1.追放
「ニック……悪いが、家を出て行ってくれないか?」
「……はい」
父の言葉は丁寧だったが、その中身は冷たいものだった。
「本当にすまないな。すでにフィレティーノの市長には話を通してある。あちらで新たな道を探すといい」
「はい……」
「それと、これは……ささやかだが、旅立ちの足しに」
父は皮の袋を俺に渡してきた。ずしりと重く、中には金貨と薬品が入っているようだ。
「我がリベルランド家は剣聖の名門だ。お前に家を継がせるわけにはいかん。かといって、下男や書生、小間使いとして置いておくこともできぬ。……フィレティーノ市はこの国で一番大きな街だ。あそこには私の知人もいる。身を寄せるといい」
「……はい」
「……すまんな。お前は、私の自慢の息子だ」
父は俺を軽く抱きしめた。……たぶん、俺の涙で服を濡らしたくなかったんだろう。本当に形式だけの抱擁だった。せめてもう少し誠意ある演技をしてくれればいいのに。まあ、ここから解放されると思えば、別にいいか。
部屋を出ると、すぐに弟のマシューと鉢合わせた。今日は本当に運が悪いな……
「兄上、もう行かれるのですか? もっと巳長に教えを請いたかったのですが」
わざとらしい顔を見せてくる弟に、俺も愛想笑いで返した。
「そうだ。……君も頑張れよ。譲ってもらったその座にふさわしくなるように」
「もちろんです! 何せ私の天職は“剣聖”。吟遊詩人の兄上とは格が違いますからね」
「……そうか、そうか」
「私も精進します、アナ姉と……」
「アナ……?」
ん? なんか嫌な予感。マシューの顔が一気に崩れて、いやらしい中年男みたいになったと思ったら――
「父上が、デリエー家に縁談を申し込むことを許してくれたんです。十六になったら、アナ姉を娶る予定です!」
アナスタシア・デリエー。俺たちの幼馴染にして、いとこでもある。俺と同い年で、生まれた日もたった一日違い。昔はよく泣く子だったが、今では立派な女騎士だ。天職は【聖騎士】。父はよく、我がリベルランド家の【剣聖】と相性が良いと口にしており、昔から俺と結婚させるつもりだった。
だが――俺の天職が、剣すら持てない【吟遊詩人】だとわかった瞬間、父は俺を見限った。
虐待はされなかったけれど、無視されるようになった。まるでこの家に存在しないかのように。父のそんな態度は使用人たちにも伝染し、誰も俺にまともに接しなくなった。
母が生きていた頃はまだましだった。母は俺たち兄妹四人を、天職や能力で差別することなく、平等に愛してくれた。尊敬すべき母だった。けれど、末の弟妹を産んだ際に体を壊し、その数年後にこの世を去った。
「「おにいちゃーん!」」
「どこ行くの?」
「もう帰ってこないの?」
まだ五歳の双子の弟妹。いつも手をつないで歩いている仲良しコンビ。きっと、何が起きてるか理解していないだろう。
俺は笑って、二人の頭に手を置き、いつものようにぐしゃぐしゃに撫でた。
「「あはははは! やめてよぉお兄ちゃん~!」」
「お兄ちゃんはね、遠くでお仕事なんだ」
「今日の夜には帰ってくる?」
「ううん、帰ってこないよ」
「えっ?」
「やだやだやだーー!」
二人は、父について修行に行く次男よりも俺になついていた。特に母が亡くなってからは、ほぼ俺が面倒を見てきたから。
最後は乳母が二人を抱きかかえ、さらに父が一瞥するとようやく収まった。
こうして、俺は家を出た。
そういえば、あの女……来なかったな。父が連れてきた後妻と、その娘。ま、別に仲が良かったわけでもないし。むしろ“母親”ぶって説教ばかりしてくるところが気に食わなかった。母親のつもりなら、せめて弟妹の面倒くらい自分で見ろよ。全部乳母に押しつけやがって。
……でも、アナが来てくれなかったのは、やっぱり少し寂しい。きっと、あの頑固親父に止められたんだろう。
俺は城門で待っていたエリーと合流し、街を後にした。エリーは俺の専属メイドであり、俺と一緒に出ていく道を選んでくれた。
正直、助かった。何せエリーの戦闘力は俺よりはるかに高いからな。
「ふっ!」
エリーは地を蹴って一気に魔狼に間合いを詰める。両手に持つ短剣――一振りは紅く、もう一振りは青く――それらが左右から一閃、瞬く間に二匹の魔狼を切り伏せた。
さらに跳躍し、残り二匹の突進を避けて着地――その位置は、ちょうど魔狼の背後。次の瞬間、あっという間にそれらも仕留めた。
残る一匹は、俺が仕留めた。
奴が飛びかかってきたとき、俺は琴の弦をひと弾きした。音の波動が魔狼の体内に突き刺さり、大ダメージを与える。空中でバランスを崩した魔狼は地に叩きつけられ、立ち上がろうとするも力尽き、そのまま動かなくなった。
エリーの天職は、メイドの中でも上位職の【護衛メイド】。家事能力に加えて、戦闘系天職のスキルも兼ね備えた者だけが転職できる職だ。掃除もできるし、戦いもこなす。俺にとって、彼女ほど信頼できる存在はいないし、これほど親しい相手もいない。
彼女が使う武器は、異世界から来た伝説級の装備――【坎水離火剣】。
名の通り、水属性の剣と火属性の剣で一対になっている武器で、二本を同時に扱うことで絶大な力を発揮する。水と火の魔法を使えるエリーにとっては、まさにうってつけの武器だ。
そしてようやく、最初の町に到着した。
半日近く歩きっぱなしだったため、足も棒のように疲れていた。
風呂に入って体を清めたあと、寝ようとしていた俺の前に――
全裸のエリーが、風呂場から平然と出てきた。
「エ、エリー……?」
「坊ちゃま、今宵もお休みの支度をいたしましょうか?」
「いや、今日はずっと歩きっぱなしだったし……それに、君の方がよっぽど働いてくれたじゃないか。疲れてるだろ?」
「ふふ、婆様の命令に比べれば、どうということはありません」
エリーが言う「婆様」とは、実家のメイド長のことだ。彼女は子爵夫人で、夫を亡くしたあと、我が家で働くことになった六十代の女性だ。
「……本当に疲れてないのか?」
エリーは微笑みながら、俺の前に正座して言った。
「強くなればなるほど、今後の旅も楽になりますから」
確かに、その通りだ。だから、俺は彼女の申し出を拒まなかった。
*
ニック・リベルランド
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