正しさの保障
その正しさは本当に正しいのか?
正義の対義語は一般的二は悪だと考えられているが、これは正しくはない。また悪は善からぬものであり必ずしも正義と対立するものではないからだ。
では正義と対を為すものは何かと聞かれればこう答える他ないだろう。損得が被る別の正義だと。
悲しい話だが正義というものは唯一無二、悠久不変ではない。その時代に生きる人々の価値観が主軸となって形成される実に不安定かつ曖昧な主観でしかないのだ。
例えるならば私の世代で言えば学歴社会や終身雇用などがそれに相当するだろう。反論もあろうが今は私の主張に耳を傾けて欲しい。なぜならば私が今回の駄文の中で主張したいと思っている事はこのような議論し尽くされた通俗的な観念ではないのだ。
さて話は正義の定義づけに戻る。正義とあくまでは個人の主観を中心として存在するものであり絶対的ではない。民意が司法を打倒したあまりにも有名な逸話と言えば「悪法も法」だろうか。「自由」と「公平さ」と「面子」を重んじるあまり聖人じみた賢者を死に追いやってしまった。つまり正義を守る為に、正義そのものにとって支持者を死なせてしまったのだ。これほど見下げ果てた暴挙も珍しい。結果として当時の都市国家が今の地球上に存在しない事が愚の程度というものを後世の人間に知らしめている。
弁士が磨き上げた詐欺のような論法はバルバロイには通用しなかったのだ。だがバルバロイたちが信じて疑わぬ力の正義も巨大国家の結束力の前に悉く敗れてしまった。蛮勇もまた真勇に非ず。結果を残した勇敢さを現代に生きる我々は正義と呼ぶのだ。
かなり回りくどい説明になってしまったが正義というものは部直に存在し続けるものではなく、その時代によって巧みに形を変える。正義とは実に利口な生き物だ。また高価な酒のように美味で一口含むと誰もが正義正義と声高に叫ぶ始末。
正しさなど時と場所によって形を変えるというのに一体誰がその責任を取るというのか。全て酒の席での出来事と苦し紛れの言いわけをするところは性質の悪い酔っぱらいと変わらない。つまり正義の衝突とはある意味、酔っぱらいの喧嘩でしかないのだ。
ここで一つ、私は提唱する。今こそ全人類はたわけた正義を見限り悪魔将軍様の奴隷となって正義超人、アイドル超人たちを駆逐すべきなのだ。奴らは子供に人気があるとか、女の子受けとか言ってレスリングの本質を否定している。
そもそもお行儀よく正統派ファイトなんぞと調子こいているが負けたらどうするのだ。最後まで気持ち良く戦ったところで敗者を誰が応援する?やはり勝ってこその超人プロレスであり、悪魔超人なのだ。
悪魔に友情なんて無いし、悪魔超人から正義超人に鞍替えしたバッファローマンなど粛清対象でしかない。もしもジェロニモ程度の弱体超人もどきが我々にものを申すものなら地獄のローラーとコンビネーションであの世に送ってやろう。弱者廃滅、残虐ファイトこそ至上。
そういうわけで行くぞ、アシュラマン!
おう、サンシャイン!!地獄のコンビネーション、ナンバースリー!
(お互いの心臓の部分に針をつけてロメロスペシャルでぶつけあうやつ)
悪魔にだって友情はあるんだぜ…たまにな。
ゆでたまご先生の漫画にはちゃんとこう書いてある。私は間違っていない。