異世界召喚は変革の足音
作家デビュー1周年ということで初の異世界召喚ものを書いてみました。
私が書くとなぜかこうなってしまう異世界召喚です笑
バルコニーに一人の女が佇んでいる。
「もう無理だわ……」
美しい金髪の巻き毛がふわりと揺れる。しかし顔は月明りに照らされていることを差し引いても青白い。
「もう疲れた」
バルコニーの手すりに彼女は上がる。裸足だ。
彼女は下を見ずに空に浮かぶ月を見上げた。
「綺麗ね」
その言葉とともに彼女は空中に身を躍らせた。
***
「あいつはまだ目覚めないのか」
王太子の婚約者であるアガサ・キャメロン公爵令嬢が、城の執務室のバルコニーから身投げをしてから一か月。一命を取り留めた彼女はいまだ昏睡状態だった。
「まったく。見た目はいいが面白みのない。仕事しか能がない女だったのに、それさえできないのか」
積みあがった書類を嫌そうにこなす王太子ベネディクト。
「サリーと会えないではないか」
ブツブツ言うだけで書類はほとんど進んでいない。一緒に作業している文官たちの方が仕事をこなしている。
王太子が浮気相手に会えないと文句を垂れているせいで部屋の空気は非常に悪い。そんな中、急に執務室の扉が開いた。
「殿下! 召喚が成功しました!」
「なに! 本当か!」
「はい! 異世界から乙女を召喚しました! 広間にお越しください!」
喜色を浮かべる魔術師とともに王太子は部屋から出て行ってしまう。文官たちには何も指示せずに。文官たちは慣れているのでため息を吐いて仕事を再開した。
「そなたが異世界からの乙女か?」
広間の床には古代語の文字と魔法陣。そこに異世界から召喚されたという女性が不安そうに立っていた。女性は魔術師のものである黒いマントを着せられているが、マントの下からこの世界のものではない衣装が覗いている。まず、そもそもスカートの丈が短すぎる。
突然ずかずか近付いてきたベネディクトの問いに女性はビクリと肩を震わせた。
「王太子殿下。その方は召喚されたばかりで混乱しておいでです」
「む、そうか。すまない。召喚が成功したと聞いて嬉しくてな」
先ほどまでの尊大な態度はどこへやら。ベネディクトは殊勝な態度で謝る。
異世界人の召喚は何度も続けられ、そのたびに失敗した。大昔は聖女や勇者が召喚されていたようだが、文献に詳細に残っている記録ではこの国で信仰されている女神の何らかの力を分け与えられている人間が召喚されるのだ。
ベネディクトは他のことには興味がなかったが、異世界人の召喚にだけは興味があった。そのため、城の魔術師にずっと研究を続けさせていたのだ。
「この国の王太子のベネディクトだ。あなたの名前を教えてもらえるだろうか?」
ベネディクトは嬉しそうに、歓迎の意を示すように女性の前に跪いた。
「シズク……です」
召喚された女性は警戒しながらも名前を教えた。
***
「すまない……」
エルガー・キャメロン公爵は眠り続ける娘アガサの横で拳を握りしめていた。
毎日毎日後悔している。婚約者になってから娘は今後の教育のためと城へ生活の拠点を移した。まさか、王太子の仕事を丸投げされていたなんて。
いや、それだけではない。あの王太子はサリーとかいう男爵令嬢を筆頭に浮気を繰り返していた。娘が仕事を必死でこなす間に。娘の婚約者予算も浮気相手につぎ込む始末。
娘は父親である私に何も言わなかった。泣き言一つ言わなかった。そしてあの日、執務室のバルコニーから突然身を投げたのだ。
「どうして何も言ってくれなかったんだ……なんてダメな父親が言えたことではないな」
王家には逆らえない。娘はそれを分かっていたのだろう。
娘が身を投げても何一つ世界は変わっていない。一人息子に甘い国王と王妃は王太子に罰を与えるわけでもない。むしろ、諫言する者は物理的に首をはねられるか、投獄され爵位を取り上げられるか、重税を課されるかの恐怖政治だ。
娘が昏睡状態になってから王太子からは「まだ目覚めないのか」という仕事の催促の手紙しか来ない。見舞いもない。
婚約自体がまだ解消されていないのだ。目覚めたら仕事をさせる気なのか。それとも王家から解消を言い出して慰謝料を払いたくないのか。
「妻も亡くし、大事な娘も守れないなんてな」
エルガーの妻ティアナは出産のときに亡くなっている。アガサはエルガーにとって大切な一人娘だった。
近頃の王太子は異世界から召喚された乙女シズクに夢中らしい。
自ら城を案内し、美しい庭でともに茶を飲み、この国のドレスやアクセサリーを贈る。この間は王都の観光に同行したと聞く。娘には何一つやらなかったことだ。
召喚されたシズクという乙女はこの国では珍しい黒髪に琥珀色の瞳をしているそうだ。見た目は10代後半で、計算がとんでもなく早い。
指で机を何度か叩くと優秀な文官たちでも苦労する計算を瞬く間にやってのけるのだ。今回召喚された者の能力は計算かもしれないと、城の文官たちは浮足立っているとかいないとか。面白くもない胸糞悪いウワサは公爵家の使用人たちが仕入れてくる。
「旦那様。お客様がいらっしゃいました」
娘の手を握るエルガーのもとに家令がやってきた。
「断れ」
「断れないお相手でございます」
「王太子殿下か」
「召喚されたお方も一緒です」
娘がこんなことになってから、王太子は初めてキャメロン公爵邸に異世界人を連れてやってきた。
「シズクがどうしてもアガサに会いたいとねだるからな」
王太子の横で薄く笑みを浮かべている異世界人。つややかな黒髪には目を奪われるが、それだけだ。だが、彼女を見ると不思議な感覚がする。懐かしいようなそうでもないような。
「さようでございますか。娘も喜ぶでしょう」
思ってもないことを口にしなければならない屈辱に体を震わせそうになったが、なんとか耐えた。王太子の中で娘は勝手に飛び降りただけなのだ。その原因が自分だとは小指の爪ほど思ってもいない。
「殿下ありがとうございます。では、サリーさんとデートへどうぞ」
異世界人シズクの声は思ったより低かった。そして、予想よりずっと知性を感じさせた。
「は? 俺もアガサに会うぞ?」
「あら、サリーさんと約束してらっしゃったでしょう? 割り込んだのは私ですからサリーさんのところへ行ってらして。今日のお買い物を楽しみにされていたと聞いていますよ?」
「いや、だが君を一人でアガサに会わせるなど」
「ふふ。私の住んでいた世界では約束を破る人は信用されずに嫌われるんです。こちらの国はいかがですか?」
イントネーションがところどころおかしいが、シズクの話す言葉はこの国の言葉だった。
「シズクは俺のことが嫌いなのか?」
「約束を守ってくださる方が好きです。サリーさんを悲しませるのはちょっと……サリーさんがかわいそうです」
「わ、分かった」
「私は歩いて帰りますから」
「そんなことはさせん! 迎えをよこす」
「帰りが何時になるか分かりません。お城以外のおうちに訪問するのは初めてですからいろいろ見せてもらいたいわ。とても立派な屋敷ですから」
エルガーの目の前で王太子が押され気味だ。信じられない。
「殿下。我が家の馬車でお送りします」
「む、そうか。じゃあ頼んだ。しかし、本当に俺がいなくていいのか?」
「殿下が忙しいのは分かっています。今日は私の我儘をかなえてくださって嬉しいです」
したたかなのか、あざといのか。シズクは先ほどまでの貼り付けた笑みから一転、にこやかに嬉しそうにした。王太子はそれを見て一瞬呆けている。
「では、晩餐?ですかね? その時にまた」
シズクはさらっと未練もなく王太子から視線を外した。王太子はそこまで言われたら仕方がないと、後ろ髪を引かれながら公爵邸から出ていく。
驚いた、あの俺様傍若無人王太子がこの異世界人の娘に翻弄されている。エルガーとしても王太子には一刻も早くここから出て行って欲しかったので助かった。
「では、アガサ様に会わせていただけますか?」
「娘に会ってどうするのですか?」
頭を下げるシズクにエルガーは思わず問いかけた。
「会いたいだけです」
全く答えになっていない。異世界人の彼女がなぜ面識も意識もないアガサに会いたがるのか。シズクの顔をまじまじ見る。どんなに見ても彼女の年齢は分からない。童顔であるせいか若く見えている可能性もある。
「二人きりにはできませんが、それでよろしければ」
エルガーの口からそんな言葉が出ていた。
その日、シズクは30分ほどアガサの部屋に滞在して帰っていった。
「私どもの警戒が伝わったのかベッドサイドではなく、少し離れた場所からお話されていました。まず、自己紹介を。そしてお嬢様を心配していらっしゃいました。目が覚めないのはきっと起きたくない意思があるからだろうと。最後は、何か楽しい話でもしようと異世界のおとぎ話を披露されました。桃から生まれた子供がサルなどの動物を引き連れて鬼退治をする、というような内容でした」
「一体、何がしたいんだ?」
娘付きの侍女の報告に疑問しかない。
それにしても、王太子は異世界から召喚されたシズクに熱を上げているようだ。娘には尊大な態度しかとったことがないのに、シズクには明らかに振り回されていた。
次の週もその次の週もシズクは公爵邸にやってきた。
王太子も共にやってくるが、言葉巧みに浮気相手の令嬢の名前を出すなどしながらシズクは王太子を帰らせる。
「メイヴィス様が最近殿下に会えないと嘆いていらっしゃいました。わざわざ私のところにおいでで。なんだか雰囲気が怖くて……私、嫉妬されているかもしれません。怖いです。メイヴィス様のところへ行ってください」
「文官?の方が殿下の決裁書類がたまっていると。皆さま、寝不足のようですからかわいそうです」
そうこうしているうちに王太子は公爵邸についてこなくなった。
シズクは娘の部屋でただただおしゃべりをして帰っていくだけだ。今日は五回目の訪問だった。
「娘に話しかけ続けるだけとは一体、どういうおつもりでしょうか? 何か目的でも?」
シズクが帰る頃になってやっとエルガーは切り出した。娘は二カ月目覚めない。
シズクはエルガーを見てにこっと笑った。エルガーは寒気がして思わず後退る。
「やっと聞いてくれましたね。そろそろおとぎ話のネタが尽きる頃でした」
「あなたの目的は何ですか? 王妃になることですか?」
「ふふっ。男性ってどうして女性が権力のある人の妻になりたがっていると思うんでしょうか」
シズクは皮肉っぽく笑った。そしてエルガーをしっかり見据えて首をかしげる。
「ねぇ、キャメロン公爵。あなたはこのままでいいんですか? お嬢さんは王太子にこき使われて自殺未遂。でも王太子はなんのお咎めもなく、昨日も私と王都で遊び惚けていました」
悪意のある言い方にエルガーは思わず歯を食いしばる。
「仕事もしない責任も取らないトップって必要なのですか?」
「それ以上は言ってはいけない。あなたは異世界人だから許されるかもしれないが……貴族ならば殺される」
「ふふふ。ではこのままずっと指をくわえて見ているおつもりですか? 民には重税を課して好き勝手浪費しているだけの王家を? 忠臣を殺戮する王家を? 大切な娘まで殺されかけたのに?」
「あなたに何が分かる!」
エルガーは思わず叫んだ。
別にシズクは何も悪くない。エルガーのコンプレックスをつつきまくっているだけだ。
「あら、私は勝手にこちらの世界に連れてこられたわ。でも、あなたは違う。あなたは唯々諾々と命令に服しているだけ。それはあなたの意思なんでしょう?」
「違う……逆らったら……私は公爵ではなくなるだろう。それは別にいいが、残された領民たちには重税が課される」
「公爵は自分の娘よりも領民や公爵領が大事なの?」
「そんなことはない」
「あら、だってそうなのでしょう。じゃなきゃ言動が一致していないわ」
なんなんだ、この得体の知れない女は。
言動が一致していないのはこの女だ。王太子を翻弄しながら、なぜ娘に会いに来る必要がある。王太子の他の浮気相手から一つ頭を抜け出すためのポイント稼ぎだろうか。
いや、そもそも異世界人だ。人間の姿をしているが我々とはまったく別の存在だ。
「娘は大事です……」
「本当に? 娘がこんな風になってもあなたは何も変わっていない。立ち上がってもいない。なんの覚悟も示していない。それなのに大事って言えるの?」
「亡き妻と約束しました。娘を幸せにすると。でも……結果はこのざまだ。私には勇気がない。王太子を殺したいほど憎んでいるのに、領民のことを考えると……できない。いや……それも言い訳だ。私は怖いんだ……」
それでも、エルガーはシズクに見つめられて本心を言うしかなかった。なぜだろう、嘘をついてはいけない気がするのだ。これは女神の力なのか?
「何が怖いんですか? 」
「今の生活が壊れることが……愛する妻との思い出が詰まったこの屋敷を手放すことも何もかも。現状を崩すことが怖い。それにどうせできない、失敗すると思ってしまっている自分がいる」
シズクはずっとエルガーを見つめている。視線が体に突き刺さるが、情けなくて顔を上げることもできない。
この女は王家からのスパイだろうか。こんなことを言ってしまったら公爵家は終わるのだろうか。
「エルガー・キャメロン公爵。私と手を組みませんか?」
シズクは思いがけない言葉を口にした。エルガーは弾かれたように顔を上げる。
「私は城の抜け道をすべて知っています。横領をしている貴族も。王家に不満のある者たちも。王家を潰しましょう」
お菓子を持って帰って、とでもいうような気軽さでシズクは変革を促した。
王太子が城の中を案内した。計算が早いから文官たちがこぞって書類を持っていく。
エルガーは仕入れたウワサが本当だったことを知った。彼女は相当したたかだ。
「あなたはなぜそんなことを……ただ召喚されてしまっただけなのに……」
「私が召喚されたからよ。きっと私が召喚されたのは、このためなんだわ。その時歴史は動いた!ってやつ」
嬉しそうに彼女は笑う。いつもは幼い印象なのに、今は老獪な貴族を相手にしている気分だ。
「あと、あの王太子嫌いなの。大して賢くもないのに威張り腐って」
「は、はぁ」
「妃になってくれとか言われてるけど冗談じゃないわ。なんで無理矢理勝手に召喚した相手と結婚させられなくちゃいけないのよ」
シズクは本当に王太子が嫌いなようだ。
決行の日を知らされ、エルガーは仲間を集める。
王家に反感を抱くものは多い。王太子に遊ばれて捨てられた令嬢のいる家やシズクから教えてもらった横領をしていない家に声をかけた。
「本当に大丈夫なのか?」
「さぁな」
「異世界人の女を信用しろと?」
「他に誰が信用できる? 今までの世界がおかしかったんだ。このまま生きていたって今までと同じだ」
「だが……」
「私は娘と妻に顔向けができる人生を送りたい。嫌なら計画から下りてくれ」
「いや、俺だって叔父を投獄されてるんだ。できることなら……」
「次の王はどうするつもりだ?」
「今の王に追いやられた王弟殿下がいいんじゃないか?」
最初は後ろ向きだった貴族たちだが、だんだん計画に乗り始めた。
「公開処刑までしないといけないだろう。民衆は重税に苦しんでいる。処刑の上で減税の発表だ。新しい王を歓迎する雰囲気を作らねば」
***
「シズク、結婚してほしい」
「殿下には婚約者がいらっしゃるでしょう」
手を握ってこようとする王太子にゲンナリする。なんなのかしら、この男。
自分が好かれて当然みたいな大きな態度。
「あいつは昏睡状態だ。このままならもう長くないだろ。君だって会いに行ってたじゃないか」
「はい、昏睡状態の方には話しかけるのがいいと聞いていましたから。殿下の婚約者が昏睡状態なら殿下も困るでしょう? 新しい方を婚約者にするにもいろいろ大変だと聞いて。お世話になっているので恩返しです」
「君はなんて素晴らしい人なんだ。それに比べてアガサは俺を困らせてばかりだ」
王太子ベネディクトはこれまでよほどチヤホヤされていたようだ。
シズクは知識で「男は追いかける恋愛が好き」と知っていた。だから、王太子に縋ったり遠ざけたりうまくやりながらここまできた。
異世界人という珍しさも相まってベネディクトはシズクに夢中になった。
シズクはあの日、アガサの声を聞いた。「もう疲れた」と。
王太子が自分にのめりこみ始めてから適当な理由をつけてアガサに会いに行った。そしてエルガー・キャメロン公爵を焚きつけた。
良かった。あの人がちゃんと立ち上がってくれて。
死んだように生きているあの人は、娘の死を目前にしても立ち上がっていなかった。妻の死の影響があるのだろう。トラウマを前に、恐怖に支配されていた。恐怖に支配されたままでは行動できない。
「殿下にはたくさん恋人がいらっしゃるではないですか」
「拗ねているのか?」
嬉しそうに聞いてくる王太子。こいつとは会話にならない、なんて表情には出さずシズクは少し唇を尖らせる。
こいつ馬鹿だものね。
いくら異世界人相手とはいえ、ほいほい城の抜け道を教え、重要書類もバンバン見せる。魔術が見たいと言えば魔術師を呼びつけて魔術を見せてくれる。召喚でかなり力を使って魔術師は疲弊しているのに。これで、魔術師は数カ月使い物にならないだろう。よくこんなんで国として保てていたわね。
「私は好きな人のただ一人の妻になりたいんです」
「分かった。俺が愛するのは君一人だ」
「じゃあ、婚約は解消してくれますか?」
「あぁ、どうせ死ぬアガサとの婚約などさっさと解消しておけば良かったんだ。公爵から謁見の申し込みが入っているからそこで解消しよう。アガサが勝手に飛び降りたのだから慰謝料も請求しないとな」
あなたのことを好きなんて一言も言ってないんだけど。
王太子に抱きしめられて吐きそうになりながらも、シズクはうまくことが運んでいるので微笑んだ。
***
決行は謁見の間だった。国王とエルガーは距離を開けて向かい合っていた。
「娘は昏睡状態に陥り、すでに二カ月経過しています。婚約者としての業務をこなすことはできないでしょう。娘と王太子殿下との婚約解消をお願いします」
「それはいいが、王妃教育にかかった費用はどうするつもりだ?」
昏睡状態の娘を心配する言葉もなく金の話か。
あぁ、私はなんと愚かだったのか。こんなクズの王家に仕えていただなんて。
「その件に関しましてはこちらをどうぞ」
国王が身を乗り出してエルガーの差し出した書類を見ようとした。
その時だった。部屋の外が騒がしくなる。
シズクから教えられた抜け道から騎士たちが城に侵入してきているのだ。
「何事だ?」
王が立ち上がる前にエルガーは動いた。
「え……ルガー」
エルガーは震えながら王から離れた。王の胸にはエルガーが刺した短剣が突き刺さっている。
身体検査の騎士はシズクの我儘によって入れ替えられていたから、凶器の持ち込みは簡単だった。
「娘はもっと痛い思いをしたはずです」
国王がエルガーの言葉を聞いていたかは分からない。事前に近衛兵も息がかかったものに入れ替えてあったので誰も国王を助けない。
謁見の間に味方の騎士たちがなだれ込んでくる。
「エルガー。逃げようとした王妃は捕縛している。王太子はシズク様の盛った睡眠薬でぐっすりだ」
友人でもある伯爵が声をかけてきた。
「あっけないな。こんなものなのか」
「抜け道を知ったのは大きい。国王派の者たちと交戦しているが、それももう終わるだろう。魔術師は召喚で力を使いすぎて全く役に立っていないしな」
「それより地下牢に早く行け」
伯爵の叔父が投獄されているはずだ。
「王太子と王妃を地下牢に入れに行くから、その時にな」
あれほど恐れていた国王はピクリとも動かない。血が赤い絨毯に染み込んで同化していく。
「うまくいきすぎではないか?」
エルガーの独り言は謁見の間に消えた。
「シズク様、こちらにいらっしゃいましたか」
「えぇ、王太子と王妃の処刑は明日?」
「はい。民衆に示すために早くしようと」
シズクは王太子の執務室のバルコニーにいた。娘が飛び降りた場所だ。
「シズク様のおかげでうまくいきました」
「嫌だわ、様なんて。普通に呼んでちょうだい」
「あまりにスムーズに事態が運んで驚いています。これからどうされるんですか?」
なぜここまでスムーズに運んだのか……シズクを疑いながらエルガーは話す。
「帰るわよ」
「異世界への帰り方は調査中でまだ分からないのですが……」
「帰り方は知っているわ」
エルガーは驚いてシズクをまじまじ見つめた。
「最初から帰り方をご存じだったので?」
「えぇ」
「では……なぜ途中で帰らなかったのですか?」
「あなたが立ち上がらなかったら帰るつもりだったわ」
シズクは手すりによりかかって庭を見ていたが、エルガーに視線を移した。
シズクと目が合うと、エルガーはなぜかとても懐かしい気分になる。
「どこかで私と会ったことが……?」
「嫌だわ、それじゃあ口説いているみたい」
「あ、そうではなく……あなたを見ていると懐かしい気持ちがするので」
シズクはくすくす笑う。
「ふふ。何も言わずに帰るつもりだったけど。良かったわ、エルガー。あなたに言いたいことがあったから」
エルガーは背筋を無意識に正す。この感覚は……妻に叱られる感覚によく似ている。
「ティアナ?」
エルガーは思わず亡き妻の名前をつぶやいた。シズクは違う名前を呼ばれたのに嬉しそうに笑った。
「あなたは外見が変わっても私だと分かってくれるのね。嬉しいわ」
「本当にティアナか?」
目の前にいるのは黒髪のシズクだ。アガサと同じ金髪のティアナとは似ても似つかない。
なのに、エルガーは感じた。目の前にいるのは亡くなったはずの妻だと。
「異世界召喚ってね、死者の国からも召喚されるのよ」
「でも、外見は……」
「あぁ、外見はね、いじったの。私の見た目だったら覚えている人もいるだろうし。見た目からして異世界人!って感じじゃないと召喚を信じてもらえないでしょ。だから死者の国でいろいろ調べて。ニホンってところから来た設定なのよ。死者の国でちょうどニホン人がいてね、いろいろ教えてもらったの。この外見も生前のシズクのものよ」
シズクは得意げに髪の毛先をくるくる指に巻き付けた。外見はティアナに似ていないが、ちょっとした仕草にティアナを感じる。
「他の世界につながると悪魔やモンスターが召喚される場合もあるから、もう異世界召喚はやらない方がいいわ。今回は召喚陣が死者の国につながったから良かったの。私もこの時を待っていたから」
シズクはウィンクする。ティアナが機嫌のいいときによくやっていた仕草だ。
「ティアナ……すまない。私は君との約束を……」
声が出ない。目の前に姿は変わっても死んだ妻がいる。二度と会えないと思っていた妻。
出産の後、意識を取り戻すことなく死んでしまったティアナ。彼女は出産前に何かを悟っていたかのように「この子を守って。必ず幸せにして」とエルガーに言った。
「あら、あなたは約束をちゃんと守ってくれたわ。私が死んで腑抜けていたから心配だったけど、今回アガサのためにちゃんと立ち上がってくれた。怖いわよね、王家に逆らうって」
近付こうとしたエルガーをシズクは手で制した。
「外に人目があるわ。触れるのはよくない」
「やっと君にまた会えたのに……」
「死者は死者の国に帰らないといけないの。あなたに触れたら未練が残っちゃうわ」
バルコニーの手すりにシズクは腰掛ける。
「死者の国には時間がないの。だから私は死んで死者の国に行って、アガサが飛び降りることを知った。この世界で言うところの未来を見たの」
エルガーは伸ばした手を引っ込めた。シズクの姿は涙でぼやけている。
「さらに私は知った。この世界に召喚されることを。だからこの国とは外見も文化も違うニホン人について勉強したのよ。なかなかね、あっちの世界でもパッと思ったらパッと理解できるってことはないわね」
「最初から王家を潰すつもりだった?」
「えぇ、そうよ。私が召喚されて王家を変革することは決まっていた。だからスムーズにいった。でも、すべての未来が見えるわけではないの。死者の国に行っても、やることがあるから。だから、今回あなたが立ち上がって国王を殺してくれるのかまでは自信がなかった」
「ティアナ以外が召喚される可能性もあった?」
「いいえ、私が召喚されることは決まっていた。アガサが私を呼んでくれた。それは、私が生まれる前から決まってたの。生まれる前のあなたとも約束したわ。私は一度死ぬけれど、こうやってあなたの前に戻ってくるって」
「ごめん……よく分からない。理解が追いつかない」
「無理もないわ。この世界とは価値観なんかも全く違うもの。あちらでは生まれる前に一人一人ストーリーを描いているんですって。どんな人生を体験したいか設計図を用意するの。そして人生を体験しに生まれてくるのよ」
エルガーは激しく混乱していた。頭が理解することを拒絶している。
そもそも目の前のシズクがティアナだというのもやっと理解し始めているところなのだ。目で見てしまえば彼女はシズクだ。でも、心で見れば彼女はティアナだった。
「私は召喚によってこちらに少しの間戻ってこれた。あなたにやっと伝えられるわ」
エルガーは顔を上げた。拍子に涙がこぼれる。
これほど泣いたのはティアナを亡くして以来だ。自分がなぜ泣いているかも分からない。理解が及ばない。目の前にいるのは本当にティアナなのか?
「私をあなたの妻にしてくれてありがとう。私はあなたの妻で幸せだったわ」
思わぬ言葉にエルガーは息を吞んだ。
「死ぬ前に意識を取り戻すことができなくて、言えなかったの。あなたはずっと気にしていたでしょう?」
エルガーは頷く。
「私に嫁がなければ……伯爵家出身の君は……苦労もなく、早死にしなかったはずだ」
「それは違うわ。言ったでしょう。すべては私たちが生まれる前から決まっていたことだと」
「君には他の家に嫁ぐ選択肢もあったはずだ」
「それはないわ。だって生まれる前に約束したもの。あなたと結婚するって」
目の前のシズクの姿をしたティアナは空を見上げる。
ちょうど流れ星が落ちるところだった。
「そろそろ帰らなきゃ」
「行かないでくれ。もっと話したい」
「私が帰らないとアガサが目覚めないわ。あの子の意識はさまよってるの。私が帰るときにこちらの世界に連れ戻すから」
「私はまた愛する君を失うのか? そんなの耐えられない」
エルガーは素直に口にした。ずっと言えなかった。
君を失って悲しいと。貴族社会で妻を亡くして悲しいなんて言えなかった。すぐに付け込まれるから悲しくない振りをしないといけなかった。次の妻をとせっつかれるのをのらりくらりと躱すのがやっとだった。
「あら、失うわけではないわ。姿が見えないだけ。あなたは私が姿を変えても私だと分かってくれたわ。私はいつもあなたとアガサをサポートしている。いつもなんらかのサインを送っている。今回はこの体でアガサに絵本が読めて良かった」
出産後、ティアナはすぐに亡くなった。アガサに絵本を読んでやったこともないのだ。異世界のおとぎ話をしていたのはそういう理由だったのか。
「まったく。この国の絵本って王子様と結ばれるお話ばっかり。そんなの娘には読めないわ。ニホンの絵本の方が面白いし」
シズクはくるりと方向を変えて、エルガーに背を向けて座った。
シズクの体がだんだん透けてきて向こうの景色が見えている。
「じゃあね、エルガー。私はいつもあなた達を見ているわ。ずっとあなたを愛している」
「ティアナ!」
シズクの体がバルコニーから落ちる。
エルガーは慌てて手すりに駆け寄った。落ちたなら叩きつけられているはずの地面には誰もいない。
彼女は一瞬で消えてしまった。
「エルガー! ここにいたのか。地下牢に捕らえられていた者たちを解放したぞ!」
「掃除したら王弟殿下をお連れしよう! 血にまみれた玉座になってしまうからな」
呆然としていたエルガーのところに仲間が駆け寄ってくる。
「おい、エルガー! お前の家から使いだ。アガサ嬢が目を覚ましたと!」
「なに! じゃあ早く帰れ!」
「明日からが本番だからな!」
王家を潰すという目的を達した貴族たちの士気は高い。彼らに背中を押されてエルガーは馬車に乗せられた。
まだ夢を見ているかのような気分で屋敷に帰る。もう夜なのに屋敷中が明るく慌ただしい。
見た目は全く違う。でもあれはティアナだった。エルガーの愛したティアナだった。
「おとうさま」
ベッドに横たわったままだが、久しぶりに聞く娘の声に迎えられてエルガーの目にはまた涙が浮かんだ。
「みて、流れ星が」
アガサのベッドの側の窓から空を見上げる。空には流れ星がいくつも降り注いでいた。
これがティアナの言っていたサインだろうか。
この世界からいなくなってもティアナ、君は私を導いてくれた。でも、ティアナ。やっぱり私は君に会いたい。もうすでに君が恋しい。
娘の手を握り、エルガーはいつまでも空を眺めていた。