85.膝枕と霧の幽霊
宗谷はミアの膝枕で、仰向けになりながら横になっていた。
目を閉じて沈黙したまま、既に五分程が経過している。身動き一つ取る気が起きないのは、その心地良さからか、あるいは気まずさからか。
「……雨、止みませんね。それに雷も。ソウヤさんと出会って間もない、あの日の事を思い出します」
先にミアの言葉が、二人の間にあった沈黙を破った。
彼女も、二人が出会った草原から、イルシュタットに辿り着いた時の事を思い出していたようだった。
中央広場で見舞われた突然の大雨と、雷の夜の出来事。ミアはあの日の出来事をメリルゥには伝えたのだろうか? 少し気になったが、訊ねる訳にもいかず、宗谷はその事を考えないようにした。
「それならば、明日は晴れるかもしれないな」
イルシュタットの嵐の夜の翌日は晴天だった。それだけであり、今の天気の先行きとは何の関連性も無い事である。
無理に捻り出した、希望的観測に基づいた台詞は、ユーモアに欠けた、冴えの無いものだった。
(……参ったな。どうかしてる。そもそも僕は、馬小屋の異変を調べに来たのではないか)
先程部屋を見回した時は異常が無かったが、それで安心とは言い切れないだろう。タットとラムス、二人が同時に見間違いするとは考え難い。
宗谷は本来の目的の為、うっすらと目を開けると、ミアが心配そうに顔を覗き込んでいた。
膝枕の際、傍らに置いた眼鏡のせいで、視界がぼやけていたが、あまり彼女の顔を正視したくない、今の宗谷にとっては都合が良かった。
「……ソウヤさん、具合はどうですか?」
ミアは心配そうに宗谷の額に手を当て、熱が無い事を確認していた。
「……実の処、あまり良くはないな。何気ない動作一つ一つが、冴えないと感じている処だよ。……そういえば、メリルゥくんは、随分君に懐いているようだ」
宗谷は山小屋でミアに膝枕をされ、恍惚とした表情を浮かべていたメリルゥを思い出した。こうして実際に体感してみると、その気持ちも分かる物である。
「この間、三人で宴をした時の夜、調子が悪そうだったので、メリルゥさんを介抱していました。それから、毎日あんな感じでおねだりされて習慣になってしまって。……少し甘やかし過ぎかもしれませんが、私も悪い気はしなかったので」
ミアは事情を説明しながら、困ったような照れ笑いを浮かべて見せた。世話焼きなミアらしい行動である。毎日あの調子であれば、
あの時のメリルゥはかなり赤葡萄酒でかなり酔っていた。別れた後も案の定、酔いが残っていたようだった。
「では、僕もメリルゥくんに倣って、毎日おねだりしてみようか」
「……えっ? ……あの……ま、毎日ですか?」
ミアは宗谷の突然の要求に、呆気にとられたのか、声がたどたどしくなっていた。恥ずかしさからか、ミアがようやく視線を逸らしたのが見えた。
「冗談だよ。どうもありがとう。大分良くなった」
ようやく何時ものように、からかう事が出来た事に気を良くし、宗谷はミアの膝枕から起き上がると、片膝を付いた恰好で、近くに置かれた眼鏡を拾い上げ、顔にかけた。
「メリルゥくんには、出来る事なら気を許してあげて欲しい。君が彼女の機嫌を良くする方法があると言っていたのでね。参考にしようと思ったが、残念ながら僕には到底真似出来ない事だったな」
宗谷はその場から立つと、肩を竦めて苦笑いを浮かべた。
夕方過ぎの戦闘でも、青銅の魔兵の自爆行動を身を呈して処理しようとした事に対し、メリルゥから強い反発を受ける事になってしまったばかりである。
「それはミアくんにお願いしよう。どうやら僕はメリルゥくんを拗ねさせる事の方が多いようだから」
「そんな事はありませんよ。メリルゥさんはソウヤさんの活躍に感謝していました。それにソウヤさんばかりに無理をさせて、力の無さを不甲斐無く思っていると。それは私も同じ事なのですが……」
ミアは自分の不甲斐無さを感じてか、一瞬、表情を曇らせたが、すぐに凛とした表情に切り替わった。
「なのでスレイルに森林浴に行った時、メリルゥさんと決意をしました。精一杯努力してソウヤさんの力になれるようにと。守られるだけでは……」
ミアが決心の言葉を言いかけた、その時だった。
馬小屋に白い霧のようなものが、うっすらと立ち込め始めていた。
「白い霧……タットさんが言っていた、幽霊……?」
ミアが驚いた表情で、神官の杖を手に取り、立ち上がると、臨戦態勢を取った。出てくるのを待ち構えていたとはいえ、タットのように悲鳴を上げなかったのは立派である。
しばらくすると霧は、唸り声と共に渦を巻き、二人の目の前で、怒った人の形相のような人型を取り始めた。
「ミアくん。後ろに下がるんだ」
宗谷は動じることも無く、ゆっくりと目を細め、唸りながら蠢く霧の様子を冷静に観察していた。
そして、眼鏡に指を当てると、久々に女神が付けた眼鏡の機能である弱点看破を発動させた。
(……失念していたな。最初から、これを使うべきだったのに。やはり心有らずの状態だったと認めざるを得ないか)
宗谷は薄く笑った。眼鏡越しには、視界の範囲にある、相手の弱点部位がサーモグラフィーのように浮かび上がっていた。それは、怒りの形相を模った人型の霧ではなく、馬小屋の隅にある小さな藁の中からだった。
(――霧は、幻覚。これ程の使い手ならば)
「……先客なのだろう。後から来て済まないね。僕達二人の様子は見て居ただろう? 敵意が無いのは分かって欲しい。僕も君と同じ魔術師だ」
宗谷は小さく積もった藁に向かって語り掛けた。
音と視覚を併せた、幻覚の魔術を行使出来るのであれば、高位の魔術の使い手の証である。
暫しの沈黙の後、怒りの形相を模った人型の霧が、風切り音と共に、ゆっくりと消滅していった。
そして、小さく積もった藁の中から姿を現したのは、毛並みの良さそうな一匹の黒猫だった。
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