第2章
四時間目は体育。
じっとりとした汗が肌に張り付く感覚が気持ち悪い。
体育館に充満する湿気と男子高校生の汗の匂い、そして床を擦るバッシュの甲高い音が、俺の気だるさに拍車をかけていた。
「おい田中、ボーッとすんな!」
「お、おう!」
チームメイトの声に我に返り、俺はバレーボールを手に取った。
隣のコートでは、女子が同じようにゲーム形式の練習をしている。
ちらりと視線を向けると、案の定、白石美月が女王様然としてコートに君臨していた。
味方がミスすれば冷たい視線で射抜き、自らは寸分の狂いもないレシーブでボールをセッターに返す。
完璧だ。完璧すぎて、ちょっと引くレベルだ。
「相変わらずだな、あの人……」
俺はぼそりと呟き、意識を自分のコートに戻した。
よし、いっちょ気合入れて打ってやるか。
俺はボールを高く放り上げ、全身のバネを使って思いっきり腕を振り抜いた。
「うおりゃあっ!」
――ゴスッ。
鈍い音が響く。
ヤバい、俺の手のひらが、あらぬ角度でボールの側面を捉えてしまった!
しまった、と思った瞬間にはもう遅い。
ボールは無回転のまま、ありえない軌道を描いて隣の女子コートへと一直線に飛んでいく。
まるで、意志を持っているかのように。
体育館の時間が、スローモーションになる。
クラスメイトたちの驚きの表情。
ボールの影が床を滑る。
そしてその先にいたのは――後衛で完璧なポジションについていた、白石美月。
「ベシッ!」
情けない音が、やけにクリアに体育館に響き渡った。
俺の渾身のサーブ(失敗作)は、見事に彼女の顔面を捉えたのだ。
そして、綺麗な放物線を描いて宙を舞う、黒縁の眼鏡。
カシャン、と軽い音を立てて、それは体育館の床に落ちた。
シン…………。
あれだけ騒がしかった体育館が、一瞬で静寂に包まれる。
男子も女子も、体育教師でさえも、全員の動きが止まった。
視線の先はただ一点。
顔を押さえてうずくまる、白石美月。
終わった。本気でそう思った。
朝の「教育環境の汚染」発言がまだ記憶に新しい。
今度は物理的に顔面を汚染しちまったんだ。
俺は急いで彼女のもとに駆け寄った。
誰もが固唾を飲んで見守る中、美月がゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
眼鏡のない彼女の素顔。
いつもは鋭い光を放っている瞳は、今は潤んで大きく見開かれている。
長いまつ毛が震え、不安げに揺れる瞳は、まるで迷子の子犬のようだ。
シャープな印象は完全に消え去り、そこにはただ、守ってやりたくなるような、儚げで可憐な美少女がいるだけだった。
え、誰だこの子。ていうか、白石さん、こんなに可愛かったのか……?
俺を含め、その場にいた全員が思考停止に陥る中、彼女の桜色の唇が、か細く震えながら開かれた。
「陽太くん…………」
……ようた、くん?
今、俺の名前を呼んだか? しかも、「くん」付けで?
「私、あなたに怒られても仕方ないです…………。ごめんなさい……」
声が、甘い。とろけるように甘く、そして弱々しい。
上目遣いで俺を見つめるその瞳からは、ポロリ、と一筋の涙がこぼれ落ちた。
体育館の空気が、凍りついた。
いや、沸騰したのか? もはや分からない。
クラスメイトたちは、口をあんぐりと開けたまま、石像のように固まっている。
この天使は一体誰なんだ? 彼女はふらりとした足取りで立ち上がると、俺の方へとおずおずと歩み寄ってきた。
「ご、ごめんなさい…………私が、ちゃんとよけられなかったから…………。陽太くんに、嫌な思いをさせちゃいましたよね…………?」
「い、いや、俺が……」
「お願いです。陽太くんに、謝らせてください…………」
そう言うと、彼女は俺の目の前で、すとん、と両膝を床につこうとした。
その動きで、少し大きめの体操服の襟元がざっくりと開き、純白のブラジャーの繊細なレースが、俺の目に飛び込んでくる。
「ちょ、ちょ、待て待て待てっ!」
俺はパニックの頂点で叫んでいた。
本能的に彼女の肩を掴んで膝をつくのを止めさせると、床に落ちていた眼鏡をひったくるように拾い上げた。
そして、半ば強引に、彼女の顔に押し付けるようにしてかけさせる。
「えっ……?」
眼鏡をかけた瞬間、彼女の瞳に、見慣れた鋭い光が宿った。
潤んだ瞳は一瞬で乾き、甘くか細かった雰囲気は、絶対零度のオーラへと変わる。
彼女は自分が膝をつきかけていることに気づき、ハッと目を見開いた。
一瞬の混乱。そして、全てを理解したかのように、彼女の顔が羞恥と怒りで真っ赤に染まっていく。
美月は素早く立ち上がると、体操服の乱れを神経質に直し、俺を殺さんばかりの勢いで睨みつけた。
「…………今のは見なかったことにしなさい、この下等生物」
いつもの、白石美月だ。
彼女は吐き捨てるようにそう言うと、固まったままのクラスメイトたちを鋭い視線で一瞥し、背筋を伸ばして女子コートの自分のポジションへと戻っていった。
その完璧な立ち居振る舞いは、さっきの天使のような姿が幻だったのだと、俺たちに思い知らせるようだった。
体育教師が「お、おう!続けるぞ!」と声を張り上げるが、体育館はまだ異様な雰囲気に包まれたままだ。
俺は、自分の手を見つめていた。
さっき彼女の肩に触れた感触が、まだ生々しく残っている。
鼻腔の奥には、彼女の髪から香った、シャンプーの甘い匂いがこびりついていた。
そして何より、俺の脳裏に焼き付いて離れないのは、あの潤んだ瞳。
冷酷な女王様と、従順な天使。
一体、どっちが本当の白石月なんだ?
「…………何なんだよ、今の…………」
俺の口から漏れた呟きは、誰に聞かれることもなく、まだざわめきの残る体育館の空気に溶けていった。