第5章
俺と白石美月の奇妙な『監視』関係は、静かに続いていた。
まあ、静かなのは表向きだけで、俺の心の中は台風が上陸したみたいに大荒れだったけど。
昨日の放課後の『個人指導』という名の拷問は、俺の精神力をゴリゴリに削り取っていった。
そして今日の昼休み。
俺が購買で買った焼きそばパンにかじりつこうとした、まさにその時だった。
「田中陽太」
背後からかけられた、絶対零度の声。
振り返るまでもない。この学園で、俺をそんな風に呼ぶ人間は一人しかいない。
「…………何の用だよ」
「あなた、来週の風紀委員会の議題資料、目を通したの?」
「いや、まだだけど」
「そうでしょうね。あなたのその鳥類レベルの脳みそでは、議題の重要性など理解できないでしょうから」
相変わらずの罵詈雑言。もう慣れた。
「ついてきなさい。あなたにも分かりやすく、この私が解説してあげるわ。光栄に思いなさい」
有無を言わさぬ物言いで、彼女はくるりと背を向け、歩き出す。
俺の焼きそばパンが、哀れな瞳でこちらを見ている気がした。
さらば、俺の昼飯。
◇
彼女に連れてこられたのは、学園の図書館だった。
古い紙の匂いと、静寂が支配する空間。高い窓から差し込む光が、床に落ちて綺麗な四角形を作っている。
彼女は迷うことなく奥へ奥へと進み、二人掛けの小さな個人閲覧席を陣取った。
壁に囲まれた、半個室のような空間だ。
「さあ、座りなさい」
俺たちが二人で向かい合うには、この机はあまりにも狭すぎた。
分厚い参考資料集が、ドスン、と机の真ん中に置かれる。
「この第三章の、過去の判例データが重要よ。特に…………」
美月はいつものように、完璧で理路整然とした解説を始めた。
だが、今日の彼女は、どこか様子がおかしい。
話すテンポがいつもより、ほんの少しだけ、ゆっくりしている。
時折、言葉が途切れる。
「…………もしかして疲れてるのか?」
「…………疲れる? 私が? 馬鹿なことを言わないで。あなたの相手をするのは、骨が折れるというだけよ」
彼女はそう言って、クイッと眼鏡の位置を直した。
だが、そのまぶたは、明らかに重そうだ。
彼女は毎日日々の生徒会の仕事でかなり遅くまで残っている。
いくら完璧超人の彼女でも、疲れくらいはするんだろう。
そんなことを考えていると、解説を続けていた彼女の声が、ふっと途切れた。
見ると、彼女の頭が、こくり、こくり、と船を漕ぎ始めている。
「…………この判例では、規則の解釈に……相違が…………」
必死に眠気と戦っているようだが、もう限界らしい。
彼女の頭は、ゆっくりと、そして抗いがたく傾いていく。
右に、左に、そして――俺のいる、左側へ。
どさっ。
柔らかい感触と共に、俺の太ももに、確かな重みが加わった。
白石美月が、俺の膝を枕にして、眠りに落ちてしまったのだ。
そして、その拍子に、彼女の顔から黒縁の眼鏡が静かに滑り落ち、カタン、とカーペットの上に小さな音を立てた。
俺は、完全にフリーズした。
すぅ、すぅ、と穏やかな寝息が聞こえる。
眼鏡のないその寝顔は、信じられないくらい無防備で、あどけない。
いつもきつく結ばれている唇は、今は少しだけ緩んでいる。
長いまつ毛が、頬に小さな影を落としていた。
…………なんだこれ。反則だろ。
動けない。動いたら、この天使を起こしてしまう。
俺は硬直したまま、そっと視線を下に向けた。
彼女の身体は、俺に完全に預けられている。
制服のプリーツスカートが、少しだけめくれあがって、その奥にある白い太ももが、すぐそこにあった。
いやいやいや、見ちゃダメだろ俺! 紳士であれ!
俺は慌てて視線を逸らすが、意識すればするほど、その柔らかな重みと、甘い体温が、太ももから全身に伝わってくるようだった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
彼女の長いまつ毛が、ふるりと震えた。
そして、ゆっくりと、そのまぶたが開かれる。
眠たげに潤んだ瞳が、ぼんやりと俺を映した。
「ん…………」
そして、彼女は、とろけるような笑みを浮かべた。
俺が今まで見たことのない、心の底からの、幸せそうな笑み。
「ようたくんの、おひざ…………きもち、いいです…………」
猫が喉を鳴らすような、甘ったるい声。
それは、体育館で遭遇した、天使モードの彼女だった。
俺の脳が、再びショートする。
「ようたくん…………?」
彼女は、俺が固まっているのに気づくと、不思議そうに小首を傾げた。
そして、俺の固まった右手を、自分の両手でそっと包み込む。
柔らかくて、温かい。
「あのね、あたま…………なでなでして、ほしいです…………」
そう言うと、彼女は俺の手を自分の頭へと持っていき、すりすり、と子猫のように頬を寄せた。
シルクのように滑らかな髪の感触が、手のひらに伝わる。
「もっと…………」
彼女はうっとりと目を細め、催促するように、さらにぐりぐりと頭を押し付けてきた。
もうダメだ。俺の理性は、とっくの昔に蒸発していた。
ただ言われるがままに、俺は彼女の柔らかい髪を、おそるおそる撫でていた。
幸せだ。
そう思ってしまった俺は、もう手遅れかもしれない。
その、至福の時間が永遠に続くかと思われた、その時だった。
キー…………。
遠くから、図書館の蔵書整理用カートの、車輪が軋む音が聞こえてきた。
そして、コツ、コツ、という足音。
まずい、司書の先生だ。こっちに来る。
こんな場面を見られたら、一巻の終わりだ!
俺の頭は、一瞬でパニックに陥った。
「起きろ!」
いや、ダメだ。このモードの彼女に何を言っても無駄だ。
こうなったらイチかバチかだ!
俺は床に落ちていた眼鏡を素早く拾い上げると、体育館での再現フィルムのように、彼女の顔へと押し付けた。
「んぅっ!?」
眼鏡が装着された瞬間、彼女の身体がビクッと跳ねた。
うっとりと細められていた瞳が、カッと見開かれる。
甘くとろけていた表情は、一秒もしないうちに、混乱、驚愕、そして絶対零度の怒りへと変わった。
彼女は自分が俺の膝の上で眠っていたという事実を認識すると、顔をカッと赤く染め、スプリング人形のように飛び起きた。
その勢いで、机の上の分厚い参考資料集が床に派手に落下する。
「そこのお二人、静かに願います。何かありましたか?」
ひょこり、と閲覧席の壁から、司書の先生が顔を覗かせた。
「い、いえ! 何でもありません! 私が、不注意で本を落としてしまっただけです!」
彼女は、まるで別人になったかのように、完璧な優等生の笑顔で即答した。
その完璧な取り繕いっぷりに、司書の先生は「そうですか」と頷き、また去っていく。
嵐が去った後、彼女はギリッと奥歯を噛み締め、俺を睨みつけた。
その顔は、羞恥心で今にも爆発しそうだ。
彼女が何かを言おうとした、その時。
キーンコーンカーンコーン。
無情にも、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
彼女は「くっ……!」と悔しそうに唇を噛むと、「この件は、まだ終わっていないわよ……!」と、典型的な捨て台詞を残して、嵐のように図書館を去っていった。
一人残された閲覧席。
俺の太ももには、まだ彼女の温もりが、手のひらには、彼女の髪の感触が、生々しく残っている。
「…………マジで、なんなんだよ…………」
あれは、幻じゃない。
間違いなく、白石美月には、二つの顔がある。
そして俺は、その両方を知ってしまった、唯一の人間らしい。
俺の混乱は、解決するどころか、さらに深い迷宮へと足を踏み入れていた。