冷静に聞く番
キミーの顔はすっきりしていた。晴れ晴れ荘に居た時のような、目の下にくまを作って疲れ切ったような顔ではなくて、自宅でよく眠って少し元気を取り戻したのだろう。きっと頭も、あの時よりは冴えてるはずだ。だからこそ、今、こうして冷静に俺と向き合うことができているんだろう。
我がままを言って出て行った俺のことを、頭から否定したり怒鳴りつけるようなことをしないで、こうして受け入れて話を聞いてくれるんだから、キミーはなんて良い嫁なんだ。感心する。
「あのね」そんなキミーが話しはじめた。今度は俺が冷静に聞く番だ。「ダイチ君が出て行く時、私が言ったこと・・・覚えている?」
あの時のことを。キミーはなんて言っただろうか。
キミーは「出て行け」とは言わなかった。
なんて言ったっけ?
「今の生活で機械がどんな働きをしているか、どんなに機械が大切かを話したよな」
「その後は?」
「その後は・・・俺が“大地”に生きる人間らしく暮らしたいって言ったんだよ。それが理想だって。それでキミーが“だったらダイチ君の理想の大地のあるところに行けばいい”って言ったんじゃなかったか?」
「ううん。そんなこと言ってない。ダイチ君の理想は何なのか、大地があれば良いのか、理想の大地って何なのか?って聞いたんだよ」
「そうだったか?」
「うん」
思い出せない。あの時は、キミーは冷静に見えたけど、俺は機械を捨てた事を否定された気がして、負けたくなかったんだ。
「それで“理想の大地”なんてあるはずがないとか、絶対あるとか、そういう言い合いになって、」
ああ、そうだ、思い出した。
バカみたいに言い合って『あるって言ってんだろ』『あるわけないでしょ』『あるよ!』『じゃあ見せてみなさいよ!』『あー、分かったよ、見つければいいんだろ、見つければ!』『やれるもんならやってみなさいよ』的な変なケンカになって、出て行ったんだ。
理想の大地を探して出て行ったのは俺の方だ。嫁を捨てて出て行ったんだ。
キミーだって、売り言葉に買い言葉で「見つけてみろ」とは言ったけれど、それは、出て行けって意味じゃなかった。俺が勝手に追い出されたと思っていただけだったんだ。
「ダイチ君が出て行ってから、私が追い出しちゃったんだって気づいて、すごく後悔した」
キミーは弱々しい声になった。
違うのに、キミーは俺のこと追い出したんじゃないのに、そうだと思ってしまったんだ。俺は頭に血が上っていたのもあって、お互いの真意がわかっていなかった。ただその場の流れで、俺は出て行くことになって、それで、キミーは残ったんだ。
「キミー・・・」
「ダイチ君の理想は・・・大地のある生活。そう思ったら、すごく悲しかった」
「キミー・・・」
「だって、ダイチ君の理想には、私は、いないんだって、」
「ごめん!そんなつもりじゃなかったんだ!」
こんなこと、言わせるつもりなんてなかったんだ。本当に、ただのケンカの勢いだったんだ。
こんなに傷つけるなんて思いもしなかった。キミーが一番大切なはずなのに、キミーがいる生活こそが、俺の理想だったはずなのに。
「キミー、ごめん」
抱きしめると、キミーは震えて泣いていた。
「自分が言った言葉で、誰かがいなくなるなんて、思いもしなかった。追い出すつもりじゃなかったの。ごめんね」
キミーは小さな声で言った。
「俺こそ、本当にごめん。キミーの気持ち考えないで。出て行って、帰ってこなくて」
俺はずっと謝りたかった。キミーもきっと同じだろう。
どちらともなくケンカをふっかけて、引くに引けなくなって出て行った俺。ささいなことで、人間はすれ違う。だけど、どちらともなく謝って、そんで、ささいな、こんな心の交わりで、許すことができる。
ああ、オーナーの言っていた、俺たち夫婦の歩み寄り、って意味がよくわかった。
キミーの肩に手を置いて、目を見て伝える。
「なあ、俺、またこの家に戻ってきても良いか」
キミーはまたいつもの真面目な顔をして、だけどホッとしたように頷いた。
ここからが本当の歩み寄りだ。
俺たちは、自分の思っていること、望むことを話しあうことにした。だけど、俺たちはとても気を使った。気を使う仲だなんて水臭いと思うだろうか。いや、違う。俺たちは一番近くにいる家族だ。
だからこそ、親しき仲にも礼儀がある。
相手のことを尊重する。
そして、自分のこともちゃんと言う。
この微妙な距離感が必要だったんだ。甘えず、離れず、その距離をお互いに測りながら近づいて、同じ時間を過ごそう。結婚すれば自動的に夫婦になるんじゃない。同じ時間を二人で築いていかなけりゃならない。そうして、今度こそ、良い家族になろうじゃないか。それが俺の、理想の家だ。