表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

第3章

 放課後の教室は、やけに広く感じた。

 

 朝、白石美月から直々に言い渡された罰、一人だけの掃除当番。

 俺は黙々と机を運び、床を掃いていた。


 西日が差し込む窓の外では、部活に励む生徒たちの楽しげな声が聞こえてくる。

 それに比べて俺はなんて有様だ。


 チョークの粉とワックスの匂いが混じった空気の中で、一人ほうきを握りしめる。


「はぁ……」


 思わず、ため息が漏れた。

 疲れているのは、もちろん掃除のせいだけじゃない。

 俺の頭の中では、数時間前の体育館での出来事が、繰り返し再生されていた。


『陽太くん……私、あなたに怒られても仕方ないです……』


 あの潤んだ瞳。甘くか細い声。

 そして、俺の目の前で膝をつこうとした、あの従順な姿。


 あれは本当に、あの白石美月だったのか?


 集団幻覚か何かだったんじゃないだろうか。

 そうでも思わないと、やってられない。だって、あまりにも……。


「……ありえないだろ、普通」


 俺がぶつぶつと独り言を言った、その時だった。


 ガラッ。


 静かに、しかし有無を言わせぬ圧力をもって、教室のドアが開かれた。

 そこに立っていたのは、夕日を背負い、逆光でシルエットになった、一人の女子生徒。


 間違いない。白石美月だ。


「……ご苦労様。まだ終わらないのかしら、その程度の作業が」


 コツ、コツ、と音を立てて、彼女は俺の方へ歩いてくる。

 その表情は、体育館で別れた時と同じ、完璧な氷の仮面。


 さっきまでの俺の悩みなんて、馬鹿らしくなるくらいの、いつもの女王様だ。


「ああ、まあな。一人でやれって言ったのは、そっちだろ」

「口答えをいないでちょうだい。私は、あなたに話があってわざわざ残ってあげたのよ。感謝しなさい」


 美月は俺の目の前で足を止め、俺の目線を捕らえるように、じっと見つめてきた。

 その瞳には、一切の感情が浮かんでいない。

 いや、浮かんでいないように見せている。


「昼間の件よ」

「ああ……」

「もし、あなたが体育館での出来事を一言でも外部に漏らした場合――」


 彼女の声が、一段と低くなる。ぞくり、と背筋に悪寒が走った。


「あなたの学園生活が、二度と日の目を見ることのない、暗く惨めな地獄と化すことを、ここに約束するわ」


 それは、今まで聞いたどんな言葉よりも、本物の脅迫だった。

 彼女なら、本当にやりかねない。

 白石家の権力と、彼女自身の能力があれば、俺一人を社会的に抹殺することなんて、造作もないだろう。


 普通なら、ここで震え上がって「絶対に言いません!」と土下座するところだ。

 でも、俺の口から出たのは、なぜか全然違う言葉だった。


「……別に、誰にも言わないよ」


 俺は持っていたほうきを壁に立てかけると、彼女の目をまっすぐに見返した。


「心配しなくても、言いふらしたりしない。そもそも、俺のガラじゃないしな」

「……何?」

「だから、大丈夫だって。それに……」


 俺は少しだけ笑ってみせた。


「あんたも、人間なんだなって思っただけだから」


 その瞬間だった。


 彼女の完璧な氷の仮面に、ピシッと、小さなヒビが入ったのが見えた。

 大きく見開かれた瞳が、ほんのわずかに揺れる。

 いつもは血の気の感じられない白い頬に、夕日のせいではない、確かな赤みが差した。


「なっ……」


 彼女は何かを言おうとして、口をパクパクさせている。

 あの白石美月が、言葉に詰まっている。その事実に、俺は少しだけ胸がスッとした。


「な、何を、馬鹿なことを……! 私が、人間じゃないとでも思っていたの!?」

「いや、どっちかっていうと、アンドロイドか何かかと」

「なによそれ!」


 慌てて取り繕うように叫ぶ彼女の姿は、なんだか年相応で、少しだけ可愛く見えてしまった。

 まずい。こんなこと思ってるのがバレたら、今度こそ地獄行きだ。


 美月は数秒間、俺を睨みつけたまま固まっていたが、やがて「ふぅー」と長い息を吐いて冷静さを取り戻そうと努めた。

 そして、いつもの癖なのか、クイッと眼鏡の位置を直す。


「……いいでしょう」


 彼女は、まるで新しい結論に達したかのように、宣言した。


「あなたという存在、少し興味が湧いたわ。今日この時から、田中陽太、あなたを私の『特別監視対象』に指定する」

「……はあ?」

「私の徹底した監視下に置かれることを、光栄に思いなさい。あなたの言動、行動、その全てを私が管理してあげる。これで、あなたがくだらない噂を流す心配もなくなるわ。一石二鳥ね」


 何その無茶苦茶な理論。

 それは監視っていうか、ストーキングの予告じゃないのか?


 俺が呆気にとられていると、美月はもう用は済んだとばかりに、すっと背中を向けた。


「そういうことだから。明日の放課後、生徒会室に来なさい。劣等生のあなたに、私が直々に『個人指導』をしてあげる。せいぜい感謝することね」


 一方的にそれだけを告げると、彼女はコツ、コツ、と音を立てて教室から去っていった。

 一人残された教室に、再び静寂が戻る。


 俺は、その場にしばらく立ち尽くしていた。

 脅迫されたはずなのに、恐怖よりも、もっと別の感情が心を占めていた。


 人間なんだなって思っただけ。

 たった一言。その言葉に対する、彼女のあの動揺。


 いつも完璧な鎧で身を固めている彼女の、ほんの少しだけ見えた、素顔。


「特別監視対象、ね……」


 なんだか、とんでもないことに巻き込まれた気がする。

 でも、不思議と嫌な気はしなかった。


 怖いだけの女王様。

 そう思っていたはずなのに、今はもう、彼女が一体どんな人間なのか、知りたくてたまらなくなっている。


 俺の退屈だった高校生活は、どうやら今日、終わりを告げたらしい。

 そして、最高に面倒で、予測不能な毎日が、今まさに始まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ