何も持たず
女の人はデヴィという名前ということだ。
「大変だったわね」
オーバさんが彼女に朝食を差し出しながら優しく声をかけた。
「ご迷惑をおかけしてしまって、すみませんでした」
デヴィは目の前に差し出された朝食の皿も目に入らないほどに下を向いて、ひたすら恐縮している。
「良いのよ。ほら、ご飯。召し上がって?」
「ご飯?」
デヴィはポカンとした顔をあげた。見慣れないものが食べ物だとわからなかったのだろうか。いやでもなあ、食べ物の匂いがするからわかるだろう。
「この家ではね、食事はこういうものなのよ」
「トコロさんが作ってくれたんですよ。スープは熱いから気を付けて」
オーナーも甲斐甲斐しく彼女にスプーンなどを渡している。
「でも」
「良いから、食え」
トコロさんが優しさのかけらもない口調で言うと、彼女はやっとスプーンを持った。
ゆっくりとスープを掬い、口元に持っていく。啜るようにしてほんの少し口に入れただろう。
デヴィの目が少し大きくなって、スプーンのスープを見た。
「おいしい」
トコロさんがゆっくりと頷いている。
デヴィはスープをもう一口飲んだ。よく味わっているようで、小さく刻んだ野菜をゆっくりと噛んでいる。
彼女の頬に涙がツと零れた。
それでもデヴィはそれに気づかないようで、ゆっくりとした動作で、何度もスープを口に運んでそれを味わった。
誰も何も言わないで彼女の食事を見守っていた。
食事が終わると、彼女は少し話をした。
それによると、あの暴力夫は以前はそれほどではなかったらしい。一度病気をして入院し、戻ってきたらあんなになっていたらしい。
「初めのころは私も逃げようとしたんです。だけど、もうちょっとで警察や施設に逃げ込めるというところで、どうしても捕まってしまって」
デヴィは腕に着けた端末を擦っていた。この機械の便利なところは色々あるが、まずは位置情報がしっかりしている。彼女がどこにいるか、自宅にあるコンピューターからは一目瞭然だ。場合によっては夫の端末にその情報が送られるようになっているのかもしれない。もう少しで逃げられそうだとしても追いつかれるというのはわかる。
「連れ戻されると前よりもっと暴力が酷くなって、それだったら逃げない方が良いと思うようになりました」
だから彼女は、2階の窓から放り出されるようなことがあっても、すぐに家に戻ろうとしたのか。
「どこにいたってきっと追ってくると思うと怖くて」
「彼は厳重な施設に収容されました。もう大丈夫です」
サトさんがそう言うと、デヴィは思いつめたような顔をした。あんな男でも自分で選んで結婚した男だ。色々複雑な思いがあるのだろう。
それでも彼女は大きく息を吐くと、安堵したように肩を落とし、サトさんに礼をしたのだった。
デヴィは自宅に帰ることを拒んだので、晴れ晴れ荘に住むこととなった。さすがに窓から放り出された思い出のある家は嫌なんだろう。家の中がどうなっているか、あの男の暴れっぷりを思い出すに、きっと凄まじいものがあるに違いない。
何も持たず、デヴィはそのままこのアパートの3階に住むこととなった。
サトさんに連れられて、一度役所に行き、事情を話したうえで転居届を出し、晴れ晴れ荘に住むために現金を手に入れた。
こういう明らかに正しい理由があれば、役所や銀行の方も現金を手に入れることを渋ったりしないらしい。
デヴィは心身ともに傷だらけだった。部屋に籠り食事に誘うとやっと渋々下りてくるような感じだった。
食事もあまり食べない。
「お米は食べにくいのかもしれない」
「おにぎりにしてあげたらどうかしら」
「パンのほうが良いかもしれないですね」
トコロさんが考え込む横で、オーバさんとオーナーとで意見を出し合っている。
麺にしても、米にしても、パンにしても、あまり固形物は食べないらしい。彼女がやっと食べるのは専らスープばかり。
それって、今まで飲んでいたあのドロっとしたやつと似ているから、違和感が少ないということだろうか。
安眠装置のない寝台。指一本で操作できないようなスイッチ類。準備に片づけなど、今までやったことがないことばかりのこの家にやってきて、彼女はどう思っているのだろうか。
「みんなでやれば難しくないわ」
「難しいです」
「慣れればできるわ。少しずつでいいのよ」
「できません」
オーバさんが生活の仕方を丁寧に教えていたが、彼女との会話はちぐはぐだった。
デヴィも悪気はないのだろうが、どうも馴染めていないような感が否めない。
そうして2日が経つと、彼女はついに爆発した。
「できないって言ってるでしょ!こんなの無理なの!自分でなんて何もできないのよー!」
こう来るか。
俺の率直な感想はこれだった。
まさか、親切にあれこれしているつもりが、デヴィはそれが嫌だったんだ。それで逆ギレして泣いて怒った。あの暴力亭主ほどではないにしても、食卓にある食べ物も食器も、手に届くものは投げてしまった。トコロさんが死にそうに茫然としていた。
「落ち着いてデヴィ、ごめんなさい。無理強いをするつもりはなかったのよ」
オーバさんが彼女を慰めているあいだ、オーナーはおろおろしていて、オチ君はソファの陰に隠れてしまった。
「今までみたいな機械がないと、やっぱり生活しにくいの?」
「そう言ってるでしょ!」
俺が聞くと、彼女はやっと話が通じたとばかりに俺に向かって怒った。あの日から、彼女の目をちゃんと見たのはこれが初めてかもしれない。
仕方なく、デヴィは施設に行くこととなった。そこは社会不適合者が行く施設ではなく、自立のための支援をするところだ。
良く考えれば、最初からそこに行けば良かったんだ。
それが、俺たちはなんだか、この家に居れば慰められて心が穏やかになるんじゃないか、なんて思っていたんだ。
だけど、違った。
俺たちにとっては居心地の良い、優しさあふれるこの家だからと言って、誰にでも馴染めるわけではないんだ。それどころか、この家の旧式さは確かに筋金入りだ。俺だってそういうのに最初っから違和感がなかったというのはウソになる。自分から一生懸命馴染もうと努力したことも多いんだ。
余計なおせっかいだったけれど、まあこいうこともあるってことだ。