128.立ち籠める蒸気
(……ミアくんの言っていた通りか。夜風が冷たいな)
このロロアの街は、城郭都市であるイルシュタットと王都ドルドベルクを繋ぐ大街道から少し外れ、山の麓に存在する街である。今日の夜は心地良いと感じるには気温が低く、特に山の方から吹き下ろす風はひんやりとしていた。
水鳥亭から歩き始めて三分。宗谷は女性陣の着替えついでに出た散歩に対し、早くも後悔を感じ始めていた。
ただ、すぐに宿屋に帰り外の肌寒さに引き返したと思われるのも嫌だった。なんという事はない。格好付けた中年のちっぽけな矜持である。
(まあ、雨が降っているわけではないのが幸いだな。あさって収穫祭本番は晴れるといいが。……おや、あれは?)
ひと気のない山間の方角に遠くに靄が立ちこめ、双子の月明かりで照らされているのが見えた。
薄れ方と揺らめき加減からして煙ではなさそうに見える。とすれば湯気だろう。
あまり遠出するつもりはなかったが、その正体を何となく察し、宗谷は蒸気の立ち籠める方へ向かっていった。
◇
『露天風呂 無料』
蒸気の発生源の近くでは、そう書かれた木の看板が立てかけられていた。
(やはりそうだったな。三日の旅で少し汗をかいている。……お誂え向きか)
この肌寒さの中、渡りに船である。三日間の移動の事もある。ここで汗を流すことが出来れば今日は快適に寝ることが出来るだろう。
宗谷は辺りに誰も居ないことを確認すると、外套とビジネススーツを脱ぎ異次元箱にしまうと、双子の月明かりに照らされる露天風呂に入った。
冷えた身体に熱が伝わっていく。湯は四〇度くらいだろうか。
これならば先程から山から吹き下ろしている風の冷たさが心地良く感じることが出来そうだった。程良い案配である。
「やあ」
突如、誰も居なかった背後から声を掛けられた。
今のは聞き覚えのある声である。宗谷は即座に振り返った。
「魔将殺しソウヤ。奇遇だな。やはりロロアには温泉を楽しみに?」
裸で腕を組み、仁王立ちする赤い長髪の青年。
温泉に居たのは魔勇ベルモントだった。当然黒タイツは身につけず素っ裸である。
「……ベルモントくんか。驚いたな。全く気付かなかったよ」
「ふっ。気配がしたから姿隠しの魔術で隠れさせて貰った」
それは覗き目的ではないかと思ったが、宗谷は特に追求しなかった。彼も全く悪気もなく気にしてもいないようである。
「ロロアは温泉でも有名なんだ。実の処、依頼を受けようと思った理由の一つである。イルシュタットの情報収集、それと収穫祭に参加してみたいといった複合的な理由という訳だ」
仁王立ちを解いたベルモントは再び湯船に浸かり、大きく息を吐いた。
「なるほど。道理で白銀級の依頼でベルモントくんのような実力者がいるわけだ。僕は散歩をしていて偶然ここを見つけただけだよ。風が冷たかったからね。ついつい引き寄せられたという訳だ」
その後、二人は暫く無言で湯船に浸かっていたが、やがてベルモントの方から口を開いた。
「ソウヤ。イルシュタットの景気はどうだ」
「ベルモントくん、それはイルシュタットの情報を知りたいという事かな」
「ああ。その通り」
「僕も王都ドルドベルクの情報が欲しい。交換で良ければ応じよう」
宗谷がそう問いかけるとベルモントはゆっくりと頷いた。交渉成立である。
「イルシュタットは有り体に言って大変な事になっている。ベルモントくんは赤角を知っているかな」
「ああ、精霊剣士のセランが追っている白銀の魔将の個体名だな。リンゲンが壊滅したらしいが。……それが聞きたかった情報の一つだ」
「セランくんと知り合いだったのか。僕は依頼で偶然リンゲンに向かっていてね。恐らく誰よりも当時の状況を知っている」
「……リンゲンに? ……では、もしかして赤角を目撃出来たのか?」
「ああ。遠目で見るだけで近づけなかったが。……赤角は魔王化を起こしている。世界の危機の手前かもしれない」
「魔王化だと」
ベルモントが驚愕の表情と共に呟いた。
「魔王化って。……ソウヤ。それは本当な話なの」
突然声がした。宗谷が上を見上げると、大きな岩陰に人の姿。
それは闇妖精の少女だった。ツインテールは解かれ、長い銀色の髪はしっとりと身体に張り付いているが、間違いなく赤い月のメンバーの一人、リタである。
「……おや、リタくんだったかな。そんな処に居たのか」
「名前を覚えていてくれて光栄。気付かなかった? それなら嬉しい。気配を消すのがあたしの仕事の一つ。……くしゅん!」
リタは一つくしゃみをすると岩陰から湯船に飛び込んだ。どうやら裸で潜んでいたらしい。
そして彼女もどうやら、そういった事を気にしないタチのようだった。メリルゥもそうだったが、エルフ族における習性なのだろうか。
「……なに? あたしは見られても気にしないよ。どうせ平坦な身体には興味ないでしょ」
「コメントに困るな、リタくん。……魔王化については本当だよ。おそらく王都に流れる情報としては、魔王化の疑い止まりになっていると思うが」
ベルモントは筋肉隆々とした腕を組んで天を仰いだ。考え事をしているようである。
「……ふむ。少し興味が沸いてきたな。ソウヤ。その魔王化情報だが、他に証人は居るのか」
「ああ、もう一人いるが今は連れていない。シャミルという猫妖精の使魔だ。白金級の冒険者であるセイレンくんとフィリスくんのパーティーに参加している。この二人を知っているかな」
「……猫妖精。どうやら魔術はほぼ極めているようだな。……その二人はもちろん知っている。……弓聖フィリスはどうしてるかな? 彼女は王都でも最強の射手だった。赤い月にも何度か誘ったが断られてしまったよ」
「リンゲンで狙撃の援護を数発貰ったが、怖いくらいの実力だね。……彼女の感情の事なら分からないな」
感情が希薄そうな黒髪の半妖精の姿を思い出しながら宗谷は告げた。やはり王都本部の冒険者ギルドを含めても、唯一無二の射手のようである。
「……あの人はそんな難しくない。昔はともかく今はセイレン大好きで大体説明出来るし。……そのシャミルっていう猫妖精は大丈夫? お邪魔虫は射貫かれても知らないよ」
リタが両手を頭の後ろで組みながら淡々とした様子で告げた。