表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

午後4時、月の光

作者: 紅輪

短編です!

 その日、ちょうどキャディに工具を置いたところだった。

 車のエンジンも止まっていて、工場の空気がすっと止まった午後4時。

 何か、違和感があった。そうだ、流しっぱなしにしているラジオ。いつもこの時間に、タイトルは知らないがお気に入りのピアノ曲が聞こえてくるはず。

 ラジオは沈黙したまま。私はため息を吐いた。直すのは車だけにしてくれ。

 ……と思ったその時。

 工場の裏手から、かすかにピアノの音が聞こえてきた。

 ピアノ、弾いてる人いたんだ。

 いつもは気付かなかった生の音に、私は聞き入っていた。

 今の仕事を早く終わらせたから、次の予定まで15分ある。

 少しくらい、サボってもいいよね?

 私は工場を出た。ピアノの音がする方へ歩いていく。そこは、地域の公民館だった。

 辿り着いたところで、ちょうど曲が終わった。私はがっくり肩を落とし、工場へ帰ろうとした。

 「ねぇ!」

 その声に、私はびくっとした。振り返ってみると、公民館の窓が開いていた。そこから女性が顔を覗かせている。長い茶色の髪に、はつらつとした明るい笑顔。

 「あたしのピアノ、聴きに来たの?」

 彼女が嬉しそうに言った。

 私は否定しようと思ったが、すぐに思い直して答える。

 「はい。そこで働いてるんですけど…素敵なピアノが聞こえたから」

 素直に言って、なんだか恥ずかしくなった。

 「嬉しい〜!ねぇ、もっと聞いていく?あ…もしかしてお仕事中?」

 彼女は私の服装を見て、気を遣ってくれた。私は頷く。

 「そうなんです。あの…また来てもいいですか?」

 彼女は私の提案に、目を輝かせる。

 「もちろん!明日…日曜日もいるよ!」

 「じゃあ、良かったらお昼休み、12時すぎくらいにいいですか?」

 「うん!待ってるよ、田中さん!」

 「はい、では明日」

 私はそう言ってその場を離れた。

 そういえば名前を呼ばれたと思ったら、名札を付けっぱなしだった。私は彼女の名前を知らないのに。

 明日は彼女の名前を聞こう。


 その日は仕事中、ソワソワしっぱなしだった。

 同僚に「なんかいいことあった?」と聞かれたから、「新しい友達できた」と答えておいた。

 午前の仕事は早く終わらせて、お昼休み。

 私はコンビニで買ったパンを持って、公民館へ向かった。

 古い公民館だ。扉は横開き。ガラガラと音を立てると、中から人の足音が聞こえてきた。

 「田中さーん!来てくれたんだ」

 彼女だ。明るい笑顔で、手を差し出してくる。

 「靴はそこの棚に置いて。ほら、早く!」

 「はい…失礼します」

 私はおずおずと靴を脱ぎ、棚へ入れた。そして彼女の手を取ろうとして、自分の手の汚れが気になった。

 「私、整備士だから…汚いよ。上がっていいのかな?」

 私の言葉で、彼女は私を頭から爪先までジロジロ見てきた。そしてグーサインを作る。

 「セーフ!さ、おいで」

 「ありがとうございます…」

 私は彼女に案内され、奥へ進んでいく。そして、冷たいフローリングの部屋に案内された。何もない部屋に、どんと大きなピアノが置いてある。学校でしか見たこと無いやつ。

 「ごめんね、座布団もなくて。ね、何が聞きたい?」

 彼女はさっそく弾く気満々らしい。私はふと思い出す。

 「あの、お名前を聞いても?」

 彼女はハッとして答える。

 「斎藤玲奈。名前で呼ばれるのが好きだから、レナって呼んでくれる?」

 下の名前で呼ぶのには少し抵抗を感じたが、私は勇気を出す。

 「レナさん。私は、田中美夢です」

 一応、私もフルネームを名乗っておく。するとレナさんは嬉しそうにする。

 「美夢ちゃんね〜!よろしく」

 いきなり名前にちゃん付け…。私は少し気圧されながら、「よろしくお願いします」と答えた。

 レナさんは、ピアノの前に座った。私はそれを見て、壁にもたれて座る。

 「失敗しても怒らないでね?」

 そう言うレナさんの前で、私はパンの袋を開けていた。

 「怒るわけないですよ」

 「約束ね!じゃ、昨日の曲いくね」

 パンを一口かじる。同時に、レナさんの指がピアノに置かれる。その瞬間、空気が変わった。

 毎日聴いているメロディ。だけど、側で聞くと違う感じがする。旋律の中に感情があるような。

 ふと思い出して、パンを咀嚼する。

 飲み込んだ所で、ちょうど1番盛り上がる場面へ。

 鳥肌が立った。

 レナさんの必死さ、そして悲しさ。それが一気に流れ込んでくる。レナさんが旋律に込めている全てが、私にも伝わってくる。

 彼女は明るさの裏に、何か隠している。

 余韻を残し、曲が終わる。音が途切れ、無音になる。外から風が流れ込んできて、レナさんの髪を揺らした。

 「どう?」

 レナさんの声で、私はハッと我に返る。

 「す、すごかった…!いつも聞いてる曲なのに、全然違う感じ」

 私の言葉に、レナさんは嬉しそうにクスクス笑う。

 「ありがと!じゃあもう一曲弾いちゃおうかなぁ〜」

 「ありがとうございます…」

 私はピアノを聴きながら、ゆっくりパンを食べた。

 レナさんが弾く曲。素敵だが、やっぱり最初のが好きだ。

 曲が終わった所で、私はレナさんに話しかける。

 「最初の曲、何ていうんですか?」

 「あれ?月の光、だよ」

 「そうなんだ…」

 確かに、落ち着くメロディだった。月の光、タイトルにも納得だ。

 「あたしね、保育士になりたくて、短大に通ってたの。だからこんな曲も弾ける!」

 レナさんは突然、キラキラ星を弾き始めた。私は笑ってしまう。

 「かわいいね」

 「えっ?」

 レナさんは、弾くのをやめてしまう。私は慌てて弁解する。

 「あ、ごめんなさい、余計なこと言いました?」

 「ち、違うよ!ごめんね」

 レナさんは手で顔を隠し、深く息を吸って、吐く。そして、小さな声で言う。

 「次は、土曜日…。またお昼休みに来てくれる?」

 「いいんですか?ぜひ」

 「ふふ、嬉しい。待ってる」

 レナさんの言葉は、心の底から嬉しいとでも言うようだった。

 彼女の微かに赤くなった頬に気づかないフリをして、私は工場へ戻った。


 それから、土日はレナさんのピアノを聴く日になっていた。

 その日、日曜日も公民館へ行き、レナさんのピアノを聴き、無事午後の仕事も終えた。

 同僚とお喋りしながら帰り支度をしていると、ふと店舗の外にレナさんの姿を見つけた。

 「あれ?レナさんだ」

 私が気づくと、レナさんはぱっと笑顔になって手を振ってきた。私は同僚に「お疲れ様」と言い、レナさんの元へ駆け寄っていく。

 どうしたんだろう。何かあったんだろうか。

 「どうしたんですか?」

 私が聞くと、レナさんは言いづらそうに、言う。

 「あー…っとね…」

 その様子に、私はイタズラしたくなる。

 「会いたかったんですか?」

 「そう!そうなの…迷惑だった?」

 レナさんはいつもと違って、私の様子を伺う素振りを見せた。

 私はそんなレナさんに可愛らしさを感じて、微笑んでみせる。

 「そんなことないですよ。私もゆっくり話してみたかったですし」

 レナさんに会う時は、いつも公民館で、いつもピアノを弾いていたから。レナさん自身と話せる機会に、私はわくわくしていた。

 レナさんも嬉しそうに笑う。

 「良かった!ねぇ、これから空いてる?ご飯一緒に食べようよ」

 「はい、ぜひ」

 私たちは、近くのチェーン店に入った。日曜日ということもあり、人は多め。

 レナさんはメニューを見ながら言う。

 「お酒もあるけど、飲む?」

 私は首を横に振る。

 「車で通勤してるので…」

 「そっかぁ。でもあたしは飲んじゃおうかな」

 レナさんはおどけたように笑った。私も合わせて笑う。

 レナさんはビールを頼み、私はジュースを頼んだ。それをお互い手に持って、グラスを合わせる。

 「かんぱぁい」

 「かんぱい…」

 ちょっと照れる。

 「うーー、休日もビールはうまいわぁ」

 「あはは、意外です」

 私がそう言うと、レナさんが食いついてくる。

 「意外と言うと!?」

 私は控えめに答える。

 「あの、雰囲気てきに…カシオレとかいくのかなと」

 そう言うと、レナさんは声を上げて笑う。

 「あはははっ、あたしそういう雰囲気なんだ」

 「はい、見た目は」

 レナさんはフワフワで可愛い感じだと思う。ピアノを弾くと大人っぽくなるけど。

 そうだ、と私は思いつく。私はレナさんのことをよく知らないのでは。

 「レナさん、仕事は何してるんですか?保育士目指してたって聞きましたけど」 

 「あー、そうなの。新卒で保育士になったんだ」

 レナさんは言いづらそうにモジモジしてから続ける。

 「いやー、大変で大変で。3カ月で辞めてさ、今は事務職」

 「そうなんですか…」

 私は甘いジュースを飲んだ。

 「美夢ちゃんは?ずっと整備士?」

 「はい。専門出て、それからずっとですね」

 レナさんは嬉しそうに手を合わせる。

 「すごーい!周り男の子ばっかりだったんじゃない?」

 「はは、そうですね」

 確かに、学校も職場も男性が多い。

 レナさんはニコニコしながら聞いてくる。

 「彼氏とかは?」

 「え、いないですよ」

 答えると、レナさんの顔がぱっと明るくなった、気がした。私は少し照れてしまって、運ばれてきた料理を口に入れる。

 「レナさんは…?」

 「いないよぉ」

 レナさんも料理を口に運んでいる。なんとなく、その唇に目がいってしまう。

 私は自分の反応に戸惑いながら、言葉を紡ぐ。

 「うそ、めっちゃいそう」

 「なんでぇー?」

 レナさんは、心なしか嬉しそうだ。

 「だって…可愛いですし」

 そう、自分で言って顔が熱くなるのを感じた。

 「ありがと!美夢ちゃんもかわいいよ?」

 ドキッとする。なんで?分からない。

 「あ、ありがとうございます…」

 そういえば、なんで今日は会いに来てくれたんだっけ。会いたいって、言ってくれたっけ…。

 私は少し、勇気を出してみることにする。

 「レナさん、連絡先、交換しませんか?」


 レナさんとお出かけしてみたい。

 一緒にいて楽しいし、それに、レナさんのことをもっと知りたい。それと、自分のこの気持ちが何なのかも。

 しかし問題があった。休日が合わない。

 私の休みは火、水曜日。レナさんは土日。来月有給を取ろうか悩んでいると、レナさんの方から連絡があった。

 『次の火曜日休み取れたよ!』

 合わせてくれるなんて、嬉しい。

 本格的なピアノも聴いてみたら?というレナさんの提案で、市民ホールで開催されるプロの演奏会へ行くことになった。

 演奏会なんて、行くのは初めてだ。私は服装に気を遣いつつ、緊張して待ち合わせ場所へ向かった。

 レナさんは、白いワンピースを着ていた。シンプルだが、レナさんが着るとよく似合うと思った。茶色い髪が、私を見てふわりと揺れる。

 「美夢ちゃーん!」

 「レナさん、おまたせしました」

 「やーん可愛い〜!」

 そう言われて、私は自分の体を見下ろす。

 「そ、そうですか?」

 嬉しいけど、恥ずかしい。そういえば、レナさんの前ではいつも仕事着かラフな格好だった気がする。

 「うん!なんでも似合うね。元がいいからかな?」

 からかうようなレナさんの視線に、顔が熱くなる。それを隠すために、私はそっぽを向いた。

 「もうホール、入れるのかな?」

 「うん?そうだね、もう開いてるかも」

 私はレナさんに着いていき、市民ホールへ入っていく。レナさんは慣れた感じだ。私はレナさんにくっついて揺れているキーホルダーみたい。

 レナさんが当たり前のように受付でチケットを2枚渡す。私はそれを見て慌ててレナさんに話しかける。

 「お金…!いるんですか?」

 レナさんはにっこり笑って手を横に振る。

 「実は知り合いの子なの。もらったから、大丈夫だよ」

 「そっ、そうなんですか…」

 プロのピアノ演奏者が知り合い…。音楽をやっていると、そういうこともあるんだろうか。

 私は少し緊張しながら、ホールへ入った。余裕のあるレナさんに先導され、席に着く。

 ホールにはすでに数人の観客がいた。私たちの後からも続々と人が入ってくる。けっこう有名な人なんだろうか。

 私、場違いじゃないかな…。

 不安に思ってレナさんの様子を伺うと、ばちっと目が合った。レナさんは微笑むと、口の横に手を当てて、小声で話しかけてくる。

 「楽しみ?」

 「楽しみだけど…いつ出てく____」

 ブーーーーッと開演の音が鳴る。私がビクッとしたのを見て、レナさんは「ふふっ」と笑った。

 ステージが開き、男性が出てくる。あれがレナさんの知り合いか…。

 拍手が鳴り響き、やがて止む。そして、演奏が始まった。

 一つの楽器から鳴らされる音。抑揚があって、荘厳さもある。髪の先がチリチリするような時もあれば、腹の底に響くような時もある。

 演奏会は、あっという間だった。

 終わって、みんな帰っていく。座ったままの私を、レナさんが覗き込む。

 「良かったみたいね?」

 嬉しそうな、寂しそうな。どうしてそんな顔をするんだろう。

 「うん、すごいね」

 私は素直な感想を漏らした。

 レナさんは少し俯いたが、すぐにぱっと笑顔になった。

 「この後ね、バーで打ち上げがあるの。良かったら一緒にこない?」

 私はびっくりしてレナさんを見る。

 「さっきの人?」

 「うん。実は、大学の同級生なんだ。サークルが一緒でさ」

 私は手を握り合わせ、考える。

 「私…他人だし…、浮いちゃうよ」

 するとレナさんは「えー」と唇を尖らせる。

 「来てよ〜お願い!ね?」

 「うーん…分かった」

 そんなに言われると断れない。私は渋々了承した。

 その打ち上げは、確かに近くのバーで行われた。バーは貸し切りで、恐らくレナさんの大学仲間が集まっていた。

 やっぱり浮いてるよー!

 私はレナさんに助けを求めるが、レナさんは他の人とお喋りしている。私は仕方なく、お酒をチビチビ飲んでおつまみを食べていた。

 皆お酒が回ってきた頃、バーの隅にあったピアノに誰かが座った。演奏が始まり、皆で聴き入り、終わると拍手と声援が飛ぶ。

 私はカウンターに座って見ていたが、徐々に楽しくなってきていた。

 ピアノが、代わる代わる演奏されていく。聴き比べるとみんな違うものだと感心した。

 レナさんはいつ弾くんだろう。そう思って彼女を見ると、目が合った。

 レナさんは私に向かってウィンクし、ピアノへ向かった。私はそれを、目で追う。

 演奏が始まる。静かな曲だった。午後4時に聴いていたあの曲。最近は昼間に聴いていた曲。レナさんの感情が聞こえてくるような…。

 しかし、今回は違う。ただ繊細で、無機質。私は「あれ?」と思ってレナさんを見る。レナさんはまるでそれが当たり前のように、ただピアノを弾いていた。

 突然、レナさんが人形のように見えた。それに戸惑っているうちに、演奏が終わった。

 拍手に、声援。私は、それに混ざることができなかった。

 レナさんは演奏が終わると、私の方へ近づいてきた。

 「ごめんね、前半放ったらかしちゃって」

 私は首を横に振る。

 「ううん、皆の演奏聴けて楽しいよ」

 また、他の人がピアノに座っていた。

 「そっか、良かった」

 ピアノが鳴る。私たちの間には、沈黙。

 5分ほどの演奏が終わるまで、私もレナさんも、口を開かなかった。

 「帰ろっか」

 ふと、レナさんが言った。私は頷き、盛り上がっている店内から出る。

 「良かったの?」

 私が聞くと、レナさんは微笑む。

 「いいの!それよりさ、彼の演奏、どうだった?」

 どちらともなく歩き出し、帰り道を辿る。

 「ホールで演奏してた人のこと?」

 「うん」

 「すごかったよ。プロだなーって」

 「あたしの…!」

 レナさんは不意に大きな声を出し、すぐに落ち着いて言い直す。

 「あたしの、演奏は?」

 私は、素直な感想を伝えることにした。

 「レナさんは、いつもはすごく素敵なのに、バーではあんまり…」

 「あー…、うん。そうなんだよね…」

 落ち込んだようなレナさんの言い方に、私は慌ててフォローを入れる。

 「全然、ヘタって意味じゃないですよ!」

 レナさんは困ったように笑う。

 「言いたいこと、分かるよ。そうなの。あたし、人前だとただ弾いてるだけになっちゃう。叙情的に弾けるのは1人の時だけ……あと、美夢の前だけ」

 「え?」

 思わぬ所で名前が出てきて、私は目をぱちくりさせてレナさんを見た。レナさんはまた困ったように笑った。

 「だからね、プロは無理だったんだ…」

 レナさんのその声は、ひどく寂しそうだった。

 励ましたいけれど、どうしたらいいか分からない。私はただ無言で、レナさんの隣を歩いていた。

 「嬉しかったんだよ?あたしのピアノ、また聞きたいって言ってくれて」

 レナさんの手が、私の手を取る。少し冷たくて、柔らかくて、細い指。

 「美夢ちゃん…」

 呼ばれて、レナさんの方を見る。同時に、彼女は、私の唇に押し付けるような口づけをした。

 「え…」

 呆気に取られているうちに、レナさんはぷいとそっぽを向いてしまう。

 「ごめんなさい」

 「あ、えっと…」

 「忘れて!」

 何か言わなきゃと言葉を探しているうちに、ピシャリと遮られてしまった。

 それでも、何か言わなきゃ。そう思えば思うほど、言葉がつっかえて出てこない。

 歩いている感覚も、よく分からなくなってきた。今どのへん?もう、別れてしまう?

 「美夢ちゃん、またね」

 ずっと無言だったくせに、レナさんは何もなかったように明るく言った。

 「うん、またね」

 あぁ、私はなんて腑抜けだ。

 結局、そのまま別れてしまった。次の約束も、いつ会えるかも確認しないまま。

 私の頭の中はもう、レナさんでいっぱいになっていた。



 あれから。レナさんは、公民館に来なくなった。

 ドキドキしながら開けた公民館のドア、いつもの匂い、そして、いつものピアノ。しかしそこに、レナさんの姿だけが見当たらなかった。

 最初の内は毎回期待していた。ちょっと体調を崩しただけじゃないか?次は会えるんじゃないか、と。でも回数を重ねるうちに、その希望は無くなった。

 思ったより、辛かった。まるで心に穴が空いたよう。この表現がしっくりくる。

 工場のラジオは上司がブツクサ言いながら直してくれた。午後4時、『月の光』を聴きながら、私は今日も働いている。

 「まだ夕焼けなんですけど」

 曲のタイトルを思い出し、私は独り言でツッコミを入れる。

 目の前には、オイル漏れ修理中のエンジン。もうほぼ終わっているから、少し休憩することにした。

 事務室の椅子に座っていると、店長が何か言いたそうな顔で近づいてくる。

 「なんですか?」

 「試乗予約、田中さんをご指名なんだけど、大丈夫?知り合いかな?」

 私は身を乗り出す。

 「誰ですか?」

 「斎藤玲奈さん」

 一瞬、頭が真っ白になった。私は慌てて返事をする。

 「はい!友達です。試乗いけます」

 「良かった。不審者かと思ってさ〜」

 店長は笑顔でその場を去っていく。

 私の心臓は、ドキドキと脈打っていた。

 なんで?どうして?何のために?

 あのキスの意味、聞いてもいいのかな…。

 しばらく悶々とした後、私は立ち上がる。考えても仕方ない。仕事しよう。

 試乗予約は、次の土曜日だ。私はその日まで、ずっとソワソワしないといけなかった。

 目の前の仕事にいくら集中しても、ずっと頭の隅にレナさんがいた。

 レナさんの笑顔ばかり思い出す。会えると思うと嬉しくて仕方がない。この感情は、きっと恋と呼ぶべきだ。

 そして、いよいよ、土曜日を迎えた。

 レナさんは徒歩でご来店予定だ。まずはお客様として出迎えなければ。

 そんな仕事の考えは、レナさんを見て吹き飛んだ。

 レナさんは、私を見つけて、いつものように笑った。

 「久しぶり!元気してた?」

 私は嬉しさでいっぱいになりながら、彼女に触れたいという気持ちをぐっと堪えた。

 「はい。レナさんこそ、元気でした?」

 「うん。ごめんね。やっぱり、ちゃんと話したくて。美夢ちゃんの仕事利用しちゃった」

 レナさんは肩をすくめて見せた。私はそれを可愛いと思いつつ、仕事モードに切り替える。

 「では試乗、行きましょうか。まずは店内で借用書を…」

 「はーい!」

 レナさんは私を見てニコニコしながら着いてくる。

 店内で借用書を書いてもらうとき、彼女の個人情報が目に入った。なるべく見ないようにそれを事務所に置いて、いよいよ私たちは車内で2人きりになった。

 「ここにスタートスイッチがあります。EV車だからエンジンはかからなくて…」

 「ほー!すごいね!」

 レナさんは純粋に楽しんでいるようだ。私は全然集中できないというのに。

 「…説明はこのくらいです。出られそうですか?」

 道路を指さすと、レナさんはキラキラした目で頷いた。

 「わぁ、大きい車なのにけっこう視界いいんだね!」

 ゆっくり、レナさんは車を発進させる。

 EV車特有の音がして、車が動き出した。

 道路を走ってしばらくした頃、レナさんが口を開く。

 「あの日…ごめんね。無理やりキスして」

 私は突然核心を突かれ、頭が真っ白になってしまう。心臓がバクバクして、上手く言葉が出てこない。

 レナさんが続ける。

 「あたし…実は女の子が好きなの。それで、美夢ちゃんのこと好きになっちゃったみたい」

 レナさんの真っ直ぐな告白に、私も答えようとする。

 「私も___」

 「ごめんね!気持ち悪いよね…!あたし、ホントは前から知ってたの、女の子で整備士さんがいるなって、かっこいいなって。ほんと気持ち悪いよね」

 レナさんはまくし立てるように一気に話した。口の挟みようもなく、私はただレナさんの言葉を受け止める。

 「あたし、あの日すごく嫌だった。美夢ちゃんが他の人の演奏褒めるんだもん、物凄く嫉妬した」

 レナさんの声は、震えていた。きっと泣いていると思う。私はあえて、レナさんの方は見なかった。

 「反省してる。ごめん。でも会いたくて…会いに来ちゃった…」

 ぐすっと、鼻をすする音。私はレナさんの告白が一段落したのを見計らって口を開いた。

 「私も、好きです」

 「………………。えぇ!?」

 車が大きく揺れる。レナさんが慌ててハンドルを握り直した。車が安定したところで、私は再び口を開く。

 「好きです、レナさんのこと」

 私は真っ直ぐレナさんを見た。彼女は運転中で前を見なければいけない。顔を逸らせない状況で、彼女の顔は真っ赤になっていた。

 「うそうそ!やだ、ほんとだよね!?」

 レナさんの慌てっぷりに、私は一気に緊張がほぐれるのを感じた。

 「本当です。いきなり会えなくなって、辛かったですよ」

 自分でも驚くくらい、嬉しそうな声が出た。体から力が抜けて、車のシートにもたれかかる。

 「えー!やばぁ、今ちょー幸せ!キスしていい?」

 レナさんの言葉に、私は一瞬息の仕方を忘れ、気づいたら咳き込んでいた。

 「う、げほっ、ご、ごめんなさ、げほ」

 「え!ごめんごめん!でもそんな嫌がらなくていいじゃん!」

 そういうわけじゃなくて…。と言おうとしたが、咳に邪魔される。

 落ち着いた所で、試乗ルートを帰る方向にするようレナさんに伝えた。

 レナさんは満面の笑顔で、最後にこう言った。

 「今日仕事終わったら、公民館来て!定時で上がってね!」

 私も笑顔で手を振った。

 仕事が終わると、さっそく公民館へ。横開きのドアをガラガラと開け、靴を脱ぎ、棚へ入れ、中へ入っていく。

 ピアノの音色が鳴る。音に惹かれるように部屋に入ると、大きな黒いピアノの前に、彼女は座っていた。

 もう日は落ちて、月明かりになっていた。

 月に照らされた彼女の演奏は、神秘的だった。奏でる一音一音が、心の奥に伝う。

 余韻を残し、演奏が終わる。

 私はレナさんに近づき、隣に跪く。

 「レナさん、私と、お付き合いしてくれませんか?」

 レナさんは座ったまま、嬉しそうに笑顔を弾けさせる。

 「喜んで!プロポーズみたい。嬉しい」

 私はにっこり微笑む。そして、ゆっくり立ち上がった。

 今度は、私から。

 レナさんの頬に手を添え、少し顎を持ち上げる。レナさんは、期待と嬉しさが入り混じった表情をしていた。艶めかしいその顔を、私は一生忘れないことにした。

 身をかがめ、ゆっくり唇と唇を重ねる。熱くて、柔らかい感触に、心の奥が疼くように震えた。

 惜しむように唇を離す。レナさんと見つめ合う。

 「愛してます」

 こぼれ落ちるように、私は呟いていた。レナさんは涙目になり、がばっと抱きついてくる。

 「あたしも!」

めでたしめでたし!お付き合いありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ