランスが肉体の活動を支えている。人によってその比率は違い、【陰】が多い人もいれば【陽】が多い人もいる。
一般的に、男性には【陽】が多く必要で、女性には【陰】が多く必要。だが【玄陰体】とは、男性なのに【陰】が極端に多く、活動するために必要な【陽】が不足している体質だ。
【玄陰決】は、その体質を持つ者が自ら編み出した技。創始者は天才で、他者との性交渉を通して【陽】を補い、ついには神功を極め、【玄陰宗】という流派を創設した。
【玄陰宗】は魔門六宗のひとつで、宗主以外の門弟はすべて女性。宗主の技は代々一子相伝で継承され、師匠が亡くなった後、俺が新たな【玄陰宗主】となった。
……とはいえ、【玄陰宗】が実際に何をしてる宗派なのかは俺もよくわからない。師匠曰く【魔門】のひとつらしいが、魔王とは関係ない……はず。魔王は一人だけだが、魔門は六つある。……六天王みたいなもん? よく分からん。
まあ、師匠も自分の世界の話はあまりしてくれなかった。たぶん、いろいろ辛いことがあったんだろう。「深く考えるな。やりたいことをやれ」と、そう言われただけだった。
だから俺は【玄陰決】で鍛錬を続けた。ただし、家に頼れる女性はエリーだけだったから、必然的に、毎日彼女と交わることになった。
最初は嫌がっていたが、今ではすっかり夢中になってしまっている。
俺自身も、能力や状態が明らかに向上したと感じている。……ただ、初回以外は伸びが遅いんだけどな。
師匠は俺と出会ってから二年後に亡くなった。正直、あの重傷で二年も生き延びたのはすごい。うちが武門の家で、高級な治療薬が豊富だったおかげだと思う。
彼の傷について聞いたことがあるが、師匠はただ笑って答えなかった。たぶん、過去に何かあったんだろう。
こうして師匠が亡くなったのが俺の十五歳。そして、今日――十六歳になった俺は、ついに家を追い出された。
*
朝、目を覚ますと、エリーが俺の腕を枕にして裸で眠っていた。満ち足りた笑顔を浮かべながら。
それを見て、俺はただ静かに彼女を眺めていた。
「ん……」
「おはよう、エリー」
「おはようございま……って、あああああっ!」
エリーは慌ててベッドから飛び降り、正座して頭を下げた。
「申し訳ありませんご主人様! メイドの身でありながら、主より遅く目覚めるなど……すぐに身支度いたします!」
「いいよ、俺は自分でできるから。もうリベルランド家じゃないんだし」
だが俺の言葉を、彼女はきっぱりと否定した。
「ダメです!」
「……なにがダメなんだよ」
「少なくとも、坊ちゃまは私の【主】です。私、エリーは身も心もすでに坊ちゃまのもの。坊ちゃまに捨てられない限り、ずっとお仕えします」
そう言って、彼女はまっすぐ浴室へ向かった。背筋を伸ばして、ひとつひとつの足取りに迷いがなかった。
支度を終え、宿をチェックアウトして外に出ると――
「ニッちゃん!」「お兄様!」
目の前には、両手を腰に当てて立っているアナとマリア。明らかに俺を殺す気の視線を向けていた。
*
エリー
├ 戦闘メイド
│ ├ 短剣
│ ├ 掃除
│ ├ 侍奉
│ ├ 水魔法(初級)
│ └ 火魔法(初級)
└ 玄陰聖徒《 げんいんせいと》(異)
└ 仙女剣法(異)