第一章『憧憬と畏怖』
真っ白なキャンバスボードの中に真っ白なワンピースを着た少女がいた。
深緑の林の影に覆われた湖畔の浅瀬に佇立する少女の背中に一筋の光が真っ直ぐ差し込んで、その左手に持ったサンダルが一際眩しく輝いている。
少女の表情は窺い知れない。けれども、どうしてだろう。少し上を見上げているような顔の輪郭を察した瞬間、きっと少女は微笑んでいる。そう、強く感じた。と同時に、不安と期待、静寂と興奮、相反する感情が共存しているような気がした。それなのに、少女は微笑んでいるのだ。風は凪ぎ、水面は少女を中心にその紋様を広げる。どこまでも純粋で、どこまでも透明で、そしてどこまでも不安定だった。
入学式から一週間が経った火曜日の放課後。クラスの友人たちが次々と体験入部を済ませながら本登録を決めていくなか、森崎侑香は未だ自らの意思を示せずにいた。体を動かすことは好きだけど、本気で何かの競技やスポーツに取り組みたいという気持ちにはなれなかったし、だからといって、自分に何か秀でた才能とか感性があるとは思っていないし、夢も目標もまだ何も見出だせない。全生徒が部活に所属しなければならない校則がある訳でも無い。ならば、このまま帰宅部でも構わない。けれども、多分の期待を込めるべき学校生活を思い描くことなく入学してしまった中学校。果たしてどう過ごせばよいものか。
そんなことを考えながら、特別教室棟の二階を彷徨い歩いていたとき、侑香はこの絵画に出会ったのだ。
目に入ったその瞬間、心の深い場所、自分でも踏み入ったことのない奥底に潜んでいた感情が掬い上げられた気がした。魂というものがどこにあるのか分からないけど、温かくて優しい何かに包み込まれた感覚を、得体のしれない心のざわつきとして侑香ははっきりと感じ取っていた。
キャンバスの四辺には真新しい白地を残したまま、ぼんやりとした輪郭を帯びた緑色がその世界を覗き見るような心象帯びた配色で鮮やかに、けれども不鮮明に丸みを保って縁取られ、その中に物暗くも確かな水面が、そして無垢そのものを表現したような少女がそこにいた。
侑香は、ただ、ただ、その絵画に見惚れていた。
「その絵、私が描いたの」
突然の声と人の気配に侑香は驚いて、はっ、と声を上げる。
「ごめんなさい、驚かせてしまって」
声が聴こえたほうを振り向くと、一人の女子生徒がこちらを向いて立っていた。胸元には濃紺のリボン。それが三年生のものだと侑香はすぐに理解した。
前髪なしのショートボブ、眉は細くナチュラルに整って、二重まぶたにクリッとした目、左目じりには涙ぼくろ、鼻筋は細く、唇はふっくら、やや丸みを持った顔立ち。背は侑香よりも高く、スラッとした印象を受けた。けれども感情が全く表れない。受け取った言葉とは逆の気持ちすら読み取れた。彼女のやや低い声がそう誤認されているのかもしれない。
「とても真剣に観ていたものだから、話しかけられなくて」
「あ、いいえ。私こそ、気づかなくて。…すみません」
お腹辺りの位置で指を組むと、侑香は気まずそうに頭を下げる。
それをやんわりと打ち消す息遣いが聞こえた。
「この絵はね、去年の絵画コンクールに出したヤツ。一応、金賞取ったんだ」
絵の作者は侑香の横をつま先立つような歩みで進み、自身の絵の前で立ち止まる。侑香もまた、その後ろを追うように、再びその絵の前に進み出て、彼女の横で立ち止まった。
よく見ると、その絵画の下方に銘板が掲げられていた。
『佇立 二年三組 』
―――永松麻衣子、先輩。
侑香は心のなかで、彼女の名前を繰り返し唱えた。何故かとてもドキドキしていた。
「ん?もしかして体験入部?」
彼女のゆったりとした声が上から降ってくる。
不意にそう問われ、侑香は困惑した。自分でも分からなかったのだ。彼女に声をかけられるまで、自分がこの絵に見入っていたことに気づかなかったのだ。なにをどう答えればよいのか、分からなくなる。
えっと、あの、その。すっかり困り果てている侑香の様子を察したのか、
「急に声かけた私が悪かった。ごめんね。私、これでも美術部の部長やってるの」
という柔らかそうな彼女の声が耳に心地よく流れる。意を決して、顔を上げた。そこには、真剣な眼差しで侑香を見つめ、少しだけ頬を緩ませた…遥かに大人びた女性がいた。
「永松麻衣子といいます。うちの部活は集まって何かやったり、必ず部室に来なきゃいけないとか、そういうの一切ないから。興味あったら、また来て。じゃあね」
ふわっと制服のプリーツスカートをなびかせると、彼女はスラッと伸びた背筋を維持したまま廊下を進んでいく。確かな足取り。力強い足音。けれども、そこには暖かさと優しさがあった。
ふわっと香ってきた爽やかな匂いに侑香は、はっと短く息を吸った。
「あのっ!」
太ももの位置でギュッと両方の手を固く握り締め、遠ざかっていく彼女の名前を呼んだ。
「永松先輩!」
廊下には侑香の震えるような声と、永松先輩の足音の残響が、ほんの僅かだけ、気まずそうにその空間に存在する。
「ん?」
立ち止まり、振り向いた永松先輩の背中には、廊下の先の窓から映える夕陽が後光となって差し込んでいた。彼女の輪郭がぼやける。けれど明瞭なまでの存在が光の温もりとなって伝わってくる。
「この絵…このワンピースの女の子は、笑っていますか?」
しばしの沈黙。乾いた空気が侑香の喉に触れる。オレンジ色した陽光の道筋で塵埃たちが優しく踊る。
「…名前、訊いてなかった」
それはとても平坦な口調だった。
「へぇっ?私?あ、森崎侑香っていいます」
やや間があって、光の先から微笑んだような息が微かに聞こえた。そして腰に手を当てた仕草が、そのシルエットの向こうに感じられた。
「侑香はどう思う?」
伺うでもない、試すでもない、ただ純粋な疑問符としての言葉が侑香に投げ掛けられた。
「微笑んでいると思います!」
侑香は即答した。すべての感情を引っ括めて、そう、自信を持って答えた。
金色の光芒の中の彼女は、その姿勢のまま、少しだけ上を見上げ、深く息を吐くと、すぐさま侑香に向かって言葉を発した。
「麻衣子でいいよ。興味あったら明日の放課後、第二美術室においで。たぶんそこにいるから」
少しの間をおいて、
「またね、侑香」
そう言って、麻衣子先輩は光の中へと消えていった。
返答への回答がもらえると期待していただけに、侑香は呆気に取られていた。けれども、あの眩しい彼女の背中を追い掛ける気持ちにはならなかった。いや、近づくことはできなかったのだ。
強い憧れ、そして恐怖がそこには横たわっていた。ちっぽけな経験だけでは役に立たない、とてつもなく不穏当な何かが、確実にそこにはあった。侑香は何かを察していた。けれども、自身の言い得ぬ感情、麻衣子先輩への興味、侑香はそれらを止めることは出来ないと確信していた。
陽は伸びる。そして光源は衰えていく。その温もりはゆるやかに消えつつあった。