104.夜の帳が降りた頃
程なくして、シャミルが榛色の髪の少女を背負いながら、暗闇の向こうから走ってきた。頭上の猫耳が激しく動いている。顔には汗が浮かび、息も絶え絶えな様子で、必死の形相だった。
これまでの人型を取ったシャミルの動きを見る限りでは、反射神経や機敏性には長けているものの、筋力は人間と大差が無い、あるいは劣るくらいと推測できた。幼い少女とはいえ三〇キロ前後はありそうで、背負っての全力疾走は、シャミルにとってかなりのハードワークだったようだ。
少女の方は足の痛みを堪えつつも、目を閉じながら、シャミルにしがみ付いている様子が窺えた。
「……主、御無事でしたか! はあ、はあ」
シャミルは少女を厚布が敷かれた地面に下ろすと、自らも脱力しながら、その場にへたり込んだ。照明による魔法の灯りに煌々と照らされたシャミルの顔は、酷く青褪めているように見えた。緊急事態だったとはいえ、不慣れな役割を与えてしまったかもしれない。
「シャミル、よくやった。何か気づいた事は」
宗谷はシャミルと少女の二人に、先程準備しておいた、水の入った容器を手渡すと、シャミルに質問をした。
「……ええ、特には。……移動中に見渡した限りでは、周辺には誰も居なかったと思います」
猫妖精には、暗がりを見通す夜目に加え、野生の勘による高い索敵能力がある。周囲に異変なしという報告は信頼して良さそうに思えた。
「それとお嬢さん──エミリーと言うのですが、地下のある葡萄酒の蔵に一人で避難していたみたいです。火の手が回らなかったのは奇跡ですね」
シャミルの報告から、彼女──エミリーが助かったのは、偶発的な要素が強いように思えた。地上に居てリンゲンから退避できなかった者は、おそらく皆殺しにされているだろう。そして退避した者も青銅の魔兵の追っ手を放たれ、殺害されている可能性が高い。
「わかった。シャミルは暫く休んでくれ。僕一人じゃどうにもならなかったな。君を使魔にして良かった」
宗谷の労いを受けると、シャミルは安堵の表情を見せ、容器の水を飲み干すと、ぐったりと肩と顔を落とし項垂れてた。
「……猫耳。猫妖精は獣人だった?」
お茶を啜っていたフィリスが、黒目を大きく見開いて、少し驚いたような表情を浮かべていた。これまで大きな感情の起伏を表さなかった彼女が、はじめて揺らぎのようなものを見せた瞬間だったかもしれない。
「さあな。猫の王っていうくらいだから、普段は猫なんじゃねえのか? ……私の出番だな。後は任せろ」
セイレンが鞄から至高神の意匠が施された、司祭の杖を取り出した。
明らかに鞄より丈のある錫杖である。どうやら収納されていた鞄は異次元箱と同効果を持つ魔法道具らしい。
通称、異次元鞄と呼ばれるそれは、許容最大容積は魔力の強度によって様々だが、最低でも金貨一〇〇〇枚、容積によっては、金貨何万枚と天井知らずの価値を持つ古代遺物である。それを所有しているという事は、彼女が白金級の冒険者として成功をおさめている証左と言えるかもしれない。
「エミリー、よく頑張ったな。……この腫れ方だと多分骨がイってる。あれを使うしかないか」
セイレンの見立てだと、エミリーは骨折しているようだった。酷い折れ方ではないようだが、当分の間は痛みは引かないだろうし、この状態で、イルシュタットまでの長距離の移動は困難を極める。正に彼女の行使する神聖術の力が必要な局面だった。
「──至高神よ。彼の者の激痛を癒す奇跡を齎し給え。『重傷治癒』」
司祭の杖を構えたセイレンが詠唱を終えると、錫杖から強い緑の光が放たれ、エミリーを包み込む。すると、彼女の足の腫れや顔の擦り傷が、完全に消えていた。
(──重傷治癒。高位の司祭で間違いないようだな。それに加えて、青銅の魔兵を仕留める投斧の達人か)
高位の神聖術に加え、聖斧と呼ばれる投斧による白兵戦や間接攻撃もこなすのであれば、中々の万能手ぶりである。彼女が白金級に相応しい実力を備えているのは疑いようがなかった。
厳格な至高神の司祭にしては、粗野な態度が見られたが、高次元の神聖術を行使できるという事は、間違いなく高い信仰心が備わっている。
神は表向きの振る舞いだけで力を授けるわけではない。世の中には、聖人を装っていても、大した実力の無い聖職者が往々にして存在した。
「良し。そこの猫妖精──シャミルと言ったな。怪我は?」
セイレンが司祭の杖を構えながら、力無く項垂れているシャミルを見下ろして訪ねた。
「青銅の魔兵の戦闘で、手の甲に擦り傷が。……あ、いえ、かすり傷なので特に問題はないです」
途中から顔を上げたシャミルは、目の前のセイレンの迫力に圧されたのか、慌てて遠慮するように両手を広げ、断る仕草をとった。
「……怖がんな。お手柄だ。その怪我はイルシュタットで完璧に治してやる。……おい、ルイーズ、ぼうっとしてんな。出番だ」
セイレンは司祭の杖を鞄にしまうと、役目と言わんばかりに、一連の治療を見守っていたルイーズに振って、地面に座り込んだ。
辛い役割を任されたルイーズは、複雑な表情を浮かべていたが、この場にいる面子では、間違いなく彼女が適任だろう。沈黙したまま様子を見ているセランやフィリスは、こういった状況での対話に向いているとは思えなかった。
宗谷も黙ったまま、それを見ていた。ルイーズに申し訳ない気持ちはあったが、つい先程、初対面のエミリーを怖がらせてしまった事を思い出していた。今なら宗谷に対する印象も大分違っているかもしれないが、それでも自分がルイーズ以上の役目を果たせるとは思えなかった。
「……弱気になるな私」
覚悟を決めたのか、ルイーズは両手で自らの頬を強く叩くと、震えているエミリーの下へ向かい、足を崩して座った。呆然としている榛色の髪の少女と視線を合わせる。
「……こんにちは。エミリー。私達はイルシュタットから救援に来たの」
ルイーズの言葉に対し、エミリーの反応はなかった。恐怖が甦ってきたのか、水の入った容器を持つ手が小刻みに震え始めていた。
「……本当に、ごめんなさい。遅くなって」
続けて出た言葉は簡潔だった。ルイーズは申し訳なさそうに頭を下げ、そしてエミリーをそっと抱きしめた。普段のルイーズとはまるで違う、暗く沈んだ声。それでいて、不快を感じない落ち着いたものであった。
それから少し遅れて、エミリーの慟哭が、夜の帳が降りた空に響き渡った。
それを耳にした者の反応は様々だった。セランは抱き合うエミリーとルイーズから目を反らすように背中を向け、強張った表情で周囲を警戒していた。
淡々としていたフィリスも、少しやりきれないような表情を見せている。
セイレンは歯を剥き出しにして顔をしかめ、リンゲンに破壊を齎した悪魔に対する怒りの感情を隠そうとしなかった。
『主……赤角は捨て置けない存在です。絶対になんとか始末しなくては』
項垂れているシャミルから飛んだテレパシーの通信には、らしからぬ怒りの感情が込められていた。
宗谷も同じ思いである。赤角の存在自体は、以前にセランとルイーズから聞いてはいたが、その時は、どこか他人事のような気持ちだった事は否定できない。現実として目の当たりにし、当事者の一人となって初めて感じる怒りがあった。
そして魔王化の進行の事がある。あらゆる意味で赤角が捨て置けない存在なりつつあるのは間違いない。だが、破滅を齎す神出鬼没の悪魔を引きずり出す方法も、そして、確実に仕留めるだけの戦力も整っているとは言い難かった。
前途は多難である。宗谷はかすかな苛立ちを覚えつつ、闇に閉ざされた天を仰ぎ見た。
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