第三章「侑香の憂鬱」
小雨の中、差した傘に桜の花びらが貼り付いて、昇降口の軒先でそれを振るうも取れる気配がなかったので、仕方ないと雑な感じのままに畳み、そっと傘立てに差し入れる。結露したような、湿り気を帯びた床の感覚が上履きを通じて伝わって、少しばかりの気だるさを覚える。
新学期という空気も薄らいで、非日常として始まった日常が順応という習性をもって否応無しに当たり前の日々へと変化を生じさせる。少し大きな身丈や長い裾に煩わしさを覚えながら、真新しい制服の着心地にも慣れ、侑香は登校してきた同級生を連れ立って、談笑しながら教室へと向かった。
もうあと一日。明日の授業が終われば三連休となる。廊下で談笑する同じ学年の生徒たちの声色にも、教室に入って感じる同級生たちの緩やかな雰囲気にも、どこか浮ついた空気を感じずにはいられなかった。
「ねぇ?!昨日の配信見た?!」
「うん!見た見た!めっちゃよかったよねぇ!」
さっきまで侑香と他愛もない会話をしながら歩いていた級友が、クラスの一大勢力の派閥集団のもとへと駆け寄っていった。その後を追うわけでもなく、侑香は自分の歩む速度でそこに近づいていく。そして、タイミングを見計らい、言葉のボールをふわっと投げ入れる。
「新作のお菓子を開けるところ、可笑しすぎて飲んでた水吹いたよ」
「それそれ!そのシーンがめっちゃ良かったって言ってるのに、誰も分かってくんないの!侑香、言ってやってよぉ!」
集団の中心となっていた彼女に促されるまま、その会話の輪の中へと侑香は進んでいく。周囲の反応を伺いながら、できるだけ多くのクラスメイトが共感できるような言葉を選び、彼女たちの笑いを誘うように、けれども何となく雑に、ごく自然に振る舞った。
予鈴がなる。担任の教師が廊下を歩いてくる姿が確認できる。
「侑香ちゃん、面白い動画あったらまた教えてよ」
「うん。またあとでね」
そういって、級友たちが席に着き始める。侑香は自分の座席に歩みを進めながら、今まで話し込んでいた集団とは違う派閥の女の子の数名にすれ違いざまに
「おはよ」
と声をかけ、返された挨拶に目を合わせて微笑んだ。
そうして着席すると、誰にも気づかれないよう、侑香は小さくため息を付き、さっきまでの笑顔は一瞬のうちに失って、けれども、再び口角があがるまで時間は費やさなかった。
「最後の連絡事項。入部希望届の締め切りは今日の昼休みまでです。今年は定員オーバーしてる部活はないみたいだから、気になってる部活があれば、早めに提出するように」
初老の男性担任の朝礼が終わり、一時限目が始まるまでの少しの時間。
「森崎さん、この前、入部届出してたよね?どこにしたの?」
隣の席の男子の問いかけに、周囲の座席の生徒たちも、それに対する答えに関心を持っているかのように侑香の言葉を待っていた。
「美術部にしたよ?」
それを聞いた前の座席の女子生徒が侑香を振り向いた。
「えっ?バレー部だと勝手に思ってた。この前、体育んとき、助走も付けてないのに、めっちゃサーブ決めてたじゃん」
「あれは偶然だよ。運動とかぜんぜん苦手だし」
「けど、うちの学校の文化部って何だか地味じゃん?吹奏楽とか人数集まんなくて廃部になっちゃうんでしょ?」
初めて特別教室棟に足を踏み入れたときの感覚を侑香は思い出していた。文化部が部室として使用している教室棟は確かに地味で、なんならジメジメとした空気すら感じる、住心地の良くない場所かもしれない。それでも美術部に入部したいと思った理由はちゃんとあった。けれども、侑香はそれを誰かに打ち明けるつもりもなかった。
「小学校のときに描いた絵で賞を取ったことがあって、それを続けようと思ってね」
予鈴が鳴る。教科担当の教師が既に教壇に立っていた。
「へぇ、そうなんだ、すごいね」
「絵が描けたらみたいなぁ」
級友からの適当な会話にも侑香はにこやかに微笑み返す。
本当は誰もそんなこと思ってないのに。
侑香の目元だけは、そんな心の声を面前にさらしていた。けれども、それに気付くものは誰もいない。気付かれないようにしているのか、誰も知らない。
公式に当てはめれば誰でも解けるはずなのに、どうして何度も何度も同じような問題を解かないといけないのか。
誰かにノートを見せてほしいとお願いされた時に、堂々と渡せるぐらいには丁寧に板書するも、侑香が開いている教科書は数カ月後に授業で行うことになっているはずの方程式を解説するページであった。侑香にとって数学の授業は予習した内容をさらっと確認する程度の機会であって、関心は常に前のめりであった。
教師ガチャに外れたことは最初の授業で察していた。やたらと教諭用テキストや板書用のメモばかりに目を配り、自分の言葉で語ろうとしない、自分の父親よりも遥かに若い男の数学教師。たまに挟み込む自分語りな雑談も、侑香にとっては苦痛であって、どこがそんなに面白いのだろうと思いながら、クラスメイトの笑う反応に合わせ、それとなく笑って見せていた。
こんな授業が一年も続くのか。知らぬ間に慣れていくものだろうか。遠い遠い春の気配を侑香は愛おしむように妄想した。そうして、予習の確認作業に勤しんでいる間にチャイムが鳴り響いた。
終礼後、部活がある生徒は慌ただしくそれぞれの役割へと向かい教室をあとにする。帰宅するものは教師に促されながら、下校の準備に取り掛かっている。
「侑香ちゃん、またね」
「うん、また明日」
クラスの上位ヒエラルキー女子と挨拶を交わす。
「侑香、今日も部活なのぉ?」
「さようでございます。バイバイ」
冗談を言い合える程度には心を許している級友とも挨拶を交わす。
そして、まだ教室に残っているクラスメイトにも隔たりなく挨拶すると、侑香は静かに小さな歩幅で、しかして力強く、西日を隠すように建っている特別教室棟へと向かったのであった。