90.使役契約と翌日の朝
宗谷は山小屋の中央を陣取り、自らの血と黒インクにより、赤と黒の方陣を描き終えた。完成した方陣の内側には、猫妖精のシャミルが不信そうな表情で佇んでいる。
メリルゥは依頼人のペリトン、御者のラムスと共に、馬小屋で荷馬の見張りに付いている。宗谷とシャミルの他に山小屋に居るのは、ミア、アイシャ、それと小屋の隅で眠っている、リンゲンの狩人ハンスのみである。
「……上位使魔。……大導師級の魔術を……ありえない、それじゃ、まるで」
アイシャは唖然とした表情で、方陣が描かれる様子を見ていた。
大導師級。六英雄である白銀のレイと灰のラナク、そしてシャミルの以前の主であった、イスカール山の隠者が辿り着いた位。人間では両手の指で数える程しか居ない、魔術の頂に近い領域である。
ミアは特に驚いた様子も無く、宗谷を見つめていた。彼女は既に宗谷の実力と、その能力を公にしたがらない事を知っていた。
「ミア。……ソウヤさんは本当に」
「アイシャさん」
ミアが口元にひとさし指を当てると、アイシャは口を噤んで、丸眼鏡を掛けなおし、興味深そうに方陣を見た。
方陣の外周の縁には、ダークグレーのビジネススーツを纏った、黒眼鏡の男。
右手には、第二受付嬢のシャーロットから譲って貰った、魔石があった。
「……ソウヤ。本当に出来ると言うのか?」
「出来るさ。シャミル、君こそ使役契約の意味を理解しているのか。少なくともリンゲン救援の手伝いはして貰う」
「……一体何者だ。どうして力を隠している。……その力を振るえる舞台に、何故上がらない」
「何者かは、君への課題としよう。知っていれば今すぐわかるさ。……隠す理由か。それは、もしかしたら君の主だった、イスカール山の隠者と同じかもしれないな」
宗谷が笑うと、シャミルのオッドアイが、微かに揺れ動いた。
(アイシャくんが居るが、止む無しか。騒ぎ立てないでくれると良いが)
宗谷は大陸で扱われる共通語ではなく、魔術師のみが知る魔術語による詠唱を行う事にした。この上位使魔の詠唱には、自らの本名が必要だったからである。ここには、今はどうしても本名を知られたくない相手がいた。
「――幻獣シャミルよ。大導師レイの名に於いて、今ここに命ずる。我が契約の儀によって、汝、我が使魔とならん。『上位使魔』」
――宗谷の手にした魔石が輝きを放つと、方陣が眩い光に包まれた。
◇
翌朝。宗谷は山小屋で目を覚ました。
夜中鳴り続けていた雷は止み、代わりに早起き鳥の鳴き声が聞こえている。今はまだ夜明け前といった時刻だろう。空模様は、ここからでは何とも分からないが、天候面における、最悪の事態は回避出来たと思っても良さそうだった。
昨日の夜、山小屋を出発したタットが順調ならば、今頃イルシュタットに到着し、冒険者ギルドの討伐隊が準備を行っている筈である。道中無事である事を願いたかった。
宗谷は傍らに置いてある黒眼鏡を手に取り、掛けて辺りを見回すと、ミアが少し離れた処で毛布に包まり眠りについている。彼女は契約の儀が終わった後、宗谷の失った血を取り戻す為、三回の負傷治療を行使している。起こすのは後回しで良さそうだった。
他に山小屋に居たのはアイシャと、もう一人、黒髪の少年あるいは少女とも取れる、中性的な顔立ちをしている、見知らぬ者。
「……おはよう。アイシャくん。……それと、君は」
「私です。妖精猫のシャミル。……今後とも、宜しくお願いします。我が主」
恭しくお辞儀をするシャミルは、シックなデザインの執事服を纏い、眼は黒猫の時と同じように、金色と碧眼のオッドアイ、黒髪の頭部分は自己主張の為か、猫耳の形のように尖っていった。
元の主である、イスカール山の隠者に仕えていた頃のスタイルなのかもしれない。考えてみれば、街に買い出しに行く時には、少なくとも人の姿になっている筈である。
(人姿化か。……それはいいが、随分キャラが違くないか)
宗谷は呆れ顔で、寝ぼけ眼のまま、予め近くに用意した水筒の水を飲んだ。冷たい喉越しと共に、少しずつ頭が冴えてくるのを感じる事が出来た。
「あの。……ソウヤさん」
アイシャが茶色の三つ編みを小刻みに揺らしながら、何かを言いたげにしていた。両手には、あの六英雄物語を抱えている。宗谷はそれがメッセージのように思えた。
上位使魔の契約の儀において、宗谷は本名を明かす必要があった。六英雄の一人、白銀のレイ。魔術を知る彼女は恐らく理解していただろう。
「アイシャくん、昨日の事なら、何も聞かなかったという事で。魔術語を使った意味を理解して欲しい」
「……あ、はい。わかりました。一つだけ、お願いしていいですか? ……本の裏表紙に。本名と二つ名付きでお願いします」
「確か、永遠なる保護が施されているのではないのかね? 書き込みは弾かれるだろう」
「裏表紙には、さらに上から羊皮紙を張り付けています」
「……わかった」
思えばミーハーそうな娘である。宗谷はアイシャから渡された、六英雄物語と羽根ペンを手に取った。裏表紙の余白には灰のラナクの名が既にあり、六分の一を占めていた。六英雄コンプリートでも目指しているのだろうか。だとしたら、黒のブラドから貰える可能性はゼロに近いだろう。
宗谷は軽い眩暈を起こしつつも、『白銀のレイ』と羽根ペンを走らせた。
「……一つ断っておくが、それは僕が執筆したわけではない。もし誰が書いたか、わかったら教えて欲しい」
それはきっと、性格が悪い奴だろう。
宗谷はため息を吐くと、ゆっくりと立ち上がり、出発の準備を整える事にした。
「……ソーヤ、起きてるか? 雨は弱まってきてるぜ。少し霧が出てるけどな」
呼び声と共に、メリルゥが入り口に姿を現した。外套に、緑髪のお下げが二つ。既に出発の準備は整っているようである。
「ソウヤさん、おはようございます」
メリルゥに少し遅れて、依頼人のペリトンも姿を見せた。
「やあ、メリルゥくん、おはよう。……ペリトンさん、おはようございます。今日も
一日どうか宜しくお願いします」
二人に挨拶を終えた宗谷に対し、メリルゥとペリトンの二人は、真剣そうな眼差しを送っていた。まさかとは思うが、白銀のレイである事がばれたのだろうか。宗谷は訝し気にアイシャを横目で見たが、アイシャは違うと言わんばかりに首を振っていた。
「……メリルゥくん、どうした。何かあるのかな」
宗谷は探りを入れるように、メリルゥに質問してみる事にした。
「……ソーヤ。もしリンゲンの救援に行きたいなら、わたし達に構うな。……そのシャミルって奴も連れて行くんだろ。ペリトンさんとも話はついてる。帰りの護衛はわたし達だけでも構わないって」
メリルゥの言葉を肯定するように、ペリトンも不安そうながら静かに頷いた。
宗谷の心は揺らいでいた。ペリトンの護衛依頼の為、リンゲンにすぐ向かえないのは止むを得ない。その大義名分は無くなった。
だが、宗谷とシャミルの二人で解決出来る状況かどうかは極めて怪しいだろう。しかし、急いで向かう事で救える命が一つでもあるかもしれない。
宗谷は少し考えた後、メリルゥとペリトンの方を見て、言葉を紡ぎ始めた。
「……僕がリンゲンへ向かって構わないのであれば、是非行かせて欲しい。……昨日タットくんが勇気を見せた。ペリトンさんも、リスクのある決断をしてくれている。……僕も何もしない訳にはいかないのでね」
『面白かった』『続きが気になる』と思われましたら、
広告下の☆で応援を頂けると大変励みになります。




