12年という長い年月
クラウチさんはしっかりしていた。衝撃の事実だったはずだ。今の今まで自分が誰かもわからず、ボケた爺さんとしてここでご隠居暮らししていて、いきなり思い出したのにだ。だけど、それは12年という長い年月だ。混乱しないはずがない。
それなのに、すごくしっかりして見えた。
「せがれや」
クラウチさんが呼ぶと、俺たちを案内してくれたあの男の人がやってきた。
「なんだい?」
「今は、何年だね?」
クラウチさんがそう言うと、男の人は俺たちを見回して、それからクラウチさんの横に座った。
「今は432年だよ」
男の人が教えるとクラウチさんは大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
「432年。そんなに。儂がここへきたのは・・・420年、か?」
「親父、思い出したのか?」
「ああ」
クラウチさんと男の人はお互いの顔を見ていた。
それだけで、この2人が今までいかにお互いを信頼してきたのかがわかる。クラウチさんもそうだけど、この男の人もクラウチさんと同じ“身元不明者”なんだ。同じ身元不明者同士、助け合ってやってきたに違いない。そう想像させる雰囲気だった。
「良かったな、親父。今まで…一緒に居てくれて、ありがとう」
「ああ」
良かったというには、2人ともとても寂しそうな表情だった。
だけど男の人はすぐに俺たちの方へ向き直り、頭を下げてこういった。
「親父、父、を、よろしくお願いします」
「せがれや」
この2人は、名前もわからずに生きてきたんだ。お互いを“親父”“せがれ”と呼んで、家族として生きてきたんだろう。
そして今、クラウチさんの身元がわかったことで、クラウチさんはこの施設を去る。それは仕方のないことだ。ここは身元不明者の施設だから。
そうしたらここに残るのはこの男の人ひとりだ。
なんか、やるせない。
オチ君のように養護施設に引き取られた子どもは、わりとすぐに身元を引き受ける人が現れるもんだけど、ここにいるような大人になると、なかなか身元を引き受けられる人はいない。大人だから、もし一人で生きていけるとしても、どこに行っても一人ぼっちだ。それならば、もしかすると来るかもしれない、家族の知らせをここで待っていたほうが良いのだろうか。
「あの、もしよかったら、あなたも一緒に晴れ晴れ荘に来ませんか?」
そこで出たのが、このサトさんの発言だ。
え、良いの?この施設から出ても良いのか?
「でも、俺はまだ名前が、」
男の人は少し困っていた。
そうか、身元不明者ということは自分の名前すらないということか。でも、名前なんて何でもいいんじゃないだろうか。
「15年間は捜索対象ですから勝手に名前を付けることはできないと聞きますが、それまで晴れ晴れ荘にいることは問題ありません。役所に届けを出しておけば、連絡は晴れ晴れ荘に来ますから」
サトさんがそう言うと、男の人の表情が急に緩んだ。
そりゃそうだよな。介護が必要なわけじゃなくて、健康な成人男性なんだから、住むところくらいどこだってかまわないよな。
そういうことで、クラウチさんとこの男の人は、晴れ晴れ荘に引っ越すことが決まったのだった。
さすがにサトさんは法律とかそういうことに詳しかった。身元不明者なんてなかなか接する機会もないだろうに、ちゃんとそういうことも勉強しているんだろうな。
そんなことを考えていると、クラウチさんがオーナーに顔を向けた。
「ナオ、いつも眼鏡をかけるようにしたのかね?」
「はい。オーバさんが、その方が良いって教えてくれました」
「そうか。良い同居人が来てくれて良かった」
「はい」
一度ためらうようにして、それからクラウチさんはオーナーの眼鏡を取った。
想像していたことではあったけれど、それよりももっとずっとすごいことがオーナーの顔を作っていた。
俺は、オーナーは目が見えないんじゃないだろうかと、薄々考えてはいたんだ。だけど、これは想像もしていなかった。
オーナーの顔には、あるはずのものがなかった。だからずっと、昼夜を問わずこの黒い眼鏡をかけていたんだ。暗い室内で黒い眼鏡なんて必要ないのに。
驚きすぎて、悪いと思うのに目が離せなかった。
オーナーの目は、瞑っているとかそういうんじゃなくて、目そのものがなかった。酷い傷だったことが見て取れるくらい、ケロイド状になっていて、眼球のないそこは落ち窪んでしわがれていた。
オーナーは泣かない。
涙を流さない。
流さないんじゃなくて、涙は出ないんだ。だからどんなに哀しくたって苦しくたって、涙を見せることがない。
その衝撃に、俺は何も言えないでいた。
「家に戻る前に、儂がどうしてここに来ることになったのか、話しておこうと思うのじゃが」
クラウチさんはオーナーに眼鏡を返しながら言った。
確かに、知っていたほうが良いよな。ていうか、きっとオーナーはどうしてクラウチさんがいなくなったのか、知りたいはずだ。
俺たちは頷いて、椅子に座り直した。
せがれさんの専用機械がお茶のおかわりを配ってくれた。
「あの日、儂はナオのために二つのことをするために町へ行った。ひとつは、あの家をアパートにするので不動産屋を訪れるためだ。その手続きはすぐにできた。前々からアパートにするために部屋の整備などはしておいたからな、あとは不動産屋で広告を出してもらうだけだった。無事不動産屋での手続きを終えて、次に役所へ行くところだった」
「役所へ?」サトさんが聞いた。
「そうじゃ。もうひとつの目的はナオの住民登録をするためだ」
その言葉に俺は胸が苦しくなるのを覚えた。
みんなもきっとそうだ。シンと静かになるしかないくらい、重要なことだった。
だってそうだろ。オーナーの住民登録をするため、ってことは、オーナーはここの身元不明者と同じ、名無しってことだ。住民登録されていない人間だったんだ。