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第二章『暖味と期待』

 薄暗い廊下の真ん中に、薄暗い表情をした少女が立っていた。

 深緑のエポキシ樹脂の塗床が東から西に伸びる長い空間に佇立する少女の足元に一筋の光が真っ直ぐ差し込んで、その真新しい上履きが一際眩しく輝いている。

 少女の感情は窺い知れない。けれども、どうしてだろう。瞬きすることすら忘れているような真剣な眼差しを見た瞬間、きっと少女は高揚している。そう、強く感じた。と同時に、戸惑いと好奇心、悲しみと喜び、相反する感情が共存しているような気がした。それなのに、少女は高揚しているのだ。陽は傾き、光源は少女を橙色に染め上げる。どこまでも摯実で、どこまでも深緋こきあけで、そしてどこまでも力強かった。


 入学式から一週間が経った火曜日の放課後。昨年度まで同じクラスだった陰湿極まりない女子グループは新学年のクラス替えによって解体、一掃され、新しいクラスメイトとは女子男子隔てなく、仲良くやっていけそうな雰囲気に安堵するなか、永松麻衣子は自身が所属する部活動に課せられた責務に対する重圧にひとり静かに苦しんでいた。

 この美術部を部活動として存続させること。

 卒業した二人の上級生が抜け、残された在校生は三人。部活動として認められる部員の数は五人以上。この四月、新入生から二人以上の部員を確保しなければ部活動は解散。同好会としての維持は可能だが、画材の予算が削られるというのは現実問題、とても厳しい。コンクールで実績を残していても、部員が集まらないようでは、やはり認められないのだと、顧問の教師はそうはっきりと言った。と同時に「いいよ。私が買ってあげるから」と簡単に言われてしまっては、この部を引き継いだ麻衣子のプライドがそれを許さなかった。

 けれども、新入生を勧誘することに麻衣子は消極的だった。麻衣子が入学して、先輩たちが卒業するまでの二年間、美術部は皆で何か一つの作品を作ることを目標に活動してきた。確かに共同作業は楽しい。皆で同じ目標に向かって創り上げていく過程は地味であるようで常に新しい発見があった。一方で、どこか不真面目で、ただ作業しているだけの感覚が拭いきれず、一年生の夏頃には同じ学年の部員が四人から二人に、そして秋が終わる頃には麻衣子だけになっていた。

 翌年度、入部希望者は二人。さすがに部活動の体制を是正しなければいけないと気付いた先輩たちは、その年から集団創作の一切を取り止め、部員それぞれが個人の創作を行うこととなった。すると七人いた三年生は二人にまで減り、遂に部員数は部活動として維持できる最低限の人数となった。

 陰鬱とした空気が支配するなか、昨年度の秋、麻衣子が描いたアクリル画が全国コンクールで金賞を受賞。そして、麻衣子に美術部の将来が託されたのである。

 なんであのとき、同じ学年の子たちが退部していったとき、私も退部しなかったんだろう。その答えは既に出ている。優柔不断な私が悪かったのだ。だが不思議と後悔の念はなかった。麻衣子は今でもそうやって振り返る。

 何かを創作しているあいだは、すべてのシガラミから解放され、それに没頭できる。麻衣子はその感覚をおぼえて以来、そこに幸せを見出していた。部活の時間、そして帰宅すれば自室でキャンバスに向き合う時間。作品のなかの世界に留まることが楽しかったのだ。それを理解できるのは自分自身だけなのであって、その感覚を共有できる部員や友人は三年生になっても終ぞ出逢えなかった。いつか、きっと、この気持ちをわかり合える誰かが現れる。そう、麻衣子は今でも信じていた。

 職員室で部活顧問から入部届の有無を確認すると、麻衣子は少し肩を落としたまま、特別教室棟の二階に向かった。後輩の二人には「部室で創作する必要はない」と部長となったその日に伝えていた。二人ともそれぞれの場所で自由に作品に向き合っているようで、作品とともに自撮りした画像をグループメッセージで麻衣子に送ることで部活動としての体裁を保っているようでもあった。

 美術準備室。特に用事があるわけではなかったが、麻衣子は日課として放課後は必ずその部屋の前を通ることを自身に課していた。部長としての意地。そして、もしかしたら誰か居るかも知れないという根拠なき期待。その場所に向かう不安、そして現実を実感し、理解し、また明日へと期待する。それを行うことで麻衣子は自分が自分たらしめているもの、その形をどうにかどうにか維持しているようでもあった。

 階段を昇り切る。右に行ったその先に。

 その先に、ひとりの女子生徒が立っていた。胸元のリボンは深い朱色。新入生だ。

 後頭部で一つにまとめて垂らした長い髪、真っ白な肌に頬を赤く染め、口はぼんやりと少し開き、両手は行き場を失ったように、胸元辺りで指を不器用に絡めている。

 少女は廊下に掲示された絵画をじっと見つめている。

 その絵は麻衣子が描いた作品だった。深緑の中にたったひとり、少女が湖の浅瀬に立ちすくんでいるアクリル画。

 廊下に佇立する少女の横顔をみた瞬間、麻衣子は全身に鋭い衝撃を受けた。

 そうだ。私が求めていたのは、この顔だ!

 絵画の中の少女は背中をこちらに向け、その表情を窺い知ることはできない。麻衣子にはその少女の表情を描くことがどうしてもできなかった。どういう気持ちでその場所に居るのか、その少女を描いた麻衣子にすら分からなかったのだ。

 いま、麻衣子の目の前にいる少女の表情は、麻衣子が探していたものだった。妄想の中でぼやけていたものが、一気に鮮明となっていく。

 少しだけ上を見上げた様子の彼女は、喜びに満ちた顔をしていた。目はキラキラとしっかりと見開いて、口元を緩ませながら、今にも感嘆の声をあげるようで、穢れも知らぬ純粋な心の器がそこにあって、けれども手に掴んだ瞬間に壊れてしまうぐらいの脆弱とした形に触れたくても触れられない、絵画の中の少女が身にまとった真っ白なワンピースのような儚さをもって感じられ、麻衣子は呼吸することすら忘れるぐらい、その女子生徒に目を奪われていた。

 十数秒。

 麻衣子はすーっと冷静さを取り戻す。思い願い、乞い願った事柄がすんなりと叶うはずなんてない。稚拙な経験値でも、それぐらいは理解できる。彼女が自分にとっての、都合の良い人物であるはずがない。後悔よりも先に落胆の気持ちを先行させ、麻衣子は心に余裕を持たせようと心のなかでひとり足掻いた。

 期待は一切持たない。裏切られたとき、自分が壊れてしまうから。

 どんな反応があっても気落ちしない。何かを望み、それが満たされないと知ったとき、自分が惨めになってしまうから。

 麻衣子は決意して、その一言を発した。

「その絵、私が描いたの」

 少しだけ声が大きかったかもしれない。少女は、はっ、と声を上げた。

「ごめんなさい、驚かせてしまって」

 とても驚いた様子で少女は振り向く。麻衣子は意識して呼吸する。

 整えられた前髪、長い黒髪はしっかりと結いで、眉は薄く、長いまつ毛が可憐さを放っている。鼻は小さくまとまり、唇は薄く、小顔の可愛らしい女の子だった。

 どうしたらよいのか分からない様子がまざまざと伝わってくる。

 女きょうだいがいない麻衣子は、こんな妹がいたら良かったのに、そんなことを考えていた。自分の前でオドオドしている彼女がとても愛おしく映っていた。

「とても真剣に観ていたものだから、話しかけられなくて」

 自分の絵画をじっと見つめられる恥ずかしさよりも、少女への好奇心が圧倒的に勝っていた。冷静さを忘れてはならないという理性と、ずっと探していた表情を持った少女に対する熱を帯びた感情とのあいだで、麻衣子は揺れ動く。

「あ、いいえ。私こそ、気づかなくて。…すみません」

 お腹辺りの位置で指を組み、少女は気まずそうに頭を下げる。

 そんなやりとりをしたいんじゃない。不安にさせないように、麻衣子はやんわりと息を漏らしながら首を振る。

「この絵はね、去年の絵画コンクールに出したヤツ。一応、金賞取ったんだ」

 客観的な事実を述べ連ね、彼女を、そしてなにより自分自身を落ち着かせるため、麻衣子はゆっくりと少女に近づきながら、目を合わせないように絵画の目の前まで歩みを進めた。緊張していることがバレてしまわないか、必死になって気持ちを落ち着かせる。

 少女もまた、ひどく緊張している様子で、けれどもその視線は的確に麻衣子の目に向けられていた。麻衣子もその視線をはっきりと感じ取っていた。

 期待はしていない。期待はしてはいけない。

 決意したはずの理性と感情が、少女の熱を帯びた視線によって溶解していくのを麻衣子は無意識のうちに理解していた。

「ん?もしかして体験入部?」

 麻衣子は己の感情に屈した。言葉を発しながら、はっきりとそれを理解していた。

 さらにオドオドする少女の仕草が可愛らしい。

 少女が視線を落としたのを察して、麻衣子はようやく横目で少女の表情をしっかりと観察する。困っている表情、不安そうで、恐れていそうで。その瑞々しい姿に見惚れてしまっていたことにようやく気付いた麻衣子は、

「急に声かけた私が悪かった。ごめんね。私、これでも美術部の部長やってるの」

 と自身の身元を明かした。

 少女は顔を上げる。視線が合う。女の子って、こんなにも眩しい表情できるんだ。

 麻衣子はその透き通った少女の瞳にすっかり魅了されていた。思わず顔が緩んでしまう。そして急に恥ずかしくなって、もうこの場所には留まっていられない、どうにかなってしまいそうになる自分を必死で抑え込んで、どうにかこうにか理性を取り戻すと

「永松麻衣子といいます。うちの部活は集まって何かやったり、必ず部室に来なきゃいけないとか、そういうの一切ないから。興味あったら、また来て。じゃあね」

 と言って、その喜びが気づかれないよう麻衣子は少女から離れた。もしもイヌのように尻尾があったのなら、千切れんばかりに尻尾を振る姿を見て、きっと彼女に嫌われていたことだろう。

 麻衣子は、これでいいんだ、これでいいんだ、と何度も心のなかで唱え、自分の愚かさを恥じながらその場を立ち去ろうとした。

「あのっ!」

 一瞬、誰が発した声なのか分からなかった。けれどもこの空間には私と少女しか居ない。麻衣子は混乱した。

「永松先輩!」

 私を呼んでいるの?あぁそうか、作品のプレート。この子、凄い。ちゃんと見てる。とてもしっかりしてる。立派だ。おまけに可愛すぎる。そっか、そっか。

「ん?」

 立ち止まり、麻衣子は振り向いた。少女は眩しそうに目を細め、けれども麻衣子をしっかりと見つめている。だらりと垂れた少女の両手は、しかして強く握り締めた拳によって強い意志を示していた。

「この絵…このワンピースの女の子は、笑っていますか?」

 しばしの沈黙。遅れてやってきた、心の奥底をすべて奪われそうになるほどの圧倒的な衝撃が麻衣子のすべてを貫いた。ワンピースの女の子はあなたなのよ?なのに、そのあなたが女の子は笑っているのかどうかって…麻衣子の精神に齟齬が発生し始めた。これではいけない。これではよくない。感情をリセットする。

「…名前、訊いてなかった」

 不誠実な訊ね方だったと麻衣子はすぐに自省した。

「へぇっ?私?あ、森崎侑香っていいます」

 侑香。侑香。侑香。

 麻衣子は少女の名前を自身に刻み込む。そして彼女を試す。

「侑香はどう思う?」

「微笑んでいると思います」

 即答だった。今は、今だけはもうこの場所には居られないと麻衣子は悟った。心身の安定が限界だった。

 森崎侑香。私はきっと彼女には敵わない。麻衣子が諦観した瞬間だった。

 作品として描き終えた今でもずっと悩み続けてきた、ワンピースの少女の心の行方。麻衣子にとって、前進するためには越えなくてはならない課題だったものを、侑香はこうも簡単に、あっさりと見抜いたのである。

「麻衣子でいいよ。興味あったら明日の放課後、第二美術室においで。たぶんそこにいるから」

 少しだけ考えて、

「またね、侑香」

 そう言って、麻衣子は彼女の空間から離脱した。


 麻衣子は震える手を必死になって押さえていた。


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