9.冒険者の宿にて
二人が中央広場から移動する途中、雨足はさらに強まっていった。ざあざあと強い雨音と共に、断続的に雷鳴が轟いている。そんな中、急ぎ足で息をつく間も無かった二人は、ようやく宿の入口の軒下で雨宿りをする事が出来た。
「急だね。にわか雨なら良いが。ミアくん、大丈夫かね?」
「ソウヤさんこそ。ごめんなさい、外套が一着しかなくて」
ミアは防水が施された、フード付きの外套を脱ぎ、雨露を玄関で払い落とした。
「僕の方こそ余計な心配をかけて、かえって申し訳ない。この衣服は勝手に乾くように出来ている。まあ髪が少々濡れてしまったかね」
宗谷は両手を広げると、指を櫛代わりに雨に濡れた前髪を後ろに流した。
「わあ、似合いますね」
「ありがとう。以前していた仕事の商談の時は、このスタイルなんだよ」
「ソウヤさんは魔術師ですよね、以前はどんなお仕事を?」
「秘密としておこう。冒険者より安定した堅い仕事だよ。それなりに待遇も良かった」
宗谷は微笑を浮かべながら、昨日まで勤めていた、現実世界の会社の事を思い返していた。地方都市にある商社の営業二課課長。業績は安定し、堅い仕事であった。
それ故に刺激が足りないものだったと、今になって感じ始めている。もし今すぐに記憶を残したまま現実世界に戻っても、仕事のモチベーションは続かないかもしれない。
(辞表を出せなかった事だけが心残りだ。役職と仕事に未練は無いが、急な失踪となれば迷惑をかけてしまっているだろう)
同僚に対し申し訳ない気持ちを漠然と抱いてはいたが、以前の仕事の興味は次第に薄れていくのを感じていた。もう暫くすれば思い返す事もほとんど無くなるだろう。
「こんばんはー」
ミアが宿の入口の扉を開いた。扉に備えられた鳴子は聞こえ辛かったが、外から響く雨の轟音が、客の来訪を伝える役割を十分に果たしていた。
「……いらっしゃい。雨にやられなかったかね?」
入り口に敷かれた絨毯の先、正面のカウンターに座っている中年の男が二人に声をかけた。
「……おや、ミアちゃんか」
「主人、お久しぶりです。酷い雨ですね」
「そうだな。まあ、雨の方が客足は良い。この雨の中、外で何かしようって奴はそうはいないからな。……しばらく見なかったが、また野草摘みに行ってたのかね?」
「ええ。少しトラブルがあったのですが、何とか無事帰って来れました」
「そうか。最近は草原や山岳でも、よく野盗が出没すると聞く。君みたいな若い娘は特に気を付けなさい」
「……はい。今後一人で出歩くのは自重しようと思います」
ミアは単独行動の危険性を、宿屋の主人にも釘を刺されていた。今朝方も、宗谷が注意したばかりで、これなら流石に考えを改める筈である。
「……処で泊まりかね? まあ、この雨だしな。そうなんだろうと思うが」
「主人、何か都合が悪いですか?」
「うむ。いや、さっきの雨で、お客さんが駆け込みで沢山来てね。もう空き部屋が一つしか無いんだよ」
「……えっと。それは、何処の部屋でしょう」
「一人部屋。つまり個室だ。それで良ければ。……後ろの眼鏡の方は、ミアちゃんの連れかね?」
「あ、はい」
「御代は一人分でいいよ。銀貨五枚。一緒に泊まるかは、まあ、君たち次第だが」
宿屋の主人は宗谷とミアの関係にまで踏み込んでは来なかった。主人の言う言葉の意味を、ようやく理解したミアは一瞬固り、それから、どうしようといった風に目を泳がせた。
「ミアくん、君が部屋で寝るといい。というより、僕がお金払うわけではないから」
「それではソウヤさんは、どうするんですか?」
「さて。夜明けまで瞑想でもしようか。魔術師らしく」
「……ソウヤさん、魔術を行使してから、まだ寝ていませんよね」
宗谷は野盗を追い払う際に、草原で三種の魔術を行使している。その内の一つは特に消耗の大きい高位の術である物質転移の魔術だった。魔法を行使する為の所謂魔法力は一定時間の安眠をとらない限り回復する事は無い。質の高い眠りにつきたい状況なのは間違いなかった。
「まあ、それは確かだが。今は安全な街にいる。急ぎで魔力が必要な状況でも無いだろう」
「私は二度の負傷治療しか行使していません。魔力には余裕がありますから。ソウヤさんが泊まるべきでは?」
「おいおい。ミアくん、君はどうする?」
「えっと。……では夜明けまで、大地母神様に御祈りをしましょう」
「馬鹿げている。それこそ今する事ではない」
「それなら、ソウヤさんの瞑想だって、そうだと思います」
「……お二人さん、とりあえず部屋を見てみるかね? どうにしたって、最後の一部屋だ。とりあえず、予約済という事で構わんかな」
宿屋の主人は『満室』とかかれた木の札を引き出しから取り出すと、問答をする二人を横目に、玄関の外扉に下げた。
◇
案内された部屋は二階の南側に配置されていた。テーブル。タンス。椅子。ドレッサー。家具は一通り揃っている。そしてベッドが一つ。
「それでは、ごゆっくり」
宿屋の主人はそう言い残すと一階に引き返した。それはおそらく定型であり、他意は無いのだろうが、含みがあるように聞こえなくもない。
「簡素な部屋だね。まあ、銀貨五枚ならこんなものだろう。さて、ミアくん。どうする?」
「ソウヤさん、どうしましょう。……あの、思ったより」
ミアは顔を真っ赤にしていた。思った以上に部屋が狭かったのだろう。大体四畳半といった所だろうか。
「……正直言うとね。僕は、仮に君が隣に寝ていようと何の問題もない。どうという事もないのだよ」
宗谷はスーツの上着を脱ぎ、ハンガーにかけ、タンスにしまい込む。
「だから、ミアくん、君に任せるよ。ただ、君が外で寝るというのであれば、ここは君に譲って僕が外に出よう」
宗谷はそう言い終えて椅子に腰を掛け足を組むと、顔を赤らめるミアに対し微笑みかけた。
(与えた恩に付け込んだ卑怯な言い方か。――まあ、こんな事態だ。気分としては本当に構いやしないのだが)
宗谷が窓を見ると、丁度、稲妻が落ちた。部屋が光り、宗谷の悪魔のような薄い笑みと、思い悩む天使のような、金髪の少女の顔が浮かび上がった。外はただただ雨と雷の共演が続いている。
「……あの、仕方ありませんよね。状況が状況ですし」
意を決したのか、ミアが口を開いた。
「あのですね、これは仕方がないと思います。……だって、外はこんな大雨で、部屋は一つで、それじゃ、仕方ないじゃないですか。……仕方ないですよね?」
ミアは無意識なのか仕方ないという言葉を何度も口にしていた。狼狽しているのだろう――その様子を見て、宗谷は笑いそうになる口を押えた。