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第7章

 金曜日の五時間目、古典の授業。

 退屈な古文の活用形が、坊さんの念仏みたいに耳を通り抜けていく。

 窓から差し込む午後の日差しは暖かく、クラスの半分はすでに夢の世界へと旅立っていた。

 俺も、そろそろその仲間入りを果たしそうになった、その時だった。


 ガタン、と小さな物音がした。


 視線を向けると、一番前の席、白石美月が机に突っ伏していた。

 いつもなら、背筋をピンと伸ばして、教科書の一字一句も見逃さないとでもいうように授業を受けている、あの彼女が。


「白石、どうした?」


 先生の声に、クラス全員の視線が彼女に集まる。

 美月はゆっくりと顔を上げた。

 その顔色は、驚くほど真っ青だった。

 額には、脂汗が滲んでいる。


「……いえ、何でもありません」


 気丈にそう答えるが、その声はかすれて、力がなかった。

 完璧な彼女が見せる、初めての弱々しい姿。教室が、ざわめき始める。


「いや、どう見ても大丈夫じゃないだろう。顔色が悪いぞ。保健室に行きなさい」

「ですが、授業が……」

「いいから。誰か、白石を保健室まで連れて行ってやれ」


 そのとき、彼女が、震える指で、まっすぐ俺を指さした。


「……田中くんに、お願い、します……」


 もう、彼女のプライドも限界らしい。

 俺は「はいはい、分かりましたよ」と内心でため息をつきながら、彼女の席へと向かった。


「立てるか?」

「ええ……」


 彼女の肩を支えると、その身体が驚くほど軽いことに気づく。

 そして、華奢だ。いつもは威圧的なオーラで大きく見えるが、こうして触れると、彼女がごく普通の、いや、普通よりずっとか細い女の子なんだと思い知らされる。


 クラスメイトたちの好奇と心配が入り混じった視線を背中に浴びながら、俺は彼女を支え、ゆっくりと教室を後にした。


 保健室のドアには、『会議のため、三十分ほど不在にします』という無慈悲な置き手紙が貼られていた。

 マジかよ。最高のタイミングで、最悪の状況だ。


「先生、いないみたいだな。とりあえず、そこのベッドに」


 俺は、部屋の隅にある白いカーテンで仕切られたベッドへと彼女を促した。

 彼女をゆっくりと横たわらせると、その青白い顔が、なんだか痛々しくて見ていられない。


「はぁ……はぁ……」


 浅い呼吸を繰り返す彼女の額に、そっと手を伸ばそうとした時だった。


「……めがねが……おも、くて……」


 彼女は、か細い声でそう言うと、震える手で自分の眼鏡を外そうとした。

 その仕草を見て、俺の頭の中に、警報が鳴り響く。


「ああ、分かった。俺が預かるよ」


 彼女が外すよりも早く、俺はその黒縁眼鏡を、そっと彼女の顔から取り上げた。

 スイッチを、俺が握る。それは、初めての経験だった。


 眼鏡という名の枷が外れた瞬間、彼女の張り詰めていた表情が、ふわり、と柔らかなものに変わった。

 焦点の合わない、潤んだ瞳が、俺をぼんやりと見上げる。


「ようたくん……」


 とろけるように甘い声が、静かな保健室に響いた。


「わたし、ようたくんに……看病してもらえるなんて……しあわせ、です……」


 彼女は弱々しく微笑むと、ベッドからおずおずと手を伸ばし、俺の制服の裾を、きゅっと掴んだ。

 その仕草が、あまりにも健気で、心臓が変な音を立てる。


「熱、あるんじゃないか?」


 俺は自分を落ち着かせるように、彼女の額にそっと手を当てた。

 思ったより、熱くはない。


「ひゃっ……!」


 俺の手が触れた瞬間、彼女の身体が、ビクッと可愛らしく震えた。


「あ……ようたくんの、お手て……つめたくて、きもちいい、です……」


 彼女はうっとりと目を細めると、もっと強請るように、俺の手に自分の頬をすり寄せてくる。


「もっと……もっと、さわってください……」


 その声は、熱に浮かされたように、吐息混じりだ。

 まずい。このままじゃ、こっちの理性が持たない。


 俺は手を引こうとしたが、彼女は俺の服の裾を掴む力を強め、それを許してはくれなかった。


「あつ、いです……からだが、ようたくんのせいで、へんなの……」

「俺のせいじゃねえだろ!」

「ようたくんが、そばにいるから……ドキドキして、もっと熱くなっちゃう……」


 そう言うと、彼女は、信じられない行動に出た。

 自分のブラウスのボタンに、ゆっくりと指をかけたのだ。 

 一つ、そして、また一つ。


 ボタンが外され、白い生地が開かれていく。

 その奥から現れたのは、昨日図書館で垣間見たのと同じ、繊細なレースに縁取られた、純白の下着。

 そして、彼女の白い肌と、滑らかな胸の谷間が、惜しげもなく晒される。


「ようたくん……」


 彼女は、熱で潤んだ瞳で、俺をまっすぐに見つめた。


「わたし、すごく、あついの……。ようたくんに……涼しくして、もらいたい……です……」


 その言葉と、その光景は、どんな言葉よりも雄弁な、甘い誘惑だった。

 

 静まり返った保健室。消毒液の匂い。

 白いカーテン。二人きりの密室。


 俺の心臓は、今にも張り裂けそうなくらい、激しく脈打っていた。

 目の前の、無防備に全てを晒してくる、美しい少女。

 

 俺はどうすればいい? この誘いに、乗るべきなのか?


 いや、違う。

 俺は、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 混乱する頭を、必死にクリアにする。


 俺は、彼女が掴んでいた俺の裾を優しく解くと、ベッドの脇にあったタオルケットを手に取った。

 そして、彼女の開かれた胸元を隠すように、そっと、その肩までかけてやる。


「え……?」


 きょとん、とした顔で、彼女が俺を見上げた。


「今は、黙って寝てろ」


 俺は、できるだけ穏やかな声で、そう告げた。


「俺が、ここにいてやるから。だから、安心して休め」


 俺の言葉の意味を、彼女はゆっくりと反芻しているようだった。

 やがて、その唇に、ふわり、と花が咲くような、柔らかな笑みが浮かんだ。


 それは、誘惑の笑みじゃない。

 心の底から安心しきった、信頼の笑み。


「……はい、ようたくん」


 彼女はこくんと頷くと、幸せそうに目を閉じた。

 すぐに、すぅ、すぅ、と安らかな寝息が聞こえ始める。


 俺はベッドの脇の椅子に腰を下ろし、彼女の寝顔を、ただ黙って見つめていた。

 もう、パニックも、混乱もなかった。


 ただ、この無防備な少女を、守ってやりたいという、強い想いが胸の奥から込み上げてくる。


 厄介なことに巻き込まれた。そう思っていたはずなのに。

 いつの間にか、俺は、この二つの顔を持つ少女から、目が離せなくなってしまっていた。


「……ちくしょう。完全に、ハマっちまったな」


 俺の小さな呟きは、彼女の穏やかな寝息の中に、そっと溶けて消えていった。

 

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