88.一刻争う状況と判断
「……赤角……ル、ルギノ村を焼き尽くした煉獄の悪魔……!?」
声を震わせながら、アイシャが呟いた。
彼女もイルシュタット南西に存在したルギノ村が、半年前に赤角に滅ぼされた事件の事を知っていたようだった。
「アイシャくん。赤角は、煉獄の悪魔と呼ばれているのか」
「い、いえ……それは、あたしが勝手に名付けただけです」
「……なるほど」
そういった年頃なのだろう。宗谷は赤面するアイシャから視線を反らすと、何時の間にか、メリルゥが険しい表情で、宗谷の傍に立っていた。
彼女の顔には、うっすらと汗が滲んでいる。
「……ソーヤ。どうして、赤角の仕業だと思った?」
メリルゥが宗谷に詰め寄った。微かな声の震えを隠したい為か、間近に居る宗谷以外には聞こえ辛そうな、か細い声だった。
「それについては、僕が推論を述べるより、ハンスさんに聞いていた方が早いだろう」
宗谷は両手を広げ、詰め寄るメリルゥを制すると、毛布に包まって震えている、リンゲンの狩人ハンスの方を向いた。
毛布に包まった彼は、ようやく恐慌状態から回復し、落ち着きを取り戻しつつあった。
「……お……俺は狩りに出かけていて……偶然助かったんだ。……丘から街を見下ろすと……炎を纏った怪物が、次々と建物を焼き払っていた。……あれは……まるで」
「……炎魔神か?」
表情を強張らせたメリルゥが、ハンスに炎の上位精霊の名を問うと、ハンスが歯をかちかちと鳴らし、目を大きく見開いたまま、無言で頷いた。
宗谷はメリルゥの呟きに、恐れが混じっているのを感じた。生命樹から生まれた森妖精は、炎を苦手としている。彼女が警戒心を露わにしたのは、種族としての本能による物かもしれない。
「ハンスさん。他にどんな魔物を?」
「……色付きだ。俺が見た範囲で、青銅色が二匹と、銀色が一匹。……ちっこい羽根の小悪魔も沢山飛んでたと思う……俺は、イルシュタットの山道に向けて逃げだした。……そうしたら青銅色に見つかって……崖を滑りながら撒きつつ……何とか、ここまで……」
ハンスは苦しそうな表情を見せつつも、絞り出すように言葉を綴った。先程の顔や腕の怪我は逃走した際に負ったのだろう。
そして、彼の言う青銅色というのは、夕方過ぎに霧雨の山道を封鎖していた青銅の魔兵の一団かもしれない。
やはりイルシュタットへ向かう山道を封鎖し、リンゲンから逃れる者を、待ち伏せしていたのだろうか。
(確率は低いと思うが、これからイルシュタットへ侵攻、先程の青銅の魔兵はその斥候という可能性もあるか。……いずれにしろ、この山小屋も安全とは言い難い)
青銅の魔兵の一団を全滅させた事が、リンゲンに居た白銀の魔将にどんな考えと行動を齎すか。きわめて判断が難しい処だった。
いずれにしろ、この山中から早く離脱したほうが良いのかもしれない。とはいえ、外は真っ暗闇、そして土砂降りの雷雨である。荷馬車が夜間を悪路を移動するのは困難を極めるだろう。
「……ハンスさん。銀色の魔将は、角が赤い色をしていたかどうか、覚えていますか?」
「……赤い角……そう言われてみると、そうだった気がするが。……自信が無い。……銀色は巨体で……青銅色は、赤黒い剣を持っていた気がする」
宗谷の質問に対し、ハンスは頭を抱えながら、目撃した時の情景を思い返しているようだった。
赤黒い剣は大爆発を引き起こす、炎霊崩壊が込められた剣と同一の物である可能性がある。従わせている青銅の魔兵全てに、あのような武器を与えているのかもしれない。そうだとしたら、青銅の魔兵の始末にも慎重さを求められる事になるだろう。
そしてハンス曰く、白銀の魔将は赤い角だった気がするとの事である。断言する程の自信は無いようだったが、宗谷は最初の予想通り、見間違いでは無いと踏んでいた。
(もし見間違いで、最悪の想定だと、赤角とは別に、もう一体銀色の魔将が存在する事になる。……その時は、最早どうにもならないかもしれないな)
銀色の魔将を二体同時に打ち倒せる強者は、白い聖女くらいのものだろう。宗谷は頼れる旧友が居なくなった事に、心細さを感じずにはいられなかった。
「……ペリトンさん。……リンゲンまでの護衛は、中止でいいのか」
メリルゥが、呆然としたままの表情のペリトンに問いかけた。
彼女が行ったのは、あくまで依頼に対する形式的な確認で、ペリトンの荷馬車がリンゲンまで向かう事は、最早有り得ない事だった。乗せるべき葡萄酒など、最早この先にあるリンゲンには無いのだろうから。
「……ははは。……ああ。……何と言っていいのか。悲しいです。ですが、言葉が上手く纏まりません。……ええ、リンゲン行きは中止して、明日にでもイルシュタットへ引き返しましょう。……ハンスさん……申し訳ない……御勘弁を」
ペリトンは頭を抱え、顔を伏せながら、最後は消え入るような声で呟いた。
今、彼の頭の中に何が過ぎっているのかは、想像がつかなかった。だが、リンゲンの狩人であるハンスとも顔見知りであり、今までの発言からも、リンゲンの住民と交流があった事だけは想像がつく。葡萄酒の買い付け失敗と販路の断絶。それ以上の衝撃を受け、打ちひしがれているのは間違いないだろう。
「……ソーヤ。非常事態だ。報告にイルシュタットに帰るからな。オマエも一緒に来るんだぞ」
「承知してるよ。護衛の仕事はまだ終わっていない。……メリルゥくん、どうして僕にそんな確認を」
「……オマエは、一人でも救援に行くとか言い出しかねないから、釘を刺しておくんだ。……そんな事は、わたしが許さないからな」
そう言い終えると、メリルゥは山小屋の壁に乱暴に寄り掛かると、拳で床を一叩きして悔しがっていた。そして瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
(……メリルゥくんの買い被りだ。僕にそのような力も、ましてや正義感も無い)
黄金の勇者と白い聖女の二人なら、この困難な状況を、溢れんばかりの正義感に任せ、危険な土砂降りの中でさえ、リンゲンに急行したかもしれない。宗谷には、そのような胆力は持ち合わせていない。そして古砦での白銀の魔将との一騎打ちで、辛くも勝利を拾える程度の実力である。単純な戦闘力も足りないだろう。
宗谷は居た堪れなくなり、メリルゥから視線を反らしたついでに部屋を見渡すと、アイシャは毛布を頭に被り、部屋の隅で震えていた。タットは困った表情で、何か言いたげにしている様子である。何か意見があるのかもしれない。
依頼人のペリトンは、先程の中止宣言から項垂れたままで、御者のラムスがそれを心配そうに見ていた。そしてリンゲンの狩人ハンスは毛布に包まったまま横になっている。リンゲンの凄惨な光景と、青銅の魔兵からの逃亡劇。疲労が限界に達したのだろう。
「……ソウヤさん」
ミアが宗谷の名前を呼んだ。
彼女は神官の杖を傍らに置き、床に座っていたが、相変わらず猫妖精のシャミルを抱えたままの体勢である。居心地が良いのか、シャミルはミアから離れようとしなかった。
「ミアくん。聞いての通りだ。……難しい判断だが、なすべき事をなそう」
宗谷は浮かない表情のまま肩を竦めた。メリルゥに釘を刺されたが、リンゲンの街の事が全く気にならない訳ではなかった。今急いで向かえば、もしかしたら助かる命があるのかもしれない。
だが、物事には順位があり、一番優先されるべきは、今の仲間と引き受けた荷馬車の護衛依頼を完遂する事である。宗谷はそのように自分に強く言い聞かせた。
「……ソウヤ。リンゲンの様子が気になるようだな」
ミアに抱き抱えられたまま、沈黙していたシャミルが、宗谷に対し問いかけた。
その声に気づいたのか、山小屋に居たハンス以外の全員が、ミアの抱き抱える黒猫に視線を向けた。
「……ミア。……その黒猫は……今、喋った。……まさか……猫妖精!?」
被った毛布の隙間から視線を送っていたアイシャが、驚きのあまり、素っ頓狂な声をあげた。知識神の神官だけあって、その博識ぶりだけは、彼女の取り柄と言って良さそうだった。
「ほう。良く知ってるね、眼鏡のお嬢さん。そして、私が、馬小屋の幽霊の正体だ」
タットとラムスが呆気に取られていた。この黒猫が馬小屋に潜んで、霧の幽霊を操っていたとは、想像もつかなかったのだろう。
シャミルは悪びれのない様子で、さらに続けた。
「……困難な状況のようだ。脅かした御詫びという事では無いが、力を貸してもいい。私にとってもリンゲンは多少縁があった街でな。……それに悪魔は大嫌いだ」
シャミルは、なんて事のないように言うと、大きな欠伸をした。
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