侯爵令嬢は奮起する
陛下の第一子、そして宮廷に残っているただひとりの娘であるミサ殿下が、何故ケイジュ家のヴァルさまと婚約しておいでになるのか、上流階級の人間は常々不思議に思っています。
階級でいえば、釣り合いはとれているのでしょう。ケイジュ家は歴史のある伯爵位を、長い間問題も起こさずに引き継いできた、品行方正な一族です。ヴァルさまはその長子で、賢く、乗馬や剣術では並び立つ者がないほどの腕を見せていらっしゃいます。
王女がケイジュ家へ輿入れするとしても、不自然ではありませんでした。それに幾度か、ケイジュ家には王女が輿入れしています。ヴァルさまの高祖父の高祖母は、臣籍降嫁した王女でらっしゃいましたから、ヴァルさまと殿下は遠い親戚でもあるのです。
建国当時からの家で、これまで問題らしい問題は起こしたことがない。王女達が何度も、ケイジュ家へ輿入れしたのは、当然といえば当然かもしれません。どなたも父である陛下に慈しまれ、よい縁談をと望まれたのでしょうから。
年齢も同じで、家柄は申し分なく、噂によればミサ殿下たっての願いでヴァルさまの婚約がなされたといいます。おふたりが今年十七になったこと、そして、婚約してからもう十年近くも経つことを考えれば、いつ結婚されてもおかしくはありません。殿下の一歳下の妹君は、去年辺境伯へ嫁がれましたし、殿下がケイジュ家へ輿入れしても、時期的にも年齢的にもなんにも不思議はないのです。
善良な国民達は、それを待ちわびていました。慶事があるというのは誰だって嬉しいものですが、国民から信頼の厚いミサ殿下のおめでたい話となれば、殊更です。上流階級の事情を知らぬ一般市民達は、純粋に、ミサ殿下のしあわせを願っているのです。
それに、一部の貴族――聡明で、男のように弁の立つミサ殿下が、長い間宮廷に残るのを懸念している勢力が、ふたりがはやく一緒になることを望んでいました。結婚に伴って女が実家を出ることは自然ですし、彼らはなんにせよ、ミサ殿下にでていってもらいたいのです。自分達の領域、政治の場から。
法典によれば、女王が立つことは、不可能ではありません。とはいえ、貴族も王も、慣例として男が位を継いできました。女王が立ったことは、ほんの二回ほどです。その二回ともが、王配やその親戚に口出しされ、政治が停滞し、国民が割を食う結果になった、と伝わっています。女王は失敗する、と、歴史書にははっきり書かれていました。女王の治世は苦難の時期だ、と。
しかし、殿下は王の器があると、男に勝るとも劣らない女王になれるだけの頭脳と胆力があると、貴族達はそう見なしています。
実際のところ、そうでしょう。ミサ殿下は賢く、些細なことにもよく気付かれます。詩と音楽を愛し、詩文の会を主催し、沢山の本を読まれ、外つ国の言葉にも明るいといわれています。まるで不可思議な力でも持っているような……と、口さがない者達は申しますが、それは邪推でしょう。まさか、高貴なおかたがそのような奇妙な力を持っている訳はありません。持っているとしたら、もっと表立ってつかい、国の為に役立てているでしょうし。
もし女王になって、政務を掌るようになれば、一部の貴族にとっては都合の悪いことにも、彼女はめざとく気付いてしまうでしょう。
その為、女王に立ってほしくない貴族と、ミサ殿下に玉座に座ってほしい貴族とで、争いが起こっていました。刃傷沙汰にこそなっていないものの、上流階級はミサ殿下を推す派閥か、ミサ殿下の弟君を推す派閥かで、きっかり二分されています。爵位持ちの若者達はミサ殿下の弟を、そろそろ子どもに爵位を譲ろうかという年齢の殿方達がミサ殿下を、それぞれ、おもに支持していました。勿論、ミサ殿下を女王にと動いている若輩者も居れば、古きしきたり通り男児が後を継ぐべきだと強硬な老人も居ます。
陣営が違えば、式典以外では口もきかず、仕事からも追い出す。まるで子どものような振る舞いがまかりとおっているのです。ゆゆしき事態ですが、陛下はそれに、なにもおっしゃいません。陛下自身も、跡継ぎを決めかねているのだと、もっぱらの噂です。ミサ殿下は聡明ではあるものの、社交性には乏しく、なにより女です。弟君はまだ幼いですが、これから勉学にはげめば、政治のことにも明るくなるでしょう。それに、なにより、男なのです。王になるのは男であるべきだと考える人間は、一般市民にこそ多く居るでしょう。
ケイジュ家はその混乱のなかで、沈黙を貫き、どちらとも親しくしようとしていません。
ミサ殿下の許嫁であるヴァルさまも、この問題には奇妙な程興味を示さず、貴族達はそれにも首を傾げていました。社交場や上邸に同じ派閥で集まり、なにやら話し合ったり策謀を巡らしている貴族達とは、ヴァルさまは一線を画しておいでです。そのようなことには関わり合いにならず、活発な貴公子達と、遠乗りやゴルフをしておいででした。ヴァルさまは、活発なかたなのです。
それに、殿下に勝る聡明なかたです。ヴァルさまはカードで負けたことはないといわれていました。どんな貴公子相手でも、ヴァルさまはかならず勝つのです。それに、僧や学者との問答でも、ヴァルさまにかなう者はありませんでした。
頭脳明晰なおかたですから、きっと、殿下の問題にまきこまれるのが煩わしいのでしょう。ヴァルさまは王配になることを望んではいませんでした。ヴァルさまには、大事な、ケイジュ家の領地があります。
それにそもそも彼は、殿下と婚約することだって、望んでいらっしゃらなかったのですもの。
わたくしはそれを知っています。家柄と、ヴァルさまの能力しか見ていない殿下と違って、わたくしはヴァルさまと、結婚を誓い合ったのですから……。
一昨年の夏のことです。
わたくしは何人かのお友達と一緒に、貴族達の間ではやりはじめた舟遊びを楽しんでいました。優美な小舟を仕立て、美しい湖をひとめぐりしたり、小川を下ったりするのです。都から馬車で半日ほどの農園が、その遊びの主な舞台でした。そこは王家の、ひろびろとした農園、というか、村なのです。そこは、貴族であればほとんど自由に出入りできました。貴族にとって、都からさほどはなれずに保養できる、素敵な場所でした。
若い娘達は皆、やわらかい色合いのガウンを身につけ、可愛らしい小さな日傘を開き、甘い香りの花を沢山、頭に飾っていました。わたくしやお友達もそうです。
宝石は成る丈身につけず、ガウンはあまりごてごてした形状ではありませんが、礼儀にかなったものでした。舟遊びには、貴公子達もいらっしゃるのです。ですから、みっともない格好はできません。
けれど、昼間、外での優雅な遊びに、晩餐会へ出席するような格式張った、しっかりした格好で行くというのも、おかしなものです。ですから、色は日の光によく合い、顔色をよく見せてくれる、やわらかい黄色やピンク、素材はふんわりしたメリンスが好まれました。娘達が戸外での遊びに興じることはめずらしいですけれど、戸外用にと考案された型というのはあって、そういうガウンを皆、選んでいたのです。髪につけられた花は、上邸の温室で丁寧に育てられたものですが、皆、その辺りで摘んできたように装っていました。そのほうが、優雅ですから。
王子殿下も、当時盛んにいらっしゃいましたから、王子殿下に見初められることを望んだ娘達も、当然居ました。王子殿下はまだ婚約されておらず、我こそがと鼻息の荒い娘が居たものです。王子殿下はまだ幼いですが、これまで王子や王が、歳のはなれた毛色のいい娘をめとったことは、何度もありました。十歳程度の差なら、なにも不自然ではありません。特に、将来的に玉座を継ぐ可能性のある王子であれば、自分より歳がかなり上でも、政治的に有利になる女性と縁付くというのは、よくあることでした。
わたくしは、そんな娘達とは違いました。何故って、わたくしはずっと、ヴァルさまをお慕いしているのです。
そして、あの日、わたくしはヴァルさまに見付けてもらえました。
「綺麗なものだな」
お友達と舟にのっていたわたくしは、思いがけず近くから聴こえたヴァルさまの声で、どきりとしました。
ヴァルさまはわたくし達の舟の近くにある舟に、気のない様子でのっておいででした。向かいには、氷のような青白い髪をしたミサ殿下が、青いガウンを着てのっています。傍らには、黒い日傘が、開いたまま置かれていました。
揃えた膝の上には、小さな本が開かれています。ヴァルさまと舟遊びだというのに、彼女は本を読んでいるのです。日傘を外したのは、文字を拾うのに光を必要としたからでしょう。わたくしはそのことに、また、どきりとしました。あのヴァルさまと、ふたりきりで小舟にのって、本を読んでいる? ミサ殿下はどうかしているとしか思えません。
「なんの話かしら」
ミサ殿下は顔もあげず、実につめたい調子です。彼女は多くの人間に、関心を持ちません。ミサ殿下と親しいかた、といわれても、とっさには出てきませんでした。一番に名が上がるのはヴァルさまなのでしょうけれど、王命で決まった婚約に基づいた関係を、『親しい』と表現するのは違う気もします。
そういった、法的に効力のある関係以外で、ミサ殿下と親しいかたは、おそらく居ません。同年代の令嬢達にも、殿下は距離を置いていました。十歳をこえた頃からそれは顕著になり、お茶会や詩文の会、音楽会など開かれるものの、顔ぶれは固定されていませんでした。招いてもおかしくないかたを、まんべんなく招待する、というような人選です。おそらくは、陛下のご命令で、そういった会を催しているのでしょう。一国の王女が、貴族達を遠ざけて詩にばかり凝っているのでは、人格を疑われます。顔ぶれで、ミサ殿下当人はそのような催しを苦手としていると、わかってしまいますが。
ミサ殿下はひとぎらいなのだ、と、多くの貴族が考えています。それも、病的な。
ミサ殿下のきっちり結い上げた髪には、鈴蘭を模した宝飾品が光っていました。彼女は髪に花を飾ることは、少しも考えなかったようです。ガウンも、こぞって遊びに来ている娘達と比べれば、襟が大きく、少々かっちりしていて、その場では野暮ったく見えました。服装には、いつ何時でもこれでよいというものはなく、場所との兼ね合いというものがあります。ミサ殿下はそういったことに無関心なようでした。
ヴァルさまはしゃれたクラヴァットを、片手でゆるめました。鮮やかな若葉色です。ヴァルさまは洒落者で、服や装飾品も、洗練されています。以前、年始の舞踏会に、素敵な房付きの靴をはいてきた時など、令嬢達はお姿を見ては溜め息ばかり吐いていました。
「なに、花の話さ。夏も盛り、あちこちできらびやかに咲いている花に、水面の反射が美しい」
ヴァルさまはたしかに、その時、わたくし達の舟を見ていました。そうして、微笑まれたのです。ヴァルさまはわたくし達を、あちこちで咲いている花とおっしゃったのでしょう。そして、わたくしとお友達のどちらかを見て、微笑まれた……。
ミサ殿下はその言葉でようやくと顔をあげ、ヴァルさまの視線を追って、こちらを向かれました。膝の上の本をたたみ、ヴァルさまへ目を戻されます。
ひややかで、つめたい眼差しでした。「めずらしい。詩に興味を持たないあなたが、そのようなことをいうなど。余程、綺麗な花を見付けたのかしら。あなたは花が好きだから」
かすかに含みのあるようないいかたです。
「見付けたとも。名前は知らないがね。君のいうとおり、俺は風流というものがわからんから」
ヴァルさまがそう返すと、ミサ殿下はかすかにヴァルさまを睨み付けました。男のようなしっかりとした眉が、片方、くいっとあがります。小さく鼻を鳴らし、つまらなそうに舟の縁から手を出して、湖の水を掬いました。それは、殿下の瞳のような、光を拒む黒に見えました。
不意に、水面が揺れました。殿下がぱっと手を動かし、ヴァルさまの頭に水がかかります。きっちり撫でつけられたヴァルさまの髪が、無残に乱れます。
呆気にとられた様子のヴァルさまに、ミサ殿下は表情をかえず、ひややかにいいました。「岸まで漕いで頂戴。あなたの好きな花は、水の上にも水のなかにもないみたいです」
ヴァルさまは苦笑いで、そのようにしました。ミサ殿下のお言葉に、すぐに従ったのです。
「あのようなことって、あんまりだわ」
舟をおりると、お友達がすぐに、別のご令嬢達をかきあつめて、みききした一部始終を話しました。ヴァルさまは濡れた頭のまま、岸まで舟を漕いでいかれたので、ほかにもその姿を見ていた者が居て、成程そういう事情だったのかと納得しています。
口数の多いお友達に任せ、わたくしは黙っていました。ヴァルさまにとっては、不名誉なことでしょう。幾ら王女殿下といえ、あのようななさりようはあんまりです。
ですが……だからこそ、わたくしは黙っていたかったのです。ヴァルさまだって、ご自分がはじをかかされたことを、吹聴されたくはないでしょう。お友達を停めることはできませんでしたが、せめて自分は口を噤んでいようと思ったのです。
「殿下も、ご自分が望んだのなら、ヴァルさまにもっと優しくしてさしあげればいいのに」
それには、多くの令嬢が頷きましたし、わたくしもそうしてしまいました。そう、ミサ殿下は、ご自分が望まれたくせに、ヴァルさまに酷くつめたい態度をとるのです。
詩の話は彼にはわからないから、と、詩文の会にヴァルさまを呼ばなかったり、音楽会でもわざとお席をはなされたり。おふたりで話していると思ったら、ヴァルさまを扇で打ったこともありました。勿論、殿下の細腕で、ヴァルさまの頑丈な肉体に傷を付けることなどできませんが、そういう問題ではございません。きっと、名誉は大きく傷付いたでしょう。
ヴァルさまは大概のことは笑ってゆるされます。辛抱強いかたなのです。しかし何度か、ほかに大勢の人間が居る場面で、おふたりは喧嘩をされていました。流石のヴァルさまでも、あまりにも敬意を感じない言動には、怒りを爆発させたのです。それなのに、ヴァルさまは最後には折れ、ケイジュ家も王家へわびをいれたとか。殿下がそもそも悪いのに、どうしてヴァルさまが謝るのでしょうか。それが、わたくしにはわかりません。
自分が望んだ許嫁に対してもひややかな態度を崩さないミサ殿下は、令嬢達からは厭われています。だって、ヴァルさまはお家柄は素晴らしいし、ご当人も賢く、丈夫でらっしゃる。多くの令嬢のあこがれの的なのです。それを、殿下は権力でもって確保したのに、ヴァルさまにつめたくされるのです。ご自分のわがままで、ヴァルさまの自由を奪っておいて、そのような態度をとるのですもの。わたくし達の怒りも、当然のことでしょう。
それに、ミサ殿下の野心も、令嬢達にきらわれる理由でした。ヴァルさまを是非にと望んで手にいれたくせに、あのようにつめたい態度をとるのです。だから殿下は、ご自分が女王になるにあたって都合のいい相手を選んだのでしょう。家柄がよく、忠義に篤いケイジュ家なら、間違いないと。
「やっぱり、氷の王女殿下ね」
お友達のひとりがいい、皆、頷きました。ヴァルさまを手にいれたくせに、まっとうに愛そうとはしない、氷の王女。上流階級では、ミサ殿下はそのようにいわれているのです。勿論、当人の耳にははいらないように、ですが……ヴァルさまがそのようにいったのだ、とも聴いています。
保養地ですから、大きな宿がありました。貴族の邸に似た造りで、広間があり、宴も開けるようになっています。大勢の貴族達がそこを利用しており、わたくしもそこに泊まることになっていました。
お友達と一緒に、農村の可愛らしい、あまりのり心地のよくない馬車に揺られ、そこへ戻ると、わたくしはお部屋で休むことにしました。日傘があっても日差しはきつく、頭がぼうっとしていたのです。殿方はともかく、ミサ殿下が直に日にあたっても顔色ひとつかえなかったのは、なんだったのでしょう。あんなに青白い、きめの細かい肌をしているのに。それに、年頃の令嬢というのは、ああいう強い刺激には弱いものでしょうに。
声がして、寝台で横になっていたわたくしは、窓を開けに立ちました。
開くと、気持ちのいい風がはいってきます。
視線を下げると、庭にヴァルさまがいました。殿下もご一緒です。殿下はぶらんこへ座り、本を開いておいでです。ヴァルさまはその傍で、ぶらんこの縄を掴み、かすかに揺らしていました。散発的に、殿下へ声をかけるのですが、殿下はそれにひと言も返しません。まるで、子守のようです。
うんざりして目をはなした、その一瞬のことでした。どさっと音がして、目を戻すと、ミサ殿下が地面に倒れ伏しています。ヴァルさまはその横で、切れた縄を掴んでいました。
ヴァルさまが縄を切った……?
唖然とするわたくしに気付かず、ヴァルさまはミサ殿下を抱え、居なくなりました。縄が片方だけになったぶらんこが、ゆうらゆうらと揺れています。わたくしにはそれは、不気味なようにも、素敵なようにも見えました。
翌朝、朝食前に少し歩くといって、わたくしは庭へ出ました。侍女は付けていません。
ぶらんこの縄をたしかめようとしたのですが、ぶらんこ自体、もうなくなっていました。土台になる木はあるのですが、さがっているものがないのです。
そしてその傍には、なにか憂えるような表情のヴァルさまが立っていました。大柄で、屈強な体のかたですのに、なにか不安を覚えているような、おそれているような顔で、体を小さくしていました。
わたくしは、口から心臓がとびだしそうでした。その場には、ヴァルさまとわたくしだけだったのです。わたくしは侍女をつれておらず、ヴァルさまは従僕をつれていませんでした。
わたくしは、ぴんときました。ヴァルさまは、昨日の殿下のなさりように、はらをたてたのです。それで、殿下に怪我をさせようと、縄を切った。おおかた、そんなところでしょう。顔に水をかけられるような辱めをうけ、黙っている殿方は居ません。
いえ、これまでのことだって、ヴァルさまを傷付けていたのです。ヴァルさまは殿下に、肉体的には傷付けられていなかったけれど、そのお心はどれだけ傷んだでしょう。階級で勝っているだけの女に無碍に扱われ、それでも王命だから婚約を解消することもできない。
ミサ殿下さえ居なければ、ヴァルさまは自由になれる。
ヴァル卿、と、おずおずと声をかけると、彼はゆっくり振り向きました。
「ああ……おはよう。君は、侯爵家の……」
覚えていてくださった!
我が家は侯爵位を戴いていますが、家の歴史の長さでいえばケイジュ家のほうがずっと長いのです。ですから、ヴァルさまが覚えていてくださるとは、思っていませんでした。天にも昇る気分とは、このことでしょう。
わたくしは礼儀正しくお辞儀をし、ぶらんこの木を軽く示しました。ヴァルさまに近付く、きっと最初で最後の機会だと、そう考えたら、言葉は自然に口から出てきます。
「わたくし、ヴァルさまのお気持ちは、よくわかりますわ。……昨日、ここでの出来事を、窓から見ていましたの」
おそれるような調子になってしまって、後悔しました。けれど、ヴァルさまは鋭かった目付きを和らげ、小さく頷かれました。
「ありがとう。君のようなひとが居てくれて、よかった」
そういって、ぶらんこがさがっていた木を、仰がれます。「こんなことは、わたしはもう、いやなんだ」
ああ、ああ、なんとおいたわしい。ご自分の意思ではなく、氷の心を持った姫と将来を誓わされ、あのような不名誉な扱いを受け続けなくばならないなんて……。
わたくしは、泣くのをこらえられませんでした。みっともなく袖口で涙を拭うわたくしに、ヴァルさまは優しく、手巾をさしだしてくださいました。青白い手巾は、やわらかい綿です。それで涙を拭うわたくしに、ヴァルさまは優しくいいました。
「わかっているだろうが、このことは内密に」
頷いたわたくしには、ヴァルさまの言葉はもう、耳にはいりませんでした。ヴァルさまと秘密を共有した。ヴァルさまの秘密を知った……。
それから、舞踏会などで何度も、ヴァルさまとご一緒しました。数回、踊ったこともあります。ヴァルさまは素晴らしいリーダーで、わたくしは踊りが得意になったような錯覚を覚えました。
ミサ殿下は相変わらず、他人を拒み、ヴァルさまを苦しめています。たしかに、殿下が女王になるのに、ケイジュ家は素晴らしい外戚でしょう。歴史は古く、これまで王家と幾度も縁付いていて、忠誠心は多くの貴族のなかでも一二を争うほど。ミサ殿下が女王になっても、ケイジュ家がそれをもとに利を得ようとしたり、政治に害をなすことはありえません。
ですが……都合がいいというだけで選ばれたヴァルさまのお気持ちは? いったい、誰がヴァルさまを気遣うのでしょうか? 思い詰めて、殿下に怪我をさせようとまでしたヴァルさまを。
お体は大きいけれど、繊細なところのあるおかたです。殿下のなさりようは、あんまりでしょう。
殿下はきっと、女王になりたい。なら、ヴァルさまに迷惑をかけず、ご自分ひとりでなればいい。
法典には、王が結婚していなくてはならないという規定はありません。殿下には弟の王子殿下もいらっしゃる。なら、ご自分が女王になり、弟君を王太子と定めればいい。ミサ殿下は結婚をする必要など、どこにもないのです。
殿下はたしかに、聡明です。よき女王となるでしょう。そんなことは、わたくしにだってわかります。いえ、貴族のほとんどがわかっていました。あのつめたい気性だって、国家の主として、時には非常な決断も下さねばならないお立場になれば、おおいに役に立つことでしょう。ミサ殿下は、女王に向いていると、わたくしは考えています。
ヴァルさまに迷惑をかけず、ご自分ひとりで女王になれば宜しいのに。
なにかの折りに、ふとそう口にしてしまったわたくしに、お友達は賛同してくれました。口止めされていますし、ヴァルさまの名誉にも関わりますから、ぶらんこのことは黙っていましたが、それから度々ヴァルさまと会っていることは話してしまいました。美しい花だと誉められたことも……ええ、そうです、あれはわたくしのことだったのです……。
冬至の夜、宮廷では、華やかな宴が催されます。これは建国から続く、大切な行事です。
雪の降る、実りの乏しい冬を、それでも祝う。冬の寒さ、つめたさは忌むべきものであるのに、皆それをごまかし、よいものであるように振る舞う。そうすれば、拗ね者の冬は居なくなる。そして、春が訪れる。そういった伝承を許にしたお祭りでした。
宮廷での宴には、多くのひとが訪れます。友好関係にある国の王子や姫、国王夫妻が招かれることもありました。
「いよいよね」
わたくしがいうと、皆、頷いてくれました。
今夜、わたくし達は、陛下に直訴するのです。ミサ殿下を女王に、と。
そして、ヴァルさまとの愛のない結婚を、阻止してください、と。
新調した淡い緑のガウンを着たわたくしは、ヴァルさまにもらった手巾を、しっかりと握りしめていました。
宮廷大広間には、沢山の蝋燭が点っています。可憐な銀の燭台が至るところに置かれていました。高い天井には、めしつかい達が苦労して、たいまつを置いてきていました。壁の裏に細い階段があって、高いところにある台に設置できるようになっているのです。宮廷大広間はその辺の貴族の邸くらいはいってしまいそうに大きいですから、灯は至るところにありました。でないと、くらくて踊りなどできません。
異国風のガウンを着た、小柄な女性が、背の高い男性と腕を組んで這入ってきました。外つ国の国王夫妻です。かの国の上流階級は不可思議な力を持っているのが普通だそうですし、王后の為に先王を弑されたと聴いていたので、おそろしげな風貌を想像していましたが、我が国の貴公子とさほどの違いも見受けられません。丸顔が優しそうな王后は、用意されている席におっかなびっくり座りました。わたくし達貴族は立ったまま、王家や来賓は咳について、宴が始まるのです。
ミサ殿下とヴァルさまもやってきました。殿下は紺碧のガウンを身にまとい、かたく、つめたい表情です。白波のような氷のような、青みがかった白の髪は、くすんだ緑の宝石を飾ったネットで包まれていました。お美しいのに、とてもつめたいおかたです。つめたく、慈悲のない、ヴァルさまへの敬意のない……。
席が埋まり、陛下が宴の開催を宣言した時です。
「お待ちください」
わたくしは勇気を持って、前へすすみでました。お友達も一緒です。陛下は、貴族達のなかから出てきたわたくし達に、驚いたような目を向けられます。すぐ傍の席には、あの優しそうな、丸顔の女性が居ます。彼女も体をねじってわたくし達を見ていましたが、表情はあまりありません。
礼を失した行動であることはわかっています。ですが、わたくしのような者には、そこ以外に殿下に直に奏上する機会はありません。
お友達がいいました。
「陛下、無礼は承知でございます。ですが、どうしても申し上げたき儀があるのです」
打ち合わせの通りです。続いて、わたくし達は、声を揃えました。
「どうぞ、ミサ殿下をお世継ぎにしてくださいませ」
陛下がぽかんと口を開けます。来賓の方々は、はっとしたようにミサ殿下を見ました。
殿下は、つめたい、ひややかな表情でした。その隣にはヴァルさまが居て、心配げにミサ殿下を見ています。反対隣の王子殿下も、陛下に似た顔でぽかんとしていました。
わたくしは高らかに、宣言します。
「ミサ殿下は女王となるに相応しい叡智をもっておいでです。それを、女だからと玉座から遠ざけるのでは、法の意味がございません。ミサ殿下が女王に、弟君が王太子になればよいこと。今のままではヴァルさまがお可哀相ですから、どうぞお救いくださいませ、陛下」
陛下は眉をひそめ、わたくしを見詰めました。
「ヴァル? ヴァル卿がどう関わるのだ」
「ミサ殿下はヴァルさまを蔑ろにしています。おふたりはよくいいあらそっていますし、喧嘩も絶えません。ミサ殿下は女王になるのに都合がよいから、愛してもいないヴァルさまを選ばれたのでしょう? わたくしは違います!」
そこまでくると、かすかにあった恐怖は消え、わたくしの声は滑らかに、なんのひっかかりもなく咽から出てくれました。
「わたくしは本当にヴァルさまを愛していますもの。ヴァルさまだってわたくしに手巾をくれました」
ヴァルさまに同意を求めようと、そちらを向きました。
けれど、ヴァルさまは奇妙な表情をうかべておいでです。眉を寄せ、まるで、訝っているようでした。その隣のミサ殿下は、ちらりとヴァルさまを見て、わたくしに目を戻します。
「それはわたくしの手巾です」
え?
腰の辺りに衝撃があり、見下ろすと、そこになにかありました。
こんな変な模様のある生地だったかしら、と考えました。
淡い緑だった筈なのに、濃い緑になっています。
ヴァルさまがかけてくれた言葉、お優しいそれが、脳裏に甦ります。
誰かが近くで叫びました。謀反だ、と。王女が令嬢達を扇動して、冬至の祭りを穢した、と。ミサ殿下がぎょくざをねらっていると。
目の前が徐々にくらくなっていきます。
倒れ込んだ床はつめたく、氷のようでした。