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第1章

「やっべ、マジで遅刻じゃん」


 九月だというのにアスファルトを焦がすような日差しの中、俺、田中陽太は私立聖華学園の校門をギリギリで滑り込んだ。

 母さん、起こしてくれって言ったのに。

 まあ、二度寝した俺が百パーセント悪いんだけど。


 教室のドアをそっと開けると、そこはまるで時が止まったかのような静寂に包まれていた。

 シーン、という効果音が聞こえてきそうなほどだ。


 窓から差し込む光が、空気中のホコリをキラキラと照らし出している。

 夏休み気分が抜けきらない生徒たちの浮ついた喧騒はどこにもない。


 その代わりに、教室全体を支配しているのは、張り詰めた緊張感。

 その中心に、彼女はいた。


「――以上が生徒会からの連絡事項です。もっとも、ここにいる無能な下等生物たちには、一度で理解するのは難しいかもしれませんが」


 教壇に立つ一人の女子生徒。

 腰まで伸びた艶やかな黒髪をきっちりとまとめ、汚れ一つない制服に身を包んでいる。

 そして、その知的な顔立ちをシャープに縁取る、黒縁の眼鏡。


 白石美月。


 俺たちのクラスの委員長にして、生徒会副会長。

 成績は常に学年トップ、スポーツ万能、おまけに実家は地域の名士という、神様がスペックを盛りすぎた完璧超人。

 

 そして、その完璧さに比例するかのように、性格は冷酷無比。彼女の言葉は絶対であり、逆らう者は学園のもくずと消える。

 そんな都市伝説がまことしやかに囁かれるほどの、絶対女王様だ。


 俺は息を殺し、忍者のように抜き足差し足で自分の席へ向かう。

 あと三歩、二歩、一歩……。


「待ちなさい」


 氷点下の声が、俺の背中に突き刺さった。

 あ、終わった。俺の平和な一日は、開始五分で終了を告げた。


 ゆっくりと振り返ると、美月は俺を値踏みするように、細い顎を少し上げて見下ろしていた。

 眼鏡の奥の瞳が、獲物を捉えた肉食獣のように細められる。


「田中陽太」

「は、はい」

「今は何時か分かっているのかしら。あなたのその空っぽの頭でも、時計くらいは読めるわよね?」

「ええと、八時四十五分……です」

「始業は何時?」

「八時四十……分です」

「そう。五分もの遅刻。この貴重な学びの時間を、あなたは自らの怠惰によって五分も無駄にした。それはあなた個人の問題に留まらないわ」


 美月はそこで一度言葉を切り、人差し指でクイッと眼鏡の位置を直した。

 彼女がよくやる仕草だ。

 まるで、世界の歪みを修正するかのように。


「あなたのそのだらしない存在そのものが、この神聖な教室の空気を淀ませ、他の生徒たちの学習意欲を削ぐ。いわば、教育環境の汚染よ」


 教育環境の汚染!

 すげえパワーワードが飛び出した。

 俺は放射性物質か何かかよ。

 

 クラスメイトたちの視線が痛い。

 「あーあ、田中またやられてるよ」「こっち見んなよ、とばっちり食うだろ」みたいな声が聞こえてきそうだ。

 

 誰も助けてはくれない。

 当たり前だ。この女王様に逆らって、いいことなんて一つもないんだから。


「弁解は?」

「……ぐうの音も出ません」

「そう。反省しているなら、その無様な姿をこれ以上晒さないで、さっさと席に着きなさい。ただし、今日の掃除当番はあなた一人でやってもらうわ。いいね?」

「はい……」


 俺が力なく頷くと、美月は「ふん」と鼻を鳴らして教壇から降り、自分の席へと戻っていく。

 その完璧な姿勢、一切の無駄がない歩き方。

 まるで精密機械みたいだ。


 俺は自分の席に着くと、どっと疲れた体で机に突っ伏した。

 まったく、朝から最悪だ。

 

 でも、なぜだろう。

 

 ただ怖いだけのはずなのに。

 彼女の冷たい声も、見下すような視線も、心底腹が立つはずなのに。


 さっき、俺を叱責していた時の彼女の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。


 完璧な氷の仮面。その下に、ほんの一瞬だけ。

 本当に、瞬きするほどの僅かな時間だけ、何か別の色がよぎった気がしたんだ。


 それは怒りでも、侮蔑でもない。

 もっとこう、疲れているような、あるいは、何かを必死にこらえているような……。


 いや、ないない。気のせいだろ。

 あの白石美月が疲れるなんて、天変地異の前触れだ。


 ちょうどその時、担任の先生がガラガラとドアを開けて入ってきた。


「ホームルーム始めるぞー。席に着けー」


 気の抜けた声で、教室の緊張がふっと緩む。

 美月はもう、何事もなかったかのようにすまし顔で教科書の準備を始めている。

 その完璧な横顔を盗み見ながら、俺は小さくため息をついた。


 怖い。間違いなく怖い女だ。

 でも、なぜか目が離せない。


 あの氷の仮面の下に隠された、ほんの一瞬の揺らぎ。

 俺だけが気づいた、小さな違和感。

 

 それが一体何なのか、無性に知りたくなってしまっている自分がいた。

 

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