午後4時、月の光
短編です!
その日、ちょうどキャディに工具を置いたところだった。
車のエンジンも止まっていて、工場の空気がすっと止まった午後4時。
何か、違和感があった。そうだ、流しっぱなしにしているラジオ。いつもこの時間に、タイトルは知らないがお気に入りのピアノ曲が聞こえてくるはず。
ラジオは沈黙したまま。私はため息を吐いた。直すのは車だけにしてくれ。
……と思ったその時。
工場の裏手から、かすかにピアノの音が聞こえてきた。
ピアノ、弾いてる人いたんだ。
いつもは気付かなかった生の音に、私は聞き入っていた。
今の仕事を早く終わらせたから、次の予定まで15分ある。
少しくらい、サボってもいいよね?
私は工場を出た。ピアノの音がする方へ歩いていく。そこは、地域の公民館だった。
辿り着いたところで、ちょうど曲が終わった。私はがっくり肩を落とし、工場へ帰ろうとした。
「ねぇ!」
その声に、私はびくっとした。振り返ってみると、公民館の窓が開いていた。そこから女性が顔を覗かせている。長い茶色の髪に、はつらつとした明るい笑顔。
「あたしのピアノ、聴きに来たの?」
彼女が嬉しそうに言った。
私は否定しようと思ったが、すぐに思い直して答える。
「はい。そこで働いてるんですけど…素敵なピアノが聞こえたから」
素直に言って、なんだか恥ずかしくなった。
「嬉しい〜!ねぇ、もっと聞いていく?あ…もしかしてお仕事中?」
彼女は私の服装を見て、気を遣ってくれた。私は頷く。
「そうなんです。あの…また来てもいいですか?」
彼女は私の提案に、目を輝かせる。
「もちろん!明日…日曜日もいるよ!」
「じゃあ、良かったらお昼休み、12時すぎくらいにいいですか?」
「うん!待ってるよ、田中さん!」
「はい、では明日」
私はそう言ってその場を離れた。
そういえば名前を呼ばれたと思ったら、名札を付けっぱなしだった。私は彼女の名前を知らないのに。
明日は彼女の名前を聞こう。
その日は仕事中、ソワソワしっぱなしだった。
同僚に「なんかいいことあった?」と聞かれたから、「新しい友達できた」と答えておいた。
午前の仕事は早く終わらせて、お昼休み。
私はコンビニで買ったパンを持って、公民館へ向かった。
古い公民館だ。扉は横開き。ガラガラと音を立てると、中から人の足音が聞こえてきた。
「田中さーん!来てくれたんだ」
彼女だ。明るい笑顔で、手を差し出してくる。
「靴はそこの棚に置いて。ほら、早く!」
「はい…失礼します」
私はおずおずと靴を脱ぎ、棚へ入れた。そして彼女の手を取ろうとして、自分の手の汚れが気になった。
「私、整備士だから…汚いよ。上がっていいのかな?」
私の言葉で、彼女は私を頭から爪先までジロジロ見てきた。そしてグーサインを作る。
「セーフ!さ、おいで」
「ありがとうございます…」
私は彼女に案内され、奥へ進んでいく。そして、冷たいフローリングの部屋に案内された。何もない部屋に、どんと大きなピアノが置いてある。学校でしか見たこと無いやつ。
「ごめんね、座布団もなくて。ね、何が聞きたい?」
彼女はさっそく弾く気満々らしい。私はふと思い出す。
「あの、お名前を聞いても?」
彼女はハッとして答える。
「斎藤玲奈。名前で呼ばれるのが好きだから、レナって呼んでくれる?」
下の名前で呼ぶのには少し抵抗を感じたが、私は勇気を出す。
「レナさん。私は、田中美夢です」
一応、私もフルネームを名乗っておく。するとレナさんは嬉しそうにする。
「美夢ちゃんね〜!よろしく」
いきなり名前にちゃん付け…。私は少し気圧されながら、「よろしくお願いします」と答えた。
レナさんは、ピアノの前に座った。私はそれを見て、壁にもたれて座る。
「失敗しても怒らないでね?」
そう言うレナさんの前で、私はパンの袋を開けていた。
「怒るわけないですよ」
「約束ね!じゃ、昨日の曲いくね」
パンを一口かじる。同時に、レナさんの指がピアノに置かれる。その瞬間、空気が変わった。
毎日聴いているメロディ。だけど、側で聞くと違う感じがする。旋律の中に感情があるような。
ふと思い出して、パンを咀嚼する。
飲み込んだ所で、ちょうど1番盛り上がる場面へ。
鳥肌が立った。
レナさんの必死さ、そして悲しさ。それが一気に流れ込んでくる。レナさんが旋律に込めている全てが、私にも伝わってくる。
彼女は明るさの裏に、何か隠している。
余韻を残し、曲が終わる。音が途切れ、無音になる。外から風が流れ込んできて、レナさんの髪を揺らした。
「どう?」
レナさんの声で、私はハッと我に返る。
「す、すごかった…!いつも聞いてる曲なのに、全然違う感じ」
私の言葉に、レナさんは嬉しそうにクスクス笑う。
「ありがと!じゃあもう一曲弾いちゃおうかなぁ〜」
「ありがとうございます…」
私はピアノを聴きながら、ゆっくりパンを食べた。
レナさんが弾く曲。素敵だが、やっぱり最初のが好きだ。
曲が終わった所で、私はレナさんに話しかける。
「最初の曲、何ていうんですか?」
「あれ?月の光、だよ」
「そうなんだ…」
確かに、落ち着くメロディだった。月の光、タイトルにも納得だ。
「あたしね、保育士になりたくて、短大に通ってたの。だからこんな曲も弾ける!」
レナさんは突然、キラキラ星を弾き始めた。私は笑ってしまう。
「かわいいね」
「えっ?」
レナさんは、弾くのをやめてしまう。私は慌てて弁解する。
「あ、ごめんなさい、余計なこと言いました?」
「ち、違うよ!ごめんね」
レナさんは手で顔を隠し、深く息を吸って、吐く。そして、小さな声で言う。
「次は、土曜日…。またお昼休みに来てくれる?」
「いいんですか?ぜひ」
「ふふ、嬉しい。待ってる」
レナさんの言葉は、心の底から嬉しいとでも言うようだった。
彼女の微かに赤くなった頬に気づかないフリをして、私は工場へ戻った。
それから、土日はレナさんのピアノを聴く日になっていた。
その日、日曜日も公民館へ行き、レナさんのピアノを聴き、無事午後の仕事も終えた。
同僚とお喋りしながら帰り支度をしていると、ふと店舗の外にレナさんの姿を見つけた。
「あれ?レナさんだ」
私が気づくと、レナさんはぱっと笑顔になって手を振ってきた。私は同僚に「お疲れ様」と言い、レナさんの元へ駆け寄っていく。
どうしたんだろう。何かあったんだろうか。
「どうしたんですか?」
私が聞くと、レナさんは言いづらそうに、言う。
「あー…っとね…」
その様子に、私はイタズラしたくなる。
「会いたかったんですか?」
「そう!そうなの…迷惑だった?」
レナさんはいつもと違って、私の様子を伺う素振りを見せた。
私はそんなレナさんに可愛らしさを感じて、微笑んでみせる。
「そんなことないですよ。私もゆっくり話してみたかったですし」
レナさんに会う時は、いつも公民館で、いつもピアノを弾いていたから。レナさん自身と話せる機会に、私はわくわくしていた。
レナさんも嬉しそうに笑う。
「良かった!ねぇ、これから空いてる?ご飯一緒に食べようよ」
「はい、ぜひ」
私たちは、近くのチェーン店に入った。日曜日ということもあり、人は多め。
レナさんはメニューを見ながら言う。
「お酒もあるけど、飲む?」
私は首を横に振る。
「車で通勤してるので…」
「そっかぁ。でもあたしは飲んじゃおうかな」
レナさんはおどけたように笑った。私も合わせて笑う。
レナさんはビールを頼み、私はジュースを頼んだ。それをお互い手に持って、グラスを合わせる。
「かんぱぁい」
「かんぱい…」
ちょっと照れる。
「うーー、休日もビールはうまいわぁ」
「あはは、意外です」
私がそう言うと、レナさんが食いついてくる。
「意外と言うと!?」
私は控えめに答える。
「あの、雰囲気てきに…カシオレとかいくのかなと」
そう言うと、レナさんは声を上げて笑う。
「あはははっ、あたしそういう雰囲気なんだ」
「はい、見た目は」
レナさんはフワフワで可愛い感じだと思う。ピアノを弾くと大人っぽくなるけど。
そうだ、と私は思いつく。私はレナさんのことをよく知らないのでは。
「レナさん、仕事は何してるんですか?保育士目指してたって聞きましたけど」
「あー、そうなの。新卒で保育士になったんだ」
レナさんは言いづらそうにモジモジしてから続ける。
「いやー、大変で大変で。3カ月で辞めてさ、今は事務職」
「そうなんですか…」
私は甘いジュースを飲んだ。
「美夢ちゃんは?ずっと整備士?」
「はい。専門出て、それからずっとですね」
レナさんは嬉しそうに手を合わせる。
「すごーい!周り男の子ばっかりだったんじゃない?」
「はは、そうですね」
確かに、学校も職場も男性が多い。
レナさんはニコニコしながら聞いてくる。
「彼氏とかは?」
「え、いないですよ」
答えると、レナさんの顔がぱっと明るくなった、気がした。私は少し照れてしまって、運ばれてきた料理を口に入れる。
「レナさんは…?」
「いないよぉ」
レナさんも料理を口に運んでいる。なんとなく、その唇に目がいってしまう。
私は自分の反応に戸惑いながら、言葉を紡ぐ。
「うそ、めっちゃいそう」
「なんでぇー?」
レナさんは、心なしか嬉しそうだ。
「だって…可愛いですし」
そう、自分で言って顔が熱くなるのを感じた。
「ありがと!美夢ちゃんもかわいいよ?」
ドキッとする。なんで?分からない。
「あ、ありがとうございます…」
そういえば、なんで今日は会いに来てくれたんだっけ。会いたいって、言ってくれたっけ…。
私は少し、勇気を出してみることにする。
「レナさん、連絡先、交換しませんか?」
レナさんとお出かけしてみたい。
一緒にいて楽しいし、それに、レナさんのことをもっと知りたい。それと、自分のこの気持ちが何なのかも。
しかし問題があった。休日が合わない。
私の休みは火、水曜日。レナさんは土日。来月有給を取ろうか悩んでいると、レナさんの方から連絡があった。
『次の火曜日休み取れたよ!』
合わせてくれるなんて、嬉しい。
本格的なピアノも聴いてみたら?というレナさんの提案で、市民ホールで開催されるプロの演奏会へ行くことになった。
演奏会なんて、行くのは初めてだ。私は服装に気を遣いつつ、緊張して待ち合わせ場所へ向かった。
レナさんは、白いワンピースを着ていた。シンプルだが、レナさんが着るとよく似合うと思った。茶色い髪が、私を見てふわりと揺れる。
「美夢ちゃーん!」
「レナさん、おまたせしました」
「やーん可愛い〜!」
そう言われて、私は自分の体を見下ろす。
「そ、そうですか?」
嬉しいけど、恥ずかしい。そういえば、レナさんの前ではいつも仕事着かラフな格好だった気がする。
「うん!なんでも似合うね。元がいいからかな?」
からかうようなレナさんの視線に、顔が熱くなる。それを隠すために、私はそっぽを向いた。
「もうホール、入れるのかな?」
「うん?そうだね、もう開いてるかも」
私はレナさんに着いていき、市民ホールへ入っていく。レナさんは慣れた感じだ。私はレナさんにくっついて揺れているキーホルダーみたい。
レナさんが当たり前のように受付でチケットを2枚渡す。私はそれを見て慌ててレナさんに話しかける。
「お金…!いるんですか?」
レナさんはにっこり笑って手を横に振る。
「実は知り合いの子なの。もらったから、大丈夫だよ」
「そっ、そうなんですか…」
プロのピアノ演奏者が知り合い…。音楽をやっていると、そういうこともあるんだろうか。
私は少し緊張しながら、ホールへ入った。余裕のあるレナさんに先導され、席に着く。
ホールにはすでに数人の観客がいた。私たちの後からも続々と人が入ってくる。けっこう有名な人なんだろうか。
私、場違いじゃないかな…。
不安に思ってレナさんの様子を伺うと、ばちっと目が合った。レナさんは微笑むと、口の横に手を当てて、小声で話しかけてくる。
「楽しみ?」
「楽しみだけど…いつ出てく____」
ブーーーーッと開演の音が鳴る。私がビクッとしたのを見て、レナさんは「ふふっ」と笑った。
ステージが開き、男性が出てくる。あれがレナさんの知り合いか…。
拍手が鳴り響き、やがて止む。そして、演奏が始まった。
一つの楽器から鳴らされる音。抑揚があって、荘厳さもある。髪の先がチリチリするような時もあれば、腹の底に響くような時もある。
演奏会は、あっという間だった。
終わって、みんな帰っていく。座ったままの私を、レナさんが覗き込む。
「良かったみたいね?」
嬉しそうな、寂しそうな。どうしてそんな顔をするんだろう。
「うん、すごいね」
私は素直な感想を漏らした。
レナさんは少し俯いたが、すぐにぱっと笑顔になった。
「この後ね、バーで打ち上げがあるの。良かったら一緒にこない?」
私はびっくりしてレナさんを見る。
「さっきの人?」
「うん。実は、大学の同級生なんだ。サークルが一緒でさ」
私は手を握り合わせ、考える。
「私…他人だし…、浮いちゃうよ」
するとレナさんは「えー」と唇を尖らせる。
「来てよ〜お願い!ね?」
「うーん…分かった」
そんなに言われると断れない。私は渋々了承した。
その打ち上げは、確かに近くのバーで行われた。バーは貸し切りで、恐らくレナさんの大学仲間が集まっていた。
やっぱり浮いてるよー!
私はレナさんに助けを求めるが、レナさんは他の人とお喋りしている。私は仕方なく、お酒をチビチビ飲んでおつまみを食べていた。
皆お酒が回ってきた頃、バーの隅にあったピアノに誰かが座った。演奏が始まり、皆で聴き入り、終わると拍手と声援が飛ぶ。
私はカウンターに座って見ていたが、徐々に楽しくなってきていた。
ピアノが、代わる代わる演奏されていく。聴き比べるとみんな違うものだと感心した。
レナさんはいつ弾くんだろう。そう思って彼女を見ると、目が合った。
レナさんは私に向かってウィンクし、ピアノへ向かった。私はそれを、目で追う。
演奏が始まる。静かな曲だった。午後4時に聴いていたあの曲。最近は昼間に聴いていた曲。レナさんの感情が聞こえてくるような…。
しかし、今回は違う。ただ繊細で、無機質。私は「あれ?」と思ってレナさんを見る。レナさんはまるでそれが当たり前のように、ただピアノを弾いていた。
突然、レナさんが人形のように見えた。それに戸惑っているうちに、演奏が終わった。
拍手に、声援。私は、それに混ざることができなかった。
レナさんは演奏が終わると、私の方へ近づいてきた。
「ごめんね、前半放ったらかしちゃって」
私は首を横に振る。
「ううん、皆の演奏聴けて楽しいよ」
また、他の人がピアノに座っていた。
「そっか、良かった」
ピアノが鳴る。私たちの間には、沈黙。
5分ほどの演奏が終わるまで、私もレナさんも、口を開かなかった。
「帰ろっか」
ふと、レナさんが言った。私は頷き、盛り上がっている店内から出る。
「良かったの?」
私が聞くと、レナさんは微笑む。
「いいの!それよりさ、彼の演奏、どうだった?」
どちらともなく歩き出し、帰り道を辿る。
「ホールで演奏してた人のこと?」
「うん」
「すごかったよ。プロだなーって」
「あたしの…!」
レナさんは不意に大きな声を出し、すぐに落ち着いて言い直す。
「あたしの、演奏は?」
私は、素直な感想を伝えることにした。
「レナさんは、いつもはすごく素敵なのに、バーではあんまり…」
「あー…、うん。そうなんだよね…」
落ち込んだようなレナさんの言い方に、私は慌ててフォローを入れる。
「全然、ヘタって意味じゃないですよ!」
レナさんは困ったように笑う。
「言いたいこと、分かるよ。そうなの。あたし、人前だとただ弾いてるだけになっちゃう。叙情的に弾けるのは1人の時だけ……あと、美夢の前だけ」
「え?」
思わぬ所で名前が出てきて、私は目をぱちくりさせてレナさんを見た。レナさんはまた困ったように笑った。
「だからね、プロは無理だったんだ…」
レナさんのその声は、ひどく寂しそうだった。
励ましたいけれど、どうしたらいいか分からない。私はただ無言で、レナさんの隣を歩いていた。
「嬉しかったんだよ?あたしのピアノ、また聞きたいって言ってくれて」
レナさんの手が、私の手を取る。少し冷たくて、柔らかくて、細い指。
「美夢ちゃん…」
呼ばれて、レナさんの方を見る。同時に、彼女は、私の唇に押し付けるような口づけをした。
「え…」
呆気に取られているうちに、レナさんはぷいとそっぽを向いてしまう。
「ごめんなさい」
「あ、えっと…」
「忘れて!」
何か言わなきゃと言葉を探しているうちに、ピシャリと遮られてしまった。
それでも、何か言わなきゃ。そう思えば思うほど、言葉がつっかえて出てこない。
歩いている感覚も、よく分からなくなってきた。今どのへん?もう、別れてしまう?
「美夢ちゃん、またね」
ずっと無言だったくせに、レナさんは何もなかったように明るく言った。
「うん、またね」
あぁ、私はなんて腑抜けだ。
結局、そのまま別れてしまった。次の約束も、いつ会えるかも確認しないまま。
私の頭の中はもう、レナさんでいっぱいになっていた。
あれから。レナさんは、公民館に来なくなった。
ドキドキしながら開けた公民館のドア、いつもの匂い、そして、いつものピアノ。しかしそこに、レナさんの姿だけが見当たらなかった。
最初の内は毎回期待していた。ちょっと体調を崩しただけじゃないか?次は会えるんじゃないか、と。でも回数を重ねるうちに、その希望は無くなった。
思ったより、辛かった。まるで心に穴が空いたよう。この表現がしっくりくる。
工場のラジオは上司がブツクサ言いながら直してくれた。午後4時、『月の光』を聴きながら、私は今日も働いている。
「まだ夕焼けなんですけど」
曲のタイトルを思い出し、私は独り言でツッコミを入れる。
目の前には、オイル漏れ修理中のエンジン。もうほぼ終わっているから、少し休憩することにした。
事務室の椅子に座っていると、店長が何か言いたそうな顔で近づいてくる。
「なんですか?」
「試乗予約、田中さんをご指名なんだけど、大丈夫?知り合いかな?」
私は身を乗り出す。
「誰ですか?」
「斎藤玲奈さん」
一瞬、頭が真っ白になった。私は慌てて返事をする。
「はい!友達です。試乗いけます」
「良かった。不審者かと思ってさ〜」
店長は笑顔でその場を去っていく。
私の心臓は、ドキドキと脈打っていた。
なんで?どうして?何のために?
あのキスの意味、聞いてもいいのかな…。
しばらく悶々とした後、私は立ち上がる。考えても仕方ない。仕事しよう。
試乗予約は、次の土曜日だ。私はその日まで、ずっとソワソワしないといけなかった。
目の前の仕事にいくら集中しても、ずっと頭の隅にレナさんがいた。
レナさんの笑顔ばかり思い出す。会えると思うと嬉しくて仕方がない。この感情は、きっと恋と呼ぶべきだ。
そして、いよいよ、土曜日を迎えた。
レナさんは徒歩でご来店予定だ。まずはお客様として出迎えなければ。
そんな仕事の考えは、レナさんを見て吹き飛んだ。
レナさんは、私を見つけて、いつものように笑った。
「久しぶり!元気してた?」
私は嬉しさでいっぱいになりながら、彼女に触れたいという気持ちをぐっと堪えた。
「はい。レナさんこそ、元気でした?」
「うん。ごめんね。やっぱり、ちゃんと話したくて。美夢ちゃんの仕事利用しちゃった」
レナさんは肩をすくめて見せた。私はそれを可愛いと思いつつ、仕事モードに切り替える。
「では試乗、行きましょうか。まずは店内で借用書を…」
「はーい!」
レナさんは私を見てニコニコしながら着いてくる。
店内で借用書を書いてもらうとき、彼女の個人情報が目に入った。なるべく見ないようにそれを事務所に置いて、いよいよ私たちは車内で2人きりになった。
「ここにスタートスイッチがあります。EV車だからエンジンはかからなくて…」
「ほー!すごいね!」
レナさんは純粋に楽しんでいるようだ。私は全然集中できないというのに。
「…説明はこのくらいです。出られそうですか?」
道路を指さすと、レナさんはキラキラした目で頷いた。
「わぁ、大きい車なのにけっこう視界いいんだね!」
ゆっくり、レナさんは車を発進させる。
EV車特有の音がして、車が動き出した。
道路を走ってしばらくした頃、レナさんが口を開く。
「あの日…ごめんね。無理やりキスして」
私は突然核心を突かれ、頭が真っ白になってしまう。心臓がバクバクして、上手く言葉が出てこない。
レナさんが続ける。
「あたし…実は女の子が好きなの。それで、美夢ちゃんのこと好きになっちゃったみたい」
レナさんの真っ直ぐな告白に、私も答えようとする。
「私も___」
「ごめんね!気持ち悪いよね…!あたし、ホントは前から知ってたの、女の子で整備士さんがいるなって、かっこいいなって。ほんと気持ち悪いよね」
レナさんはまくし立てるように一気に話した。口の挟みようもなく、私はただレナさんの言葉を受け止める。
「あたし、あの日すごく嫌だった。美夢ちゃんが他の人の演奏褒めるんだもん、物凄く嫉妬した」
レナさんの声は、震えていた。きっと泣いていると思う。私はあえて、レナさんの方は見なかった。
「反省してる。ごめん。でも会いたくて…会いに来ちゃった…」
ぐすっと、鼻をすする音。私はレナさんの告白が一段落したのを見計らって口を開いた。
「私も、好きです」
「………………。えぇ!?」
車が大きく揺れる。レナさんが慌ててハンドルを握り直した。車が安定したところで、私は再び口を開く。
「好きです、レナさんのこと」
私は真っ直ぐレナさんを見た。彼女は運転中で前を見なければいけない。顔を逸らせない状況で、彼女の顔は真っ赤になっていた。
「うそうそ!やだ、ほんとだよね!?」
レナさんの慌てっぷりに、私は一気に緊張がほぐれるのを感じた。
「本当です。いきなり会えなくなって、辛かったですよ」
自分でも驚くくらい、嬉しそうな声が出た。体から力が抜けて、車のシートにもたれかかる。
「えー!やばぁ、今ちょー幸せ!キスしていい?」
レナさんの言葉に、私は一瞬息の仕方を忘れ、気づいたら咳き込んでいた。
「う、げほっ、ご、ごめんなさ、げほ」
「え!ごめんごめん!でもそんな嫌がらなくていいじゃん!」
そういうわけじゃなくて…。と言おうとしたが、咳に邪魔される。
落ち着いた所で、試乗ルートを帰る方向にするようレナさんに伝えた。
レナさんは満面の笑顔で、最後にこう言った。
「今日仕事終わったら、公民館来て!定時で上がってね!」
私も笑顔で手を振った。
仕事が終わると、さっそく公民館へ。横開きのドアをガラガラと開け、靴を脱ぎ、棚へ入れ、中へ入っていく。
ピアノの音色が鳴る。音に惹かれるように部屋に入ると、大きな黒いピアノの前に、彼女は座っていた。
もう日は落ちて、月明かりになっていた。
月に照らされた彼女の演奏は、神秘的だった。奏でる一音一音が、心の奥に伝う。
余韻を残し、演奏が終わる。
私はレナさんに近づき、隣に跪く。
「レナさん、私と、お付き合いしてくれませんか?」
レナさんは座ったまま、嬉しそうに笑顔を弾けさせる。
「喜んで!プロポーズみたい。嬉しい」
私はにっこり微笑む。そして、ゆっくり立ち上がった。
今度は、私から。
レナさんの頬に手を添え、少し顎を持ち上げる。レナさんは、期待と嬉しさが入り混じった表情をしていた。艶めかしいその顔を、私は一生忘れないことにした。
身をかがめ、ゆっくり唇と唇を重ねる。熱くて、柔らかい感触に、心の奥が疼くように震えた。
惜しむように唇を離す。レナさんと見つめ合う。
「愛してます」
こぼれ落ちるように、私は呟いていた。レナさんは涙目になり、がばっと抱きついてくる。
「あたしも!」
めでたしめでたし!お付き合いありがとうございました。