87.逃れ辿り着いた者
山小屋の入り口の扉は、開放されたままで、玄関付近に雨が吹き込み、水溜まりが出来ていた。
宗谷が山小屋を見渡すと、まず口髭を生やした、見知らぬ男が仰向けに横たわっているのが目に映った。黒の短髪で、雨泥で汚れた革鎧を身に纏っている。床には誰かが用意したであろう毛布が敷かれ、脇には彼の私物と思われる、長弓と矢筒が置かれていた。
傍らではメリルゥとタットが、手拭いで雨汚れを拭き取り、横たわる男の怪我の様子を確認していた。
正面では、アイシャが神官の杖を握りしめ、詠唱の準備をしていた。突然の出番による緊張からか、手が震えている。横たわる男は顔色が悪く、顔や腕に痛々しい傷があり、泥汚れた身なりも相俟って、随分な有様だった。先程のアイシャの悲鳴は、この男を目にして発した物だろう。
「ペリトンさん。彼は?」
宗谷は、少し離れた場所で、腕を組みながら周囲を警戒しているペリトンに話かけた。隣には荷馬車の御者であるラムスが並んで立っていた。
「……ソウヤさん。今貴方を呼びに行こうと考えていました。……倒れている男性は、リンゲンの街の狩人で、ハンスさんと言います。……どうやら怪我をしているようで。狩りの最中に足でも滑らせたのでしょうか?」
不安そうに呟くペリトン。どうやら倒れているハンスという男は、顔見知りのようだった。
怪我の原因は何とも言い難いが、もし本人が話せる状態であれば、アイシャの魔法が終わった後に聞いた方が早いだろう。
「……そういえば、ソウヤさん。ラムスが見たという、靄のような幽霊は?」
「結論から言うと見間違いです。ペリトンさん、御安心を。幽霊は居ません。荷馬も無事ですよ」
「そうですか。……それは良かった! いやはや、これ以上不穏な事が起きなければ良いのですが……」
ぺリトンが隣に立っているラムスを疑わしそうに見ると、御者のラムスは気を落とし、申し訳無さそうな表情を浮かべた。
「ラムスさん、気に病まずに。幽霊のような物の原因はありました。後で説明します」
確かに霧の幽霊は、馬小屋の見張り番をしていたタットとラムス二人の誤認であったが、魔術で工夫を凝らされた物だったので、見抜けなかったのは仕方の無い事だろう。
(とはいえ、猫妖精の仕業と言っても信じて貰えそうにないな。後でシャミルを皆に紹介するべきだろう。……出てきてくれるだろうか)
一言謝ってくれと伝えたら、拗ねて隠れてしまいそうである。
猫妖精は友好的な存在だが、気まぐれで悪戯好きとも言われている。その点においては、まさにシャミルは典型的で、一時期人間に仕えていても、その習性は消えていないようだった。
「――知識神よ、彼の者に癒しの奇跡を。『負傷治療』」
アイシャの神聖術が完成し、ハンスに淡い光が包み込むと、顔や露出した腕についている擦り傷が、綺麗に再生していく様子が確認出来た。
「……眼鏡の嬢ちゃん……神官か……助かった……ううっ」
「いえ。……先程は悲鳴を上げてすみませんでした。……もし体調が戻らないようでしたら、念の為に解毒をした方が良いかもしれません。あたしは無理ですが、もう一人、ミアという優秀な神官が居ます」
ハンスは意識を取り戻したようだったが、アイシャの神聖術では全快とまではいかないようで、顔には油汗が浮かび、呼吸も相変わらず乱れたままだった。
神聖術による応急処置が終わったのを確認すると、タットが毛布でハンスの身体を包み込んだ。
「大丈夫か、おっさん。……少し休めよ。何か食うか?」
メリルゥが水の入ったコップを手渡し、ハンスに空腹かどうかを訊ねた。
「……すまない……いや……そんな事より……大変だ……ごほっごほっ」
「……どうした。財布でも落としたか? それなら、わたし達もリンゲンに行くんだ。探すの手伝ってやるよ」
コップの水にむせて、咳込みながら、息絶え絶えに呟くハンス。
メリルゥはその様子を見て、笑いかけて、落ち着かせようとしていた。
宗谷は視線を落とし、思考を巡らせていた。
山道を封鎖する青銅の魔兵。炎の精霊が宿った赤黒い魔剣。猫妖精シャミルが見た巨大な煙。怪我をして山小屋に辿り着いたリンゲンの狩人ハンス。
導き出される一つの解答は、宗谷の悪い想像が形付いた物だった。
それをすぐさま言葉にしなかったのは、ただ、そうならないで欲しいという願望に過ぎない。
宗谷は眼鏡を抑えると、ハンスに背を向け、馬小屋の入り口に立ち、降りしきる雨を仰ぎ見た。
「リ…………リンゲンに……悪魔の……集団が………壊滅……う……うああああああああああああ」
ハンスは呟いた光景を思い出したのか、頭を乱暴に掻き毟りながら、絶叫した。
耳を劈く叫び声と、信じがたい内容に、山小屋は一瞬にして静まり返った。
「……お、おい、オッサン……今なんて言ったんだ?」
「……なっ!? ……う、嘘でしょう?」
「……ハンスさん!? ……リンゲンはどうなったんですか!?」
そして畳みかけられる言葉の雨。ハンスは錯乱気味になり、落ち着くまで、しばらく時間がかかりそうだった。
混乱の中、ただ一人、宗谷は思考を巡らせていた。
街道を封鎖していた青銅の魔兵と小悪魔の一団。思い返すと、その集団はある目的を与えられていたように思えた。
(……リンゲンからイルシュタットに逃れる人間を始末する為。そしてイルシュタットからリンゲンに向かう者を退ける為だろうか)
霧雨の中で遭遇し、半ば特攻のような攻撃を仕掛ける青銅の魔兵と小悪魔達。その行動はあまりにも杜撰だったようにも思える。
宗谷は交渉の余地があると見て、斬り合いの中でそのように伝え、山道を封鎖をしていた理由を尋問し聞き出すつもりだった。だが、青銅の魔兵は手にした魔剣に込められた炎霊崩壊を発動させ、自爆攻撃を仕掛けた。
(眼前の敵と死ぬまで戦え。……そういった類の強制を行えば、この手の駒は作り出せる)
もし青銅の魔兵に、そのような行動を強制させる権限を持つ存在が居るとしたら、それは暗黒術を操る闇神官、あるいは、より上位の色を持つ悪魔で、いずれも強制という命令を強制させる上級の暗黒術があれば可能であった。
そして馬小屋に居た妖精猫が目撃した、リンゲン方面で立ち昇った巨大な煙。そして狩人ハンスの証言。
炎の上級精霊術の炎霊崩壊。上級暗黒術の強制と悪魔召喚。そして人間の街を炎で焼き払う習性と嗜好。
炎の精霊術と暗黒術を操る二重術師の白銀の魔将。宗谷はその存在に心当たりがあった。
「ソウヤさん……今、叫び声がしましたが、何かありましたか?」
ミアが不安そうに、馬小屋の入り口から顔を覗かせた。
神官の杖を片手で持ち、猫妖精の黒猫シャミルを片腕で抱きかかえている。
「……ミアくん、落ち着いて聞いてくれ。リンゲンが怪物に襲われたようだ」
「……えっ? ……ああっ……昨日、シャミルさんが見たという煙……まさか」
呆然とするミアの声は震え、神官の杖で、よろめきそうになる身体を持ちこたえていた。
「ああ。赤い角の悪魔、赤角が出現したかもしれない」
宗谷はセランやルイーズから聞き及んでいた、白銀の魔将の名を挙げた。
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